第十三話 消えたあやかし姫
緑薫る森の奥に瞬間移動して早々八巻さんは急いたように歩き出した。
この白塀の辺りは正確にどこからかは知らないけど幻術も掛かっているって聞いていたから、置いて行かれないよう僕は急いで制服ズボンを腰まで引き上げると追い掛けた。ベルトを抜いちゃったから些か腰回りが緩いけどずり下がる程じゃない。脱衣所から直接連れて来られて靴下なのはもう我慢する。
もたもたしている僕に気付いてか、先を行っていた彼女は一度立ち止まって肩越しに振り向きはしたものの、特に何を言うでもなく前を向いたっけ。
生乾きの布の感触に微妙な心地ながらも僕が追い付くと、八巻さんは言った。
「詰まらないですね、ウサちゃん柄ではないのですか」
「え?」
「千尋様にはあなたの下着は何の変哲もない無地のボクサーだったとご報告しておきますね」
「いやいやいやそういうとこまで忠心示さなくていいですから! 大体普通は何の変哲もないと思いますし! そもそも僕のじゃ意味ないですよ。むしろ逆効果です」
「何故です?」
「自分は見てないのにってすごく嫉妬するんじゃ?」
「……それは一理ありますね」
「でしょう! ここは何も見なかったことにするのが千尋さんのためです」
「確かにそうですね。ではそうしましょうか」
かくして僕のパンツは守られた。
重厚で立派な正門を潜り、八巻さんの後ろに続いて再び足を踏み入れた和風大邸宅。石畳の広い玄関を入ったそこでは、使用人らしき狐の妖怪たちが広い板張りの廊下で右往左往していた。
妙にスレンダーで割烹着を着て姿勢よく二足歩行している。中には足元が火の玉の尾みたいになって浮遊しているのもいた。
「他にも住人がいたんですね」
「ええそれはもちろん。私一人では到底お屋敷の全ての雑事を賄えませんから」
「ああ確かに。すっごく広そうですもんね。彼らも妖怪なんですよね」
「ええ。管狐という下位の種族です」
「ところでその、千尋さんがいなくなったって言うのは、誰かに連れ去られたってことですか?」
「いえ、どうやら自発的にここを出られたようなのです」
「自分で? どうしてまた。体弱いのに……」
疑問に一人唸る僕を八巻さんは読めない瞳で一瞥した。
靴を脱いで廊下を近付く八巻さんの姿に気付くと、管狐たちはピタリと皆一様に動きを止め朗報を期待するような顔付きになった。程なくわらわらと彼女の元に寄って行く。……八巻さんが動物園のえさ係に見えた。
後に続かない僕を訝しく思ってか、振り返った八巻さんは「ああ、靴が」と合点し引き返してくる。
管狐たちもようやく汚れた足では上がれず玄関先に立ったままだった僕を見つけると、また一斉に動きを止めた。彼らは人語は喋れないのかキーキーと甲高い声で八巻さんに向かって何かを訴え始める。妖怪同士言葉がわかるのか、八巻さんは静かにしばらく話を聞いていた。
「やはり、来訪者は陽向殿でしたか」
「陽向? ……って弟の?」
管狐たちから話を聞き終えた八巻さんからの予想外の言葉に、僕は内心首を捻った。
「ええ。彼らに顔を確認させる意味合いもあり、あなたにここまで来てもらったのです。あなたとそっくりな金髪の少年が一人で乗り込んできて、千尋様と大層な喧嘩をしていた……と彼らが証言しています」
「乗り込んでってまさかそんな……。陽向はバケモノ道に、妖怪世界に入れると……?」
「この屋敷にいらしたのなら、そうでしょうね」
「でも、僕たち人間が自ら入れるものなんですか?」
「武道にも通じますが、訓練や修行を積み、知識さえあれば人間にも道を繋ぐことは可能です。まあ出来る出来ないはその人間の才能に左右されるようですが。加えさせて頂くと、この屋敷を取り巻く幻術を突破して正門に辿り着いた力量は、標準の修練者のそれを遥かに凌駕していますよ」
「ええと……?」
いまいちピンとこない僕に向かって八巻さんはちょっと呆れた目になった。
「あなたの弟殿はそこらの霊能者や祓い屋たちよりも余程優秀だという意味です。十把一絡げで纏め売りされているような巷の連中には、この屋敷の幻術を回避できませんからね。まあそれ以前に月並みの能力者がこの屋敷の所在地を探し出すのは困難でしょうが」
「へえ、そうなんですか」
知らなかった。陽向って凄いんだ。
ただ、素直な称賛も湧くけど、僕としてはちょっとショックでもあった。
……ずっと僕に隠してたのか。
オカルトに詳しい詳しいとは思ってたけど、まさか八巻さんの言うようなレベルだとは思いもしなかった。
「それで、陽向は何をしにここに? 道場破りよろしく喧嘩をしにってわけじゃないとは思いますけど……って、あれ? じゃあ千尋さんと直接顔を合わせたってことですよね?」
蒼白になる。
「ここまで来た目的って、まさか告白の返事?」
それくらいしか動機を考えられない。
会うつもりはなさそうだったのに、急にどうしてだよ。
もしかして僕の行動が遅くて決着がつかないのに業を煮やして、自分自身でさっさとケリを付けようと?
「ど、どうしましょう八巻さん、陽向が直接千尋さんにお断りして、だからショックを受けた彼女は自棄になって家出をしたんじゃ……!?」
陽向は嫌いと断じたものに対しては言動が甚だ厳しい。
鋭い言葉を並べ立てて彼女を振ったに違いなかった。
……だとすれば、彼女の失踪は僕にも責任がある。
「きっと身代わりの件もバレましたよね」
好意を惜しげもなくさらけ出していた相手が実は本人ではなく、その偽物はあろうことか恋をぶち壊そうとしていた。
「千尋さんを見つけたら、謝らないと」
赦してもらえなくても仕方がない。
なし崩し的とはいえ、たとえ一度でも他者の大事な気持ちを軽んじた報いだ。
詰られようと叩かれようと殴られようと、僕は甘んじて受けなければならない。
「私に有無を言わさず巻き込まれたというのに、あなたは実にお人好しですね」
「きっかけが何であれ、最後にどうするかを決めたのは他でもない僕自身ですから……」
「なるほど……。あなたは義理堅くもあるようですね」
「そんなんじゃないです……」
これは謙遜じゃない。本当に千尋さんには悪いことをしたと思う。
俯いて罪悪感に苛まれる僕を眺め、八巻さんは溜息をついた。
「――ですが、どうやらその件ではないようです」
「……へ? 違うんですか? 弟がここに来たのもそうですし、千尋さんの家出の理由らしい理由なんて告白関係以外に思い付かないですよ」
困惑する僕へと、八巻さんは形の良い眉を寄せ軽く渋面を作った。
「陽向殿は、どうやらあなたが何者かにかどわかされたと千尋様を責めていたらしいのです」
「は? 僕の件で? それはいくら何でも周知が早過ぎませんか? ついさっきの出来事でしたし、八巻さんが早々に助けてくれたじゃないですか。あ、そういえば僕の鞄を届けて下さってありがとうございました」
管狐たちの不安そうな視線が囲む中、八巻さんは小首を傾げ怪訝そうにした。
「鞄……? 私ではありませんよ」
「え? でも学校に置き去りだったのが家にありましたし」
「……やはりご理解されていなかったようですね。バケモノ道は時として時間経過が人間界の進みとは異なります」
「時間が、異なる? ……まさか」
とある可能性に僕は思わず息を呑む。
「ええ。昔話の浦島太郎を思い出して頂ければおわかりになるかと。まああれは極端な差異が生じた例ではありますが。あやかしの間でも最近は人間界の情報の有効性を考慮して時間経過は揃えるようにしていますし、何百年という明確なズレが生じるケースは滅多になくなっていましたが。それでも長くて数十年単位のズレは未だ少なからずあるのです」
「そんな……。救済措置というか元の時間に戻る手立ては?」
「バケモノ道に引きずり込まれた時点で、人間界との明確な時間の差異を生じさせてしまうのでほぼ防げないというのが実情です。妖怪界が朝だろうと夜だろうと関係はなく、人間界に戻った時点で時間違いとなることが世の理として決定してしまうので、救済は極めて難しいかと。何しろ世の理を曲げるのですから容易ではありません。たとえば普通死人は生き返らないでしょう?」
八巻さんは誤魔化すつもりも慰めるつもりもないようで、静かな目で僕を見ている。
「そして不可逆と言って良いそのようなやらかしは、得てして未熟な妖怪にはままあるのです。――あの河童のように」
気付けば僕は押し黙っていた。
帰宅して家族がさも驚いた顔をしていた。
僕の鞄が部屋にあった。
先に帰宅しているはずの陽向がいなかった。
一体どのくらい経っている?
見た目に家族の老化は感じ取れなかったけど、僕の肺の中の空気はいつになく酷く冷え込んでいた。
「や、八巻さん、僕にはどのくらいのズレが生じたんですか?」
恐る恐る問うた僕へと、彼女は僕が降りかかる重大事に耐えうる器かどうか試すような目をした。
たっぷり間を置いたあと、ゆっくり紅唇を開く。
「――丸一日ですよ」
まるいちにち。
そっか丸一日か、丸一日……。
たったの一円、されど一円、たったの一日、されど一日。
されど、たったの一日…………。
「八巻さん意味深に溜め過ぎっ!」
時は一日遡る。
と言っても既に夜、夕食時にはやや遅めの午後八時過ぎ。
「寄り道してるにしても遅過ぎる」
園田陽向は自宅自室の中を行ったり来たりして気を揉んでいた。
普段ならとっくに帰って来ているはずの兄がまだ帰宅していないのだ。
友達とどこかで遊んでいるにしろ、連絡もなくこの時間なのは兄らしくない。
一度学校まで行ってみた方が良いだろう、と陽向は判断するやコンビニに行くと言って家を出た。
学校までの道のりで、バケモノ道が使われた形跡はなかった。
気配を断ち防犯上のセンサー諸々を幻術で誤魔化し忍び込んだ校舎内、そのあちこちで彼は妖怪が現れた痕跡――残留妖気を感じ取った。道を繋げた形跡もあった。
「くそ、ここからか……!」
両の拳を握ってギリリと奥歯を噛みしめる。
彼のその手には下駄箱付近の廊下の端に誰かが寄せたのだろう、兄の鞄が提げられていた。
「こいつは狐じゃねえな。水の妖怪か。水ね水……ったくよりにもよってまた!」
語気も荒く毒づく彼はその妖怪が繋げたバケモノ道を使おうとして、未熟なその道が感覚的に良くないものだと気付いて取りやめた。
不安定な道を使うのは今の自分の実力では時間や座標に迷いかねなく危険だと知っているからだ。まだそこまで自在な境地にはないが故に。
「狐が大人しくしてないからこんなことになるんだよ。けど気に食わないがあいつから辿るしかない、か」
彼は一度急いで鞄を置きに家に戻り、家族には兄と共に友人宅に泊まると適当な嘘をついた。幸い明日は学校がない。差し障りはないだろう。




