第十話 黒い手
ゴボリ、ゴボリ……。
あのヒトから厄介な気配が遠ざかった。
ソレは初め、好機だと水泳部の練習しているプールの水底から目を向けていた。
水中は棲息環境に近いから道を繋げるのに不都合はなかった。
ただ強いて言えば消毒の塩素が好きではないけれど。
分厚い水の層を超えプールを囲む金網を挟んだその向こうの茂みには、汗を垂らし何かを一生懸命にやっているあのヒトの気配が感じられる。
直接見たいと浮上した。
「ねえちょっとあそこの何!?」
「ええどこ? きゃあ何あれ!」
茂みの向こうに見え隠れするあのヒトをもっとじっくり眺めていたかったけれど、プールの人間の声が自分を指していると気付いて一旦引いた。
邪魔をするなんて腹が立つ。でも溺れさせたいのを堪える。
何故ならそう遠くない所に蛇の気配を感じるので余り不用意な行動は取れないのだ。
今だってプールの水の流動で自らの気配を誤魔化し隠しているというのに。
『――すごく綺麗な沢』
声が聞こえ、ふとした好奇心で水面からあのヒトを覗き見た瞬間を忘れない。
何て美しい魂の輝きを持っているのかと一目で見抜いて見惚れたものだった。
要は一目惚れだ。
だからソレはあのヒトを……少年を欲しいと思った。
故に手を伸ばしてそして…………。
これ以上目撃される前にとちゃぷりと身を沈め、プールの底からバケモノ道へと潜り、ゴボリ、ゴボリとソレはまた機会を窺い仄暗いよどみで孤独にたゆたった。
一部の水泳部の子たちがプールに何かいたとか騒いでいたけど、僕は気にも留めなかった。
花壇の除草作業に忙しかったし、バス通りじゃないからと安心し切って、妖怪の存在なんてすっかり頭になかった。
草取りは予定より早く終わった。
けど今日はその後で美化委員長がやる気を出して掲示板の掲示物を整理更新すると言い出した。皆乗り気じゃなかったのもあって結果的に各学年じゃんけんで負けた一名が委員長と共に残って作業に当たったんだけど……僕がその一人だった。
おかげで鞄を取りに教室に戻る頃には日は傾き、机たちが黄金を反射していた。
橙色に染まった誰もいない教室。
床には、机や椅子が真っすぐに長くて細い影を伸ばしている。
僕は一瞬その光景に目を瞠った。
時に静けさは美の要素であり、また、不吉さの表れでもある。
この場は果たしてどちらだろうか。
「今日はもう部活行っても片付けてる頃だろうし、帰るかな」
家までの距離は近いながらも帰り道を走って練習に充てようか、なんて思いつつ教室中央寄りの自分の机から鞄を取る。
半端に肩掛けして前方ドアから出ようと向かった。
ゴボリ、ゴボリ……。
どこからか水音が聞こえた。
ゴボリゴボリ、ゴボリ……ゴボッ。
首元がざわりとした。
直感する――背後からだ。
条件反射のように素早く振り返れば、教卓の影が異様なまでに蠢いていた。
総毛立って全身からぶわっと嫌な汗が噴き出す。
「な、ん……ッ!?」
何だあれ!?
声を詰まらせ硬直している僕は確かに見た。
こちらに伸びる人ではないものの黒い手を。
水掻きの付いた二本の手。
肩先からしかないそれがゴムのように伸び、無意識に後ろによろけた僕へと容赦なく絡み付く。
「うぐぅっ……!」
口元を塞ぐように巻き付かれ悲鳴すら封じられた一瞬。
――ボッ……!!
ガソリンの上に着火の炎が広がるのにも似た音を立て、群青の炎が僕の体から燃え立った。
まるで体の底の底から肉体さえ飛び越えて表面に現出したような炎はしかし、ほんの瞬きの間に弾けて消えた。
同時に、ドクッ、と心臓が一際強く脈動し、胸が強力なベルトにでも締めつけられたように息が出来なくなった。
すわ得体の知れない妖怪の力で自分が人体発火したのかと戦慄し、命の危険を予感した。
「っ……っ………ぁ…れ?」
けれどその痛みはすぐに消え、少し待っても炎も出てくる様子はもうない。
わけもわからず震える僕だけど、怯んだのは僕だけじゃなかった。
火傷でもしたのか黒い手も僕から離れていた。
まるで、触らないでと誰かの意思が宿っているような炎だったとは、後で思った。
頭が混乱の極みにあるせいかまだ言葉も出ない。
でも、助かった。
おかげで一旦解放され猶予ができた。
黒い手はしばし考えやや迷うようにゆらりとゆらりとその場で揺れていたけど、もう何も出ないとわかると再度僕の方へ襲いかかって来る。
「ひいっ、やっば」
逃走劇の始まりだ。
尻餅を搗いてしまっていた僕は大慌てて飛び起きて転げるように教室から飛び出すと、スライド式の扉を勢いよく閉めてやった。見事にガタンとぶつかった音が響き、うち片方の手は扉と扉枠の間に挟まって痛そうに痙攣した。
攻撃ヒットに喜んでいる暇もなく無人の廊下をひた走る。
肩越しに後ろ確認すれば黒い手は教室の扉を開けて懲りずに追いかけて来る。
「いいいっ!? 何だあれ何だあれ何だあれ! 妖怪だろうけど腕伸び過ぎ! 漫画でだってあそこまで伸びないって!」
追い付かれて堪るかと全力で廊下を突っ切り階段を駆け下りる。いや、手摺りを使って最早途中から飛び下りるって感じだ。
陽向は妖怪なんて無視しろって言うけど、これは呑気に無視できるレベルじゃない。逃げ切らないと絶対にどこかに連れて行かれるやつだろ!
走りながら自身の頬を拭うと、ぬるっとした。
「気持ち悪ぅ~ッ!」
さっき触られた全部にぬるりとした粘液みたいなものが付着している。
無論制服にも鞄にも。
体が溶ける消化液じゃないといいけどおおっ!
気になるけど入念に拭き取っている暇はなく、逃げ切るのが最優先事項だ。
「あああもうこれが陽向の言ってた他の妖怪に狙われるってやつだよな」
ああくそ、注意すべき場所はバス通りだけじゃなかったらしい。
おそらく今の妖怪は僕を狙って近くに道を繋げたんだ。
誰かに助けをと思いつつ、こういう時に限って誰にも出くわさない。
「ああでも誰も居なくてかえって良かったのかもッ!」
僕と同じく普通の人間がこんな常識外の事態に対処できるとは思えない。
もう少しで昇降口。
下駄箱の側面が視界に入った僕はラストスパート。
悪い妖怪の撃退法があるなら弟に聞いておけばよかったよ!
にんにく、十字架……は吸血鬼だ。じゃあ塩とか? あれがナメクジ妖怪なら効くかも。
千尋さんたちみたいなのならいいけど、こういう怖い妖怪は御免被りたい。
斜陽が窓枠の細い影を貼り付ける一階廊下。
先の昇降口は完全なる影の中。
僕はそんな明暗の境界を意識せずに駆け抜け、入った。
影の中に。
――!?
床から伸びた無数の小さな水かきの手が、クッションのように僕を受け止め絡みついた。
「しまっ……!」
そうか、影から出て来てたっけこの手!
暗がりが得意なのかもしれない。
この襲撃ばっかりは陽向にも予測不能だよな。
ああもう自分から火の中に飛び込んだ馬鹿な羽虫だよ。
胸中で悪態をつく僕は、抵抗虚しくあっという間に足元の闇の中に引き摺り込まれた。
今度は炎は弾けなかった。
一度限りなのか、でなければさっきは炎の方もびっくりして弾けてしまったのかもしれない。
トプントプン……、とまるで墨汁のように影が小さく音のない波紋を広げる。
ピタリと治まった後は何事もなかったようにシンと静かになった。
黄昏時の昇降口前の廊下には、不自然にも鞄だけが一つ、ポツリと取り残されていた。
突如引き摺り込まれたのは薄暗い水の中だった。
もがいても浮上せず肺の空気だけがどんどん漏れて目の前を上っていく。
この感覚には覚えがある。
でも、溺れた記憶なんてない。
水泳だって得意な方だ。
じゃあ、いつどこでの記憶なんだ?
確かに僕はこの息苦しさを知っているのに、わからない。
目の奥にちらつくのは、夢の中で見たのと同じ群青色の揺らめきだ。
ああもうホントごめん陽向、それから、それから……――千尋さん。
ごぼりと、僕の口から最後の空気が吐き出された。




