72.双剣士と猫を追う
人間としての欲求や希望は誰もが同じと聞いた事があるけど、果たして本当にそうなのだろうか。
生き物の性とでも言うべきか、どんな局面においても、人という生き物は思い通りには動かない。きっとブレイバーだってそうだ。サイカだってそう。自分の思い通りに動くのなんて、自分しかいないのだ。
突然なんでそんな話を始めたかって?
それはミーティアに殴られたから……なんて冗談を言おうかとも思ったけど、やめておこう。
西東京方面の東京都稲城市という場所で、奇怪な事件が起きた。
東京とは思えないほど静かな町で、市内に住む女子高生が強姦魔に誘拐され、女性を廃墟となった民家に連れ込み、縄で縛り上げたという。それから男が何をしたかは……ご想像にお任せしよう。
余所行き用のスーツに着替えた俺とミーティアは、その事件があった現場にミーティアと共に到着したところだ。
俺がBCUが所有する車両を運転して、現場に着くと、先に到着している車と人の姿があった。
先に到着していたのは警視庁刑事部捜査一課で警部の飯村義孝と、警視庁刑事部捜査一課犯罪捜査係で警部補の佐田大輔。
車から降りたところで、飯村警部が話しかけてきた。
「久しぶりだね明月くん」
「お久しぶりです飯村警部」
「警部なんてよしてくれ。俺とキミの仲だろう」
「あ、いや、まあ、一応仕事なので」
「その娘さんは?」
と、飯村警部は横に立つ金髪でスーツを着たミーティアに目をやる。
今日のミーティアは、普段の鎧姿とは異なり、外に出ても注目されない様にオーダーメイドスーツを着て貰っている。長い髪も頭でお団子にしてお洒落にまとめていて、青色の瞳もあって、外国のビジネスウーマンを思わせる容姿となった。勿論、武器も持ってない。
そんなミーティアは礼儀正しくお辞儀をする。
「はじめまして。私はBCU所属ブレイバーのミーティアです。えっと……イイムラヨシタカさんと……」
ミーティアの視線を受けた佐田警部補が、
「はい。佐田警部補であります!」
と、軽く敬礼した。
「サダ……さん。ケイブホ? とにかく、よろしくお願いします」
礼儀正しく対応するミーティアを前にして、飯村警部が言った。
「この子が噂のブレイバーか。にわかには信じがたいな。もしかして、先日あった新宿怪物事件で戦ったっていう?」
「あの時はうちのブレイバーが参戦してますが、ミーティアは別の任務で不在だったので、あの場にはいませんでした」
と、俺が説明する。
するとミーティアが飯村警部や佐田警部補の服装を見て、疑問点を聞いてきた。
「琢磨、日本の警察というのは、皆、同じ制服を着ていると学んでいるけど、違うの?」
「あーうん、警察の中でも私服で動く人もいるんだよ。そうだな、隠密調査をする為に市民に紛れてるって感じかな」
「隠密調査……なるほど」
ミーティアは今の説明で納得してくれた様で、ウンウンと頷いた。
それを見た飯村警部が口を開く。
「前会った時はパーカーを着た背の低い女の子で、その前は病院で外国人の義理の妹さん、そして今回はパツキン美女と来たか。あんまり遊んでると、後ろから刺されるぞ?」
「いやいやいや! そんなんじゃないですって!」
「ははっ。冗談だよ冗談」
そんな冗談を笑顔で言ってくるのだから、飯村警部も元気そうで何よりだ。
ちなみに前回、飯村警部と会う機会があった際は増田千枝が一緒だった。今回連れて来ていないのは、少し気の弱い彼女にとっては過酷な事件現場を見る事になりそうだと判断したからだ。千枝に声は掛けていないから、この事を知ったらきっと怒るだろうな。
「それで飯村警部、ここが言っていた事件現場ですか?」
「ん? ああ、そうだ。まずは案内しよう。こっちだ」
飯村警部と佐田警部補が先導して歩き出したので、俺たちも続けて歩き出す。
足を踏み入れたのは、いかにも何か出そうな雰囲気のある廃墟の民家で、立ち入り禁止の規制線を潜って中に入った。福岡の時といい、俺が出向く先はこんな事件現場ばかりである。
二階建ての一軒家。生々しい生活物資が散らばっていて、中にはなぜこんな物が室内にあるのか分からないスパイクタイヤなどが積まれていた。
ゴミも多数あるものの、やはりここに誰かが住んでいたんだろうと思わせる古びたアイドルのポスターや、ボードゲームといった物も見受けられる。もしかしたら年頃の人が住んでいた場所なのかもしれない。
朽ちて激しく軋む階段を上りながら、飯村警部がこの廃墟について説明をしてくれた。
「ここは心霊スポットとして、地元ではそこそこ有名な場所だ。今みたいに昼間の明るい内ならそうでもないが、夜は不気味な場所になる」
「いや、今でも十分……」
一階は物が散乱して酷い有様だったが、二階は物が少なく生活感が僅かに残る雰囲気になっていた。汚い事には変わりないが、タンスやら戸棚やらがある程度そのまま残されていて、一階と比べると大分マシに見える。
二階にあった三部屋の内一つに案内しながら、飯村警部が続けて説明する。
「男が女を誘拐して、ここで犯行に及んでいたようでな」
部屋に入ると、血痕が部屋中に残っていた。真ん中には天井から赤くて長いロープが垂れ下がっていて、床で渦を巻いていた。切り口のある縄も落ちている。
光景だけ見れば、いったい何があったのか全く想像ができないけど、とにかく悲惨な事があったという事だけは分かる。だからまずは、その被害者の女性について聞いてみなければと、俺は問いを投げる事にした。
「その、被害者の女性は?」
「無事だ。精神的には……無事とは言い難いところだが、命に別状は無い」
「それは良かった。じゃあこの天井まで飛んでる大量の血痕は?」
「……加害者の血だ」
「え?」
これだけの血が出たという事は、犯人も無事ではないはず。
「加害者の男は遺体で発見されたよ。過剰に切り刻まれてな」
「正当防衛ですか?」
「いや、そうじゃない。それであれば、キミをここに呼ぶ様な事態にはなっていないさ。事件が発覚したのは三日前の明け方。被害者の女性が外に逃げ出し、近所の民家に駆け込んだ事で発覚した。男が強姦の犯行に及んだ時、この部屋の窓から侵入して来て、被害者を助けた者がいる」
見れば、この部屋の窓ガラスが割れていた。
険しい顔で話を聞いていたミーティアが、
「私たちを呼んだと言う事は、まさかブレイバー?」
と、質問した。
「その可能性が高い。胸もあって女性だったと聞いている。そいつは窓を割って中に入って来たと思えば、刃物で犯人を斬り、ズタズタにした後、縄で縛られていた被害者を救ったらしい。その侵入者は男を殺害したあと逃走、警察はそいつを追って目下調査中だ」
「待ってください。それだけではまだブレイバーとは言い切れないんじゃ……」
すると佐田警部補が俺に一枚の紙を手渡してきたので、それを見る。ミーティアも横から覗き込んできた。
白い紙に鉛筆か何かで描かれていたのは、手描きの人相描きだった。確かに女性の顔ではあるが……頭に『猫耳』がある。それだけじゃなく、顔の半分が結晶化しているとでも言うべきか、鉱石にでもなってしまってるかの様な、そんなこの世の者とは思えない人相だった。
サイカである事を期待していただけに、少し期待外れではあったものの、これはこれでやばい人物の情報を得てしまったのかもしれない。
猫耳……この顔……何処かで……そんなフラッシュバックが俺の思考を駆けた時、それを口にしたのは横にいたミーティアだった。
「ワタアメ……」
そう、これはワールドオブアドベンチャーで知り合いだったワタアメの顔に似ているのだ。半分は結晶化しているので何とも言えないが、もう半分はそれに近い。ミーティアともゲーム内で知り合いである。
むしろこういう似顔絵って、被害者の証言を基に描かれるそうだけど、クオリティが高すぎて驚いてしまう。って、そうじゃなくて、この似顔絵が本当なのだとしたら、これは見過ごす訳にはいかないだろう。でも彼女はあの時、狭間で命を落としたのではないのか……少なくともサイカや俺の記憶はそういう認識だ。
「確かに……これはもしかしたら知り合いのブレイバーかもしれません」
と、俺が意見を述べると、飯村警部は少し安心したかの様に表情が緩んだ気がした。
「やはりな。最初は被害者の幻覚か、仮装の類を疑ったが……もしやと思ってキミを呼んだのは正解だったよ。とりあえずこんな所で話すのもなんだ。場所を変えよう」
そう言って、飯村警部達は歩き出し、この悲劇の現場を出る事にした。
部屋を出る直前、俺はミーティアに聞いてみる。
「ミーティア、何か感じる?」
「何も……って、私にブレイバー探知能力なんてないわ!」
「念の為」
まだ私の事を理解してないのかと言いたげに、不満な表情を浮かべるミーティアは放っておいて、俺達は廃墟の家を出た。
そこからそれぞれの車で現場から離れた住宅地まで移動して、多摩川沿いにある人どおりの少ない道路へと来た。車を路駐して、俺は飯村警部と一緒に飯村警部の車の中で密談する。その間、車の外でミーティアと佐田警部補には待って貰う事となった。
木陰の下に停めた車の中から、ガラス越しに外を見ると、無表情で歩道に立ち青空を見上げるミーティアに佐田警部補が何やら話しかけているのが見える。が、何を話しているのかは聞こえず、ミーティアは全然興味が無さそうである事だけは分かる。
まあ、ミーティアはかなりの堅物だし、へらへらと会話をする姿など想像もできないのだが。
しばらくの沈黙の後、飯村警部が重要人物とする似顔絵を見ているところで、俺が気になる事を一つ聞く。
「あの、今回のケースって、女性を襲っている犯人をその女が殺してしまったという事になるんですよね。それってどうなるんですか?」
「難しいな。被害者の正当防衛であったなら話しは変わるが、今回の場合、犯罪者を第三者が殺ってしまったというコロシになる。この猫耳女は殺人犯扱いだ」
「やっぱり……そうなりますか」
「相手はただの強姦魔。無差別殺人をしてた訳でも、テロリストでもない。そしてそれを殺してしまったこの猫耳女も、自衛隊員でも無ければ、警察関係者でも無い。法的に守れない立場にある。逃亡している以上、指名手配されてもおかしくない」
「厄介ですね」
そう言いながら俺がふと外を見ると、民家の塀の上に座る野良猫と目が合った。
古くから人間の愛玩用として、または鼠を取らせるなどのために、飼い親しむ動物。犬が忠実だとされるのに対し、魔性の動物とも言われ、またのどを鳴らして人にすり寄る姿を媚態になぞらえたりする。
俺と目が合った野良猫は大きく欠伸をして、そして立ち上がり、何処かへと歩いて行ってしまった。
飯村警部も同じ猫を見ていた様で、猫が去ってから話の続きを始めた。
「この猫耳女が捕まったとしても、問題はブレイバーという人種にある。一見、普通の人間に見えるが、全く別の生き物だからな。今まで秘匿されていたのに、ここまで起きた数々の事件と、この前の新宿怪物事件で、その存在は世間に明らかになってきてしまった。映画のヒーローだったら問題にもならないかもしれないけどな、残念ながら彼らの存在は世論の注目の的になっている。国会でも良い餌だ。最悪のタイミングと言ってもいい」
「でも彼らがいなければ、異次元からの怪物と戦えません」
「神懸かった運動能力、超能力的な力、不死身にも近い体、そんな不公平な存在は認められない。BCUが全員を管理する事が出来るのであればまだいい。だがこの猫耳女は違うだろう。明月くん、キミはこの存在を知っていたか?」
「いえ……」
「いったいいつから、どうして、どうやって、何の為に、こいつがここにいるのか、それを調べなければならない。なあ明月くん、もしかして他にも管理の出来ていないブレイバーがいるなんて事はないよな?」
さすが刑事と言うべきか、痛い所を突いてくる。
俺の脳裏に浮かんでしまうのは、福岡であった出来事。しかもあの現場は警察にも目撃されてしまっているし、もしかしたら飯村警部はその事を知った上で聞いてる可能性も有る。
でも、正直に答えない方が良さそうだ。だからと言って嘘を吐く気にもなれない。
俺は外で待機しているミーティアに目線を送りながら、
「話せません」
と、黙秘権を行使した。
「……そうか。それで、この顔半分を覆ってるこれは何だ? 仮面という訳でもないだろう」
飯村警部は猫耳女の似顔絵で、顔半分の結晶を指して聞いて来た。
「ブレイバーの結晶化です。彼ら特有の病気と言うべきでしょうか」
「病気か……不死身と言う訳でも無いんだな」
俺がサイカから聞いた事や、サイカの異世界での記憶を頼りに解りやすく説明する必要がある。
「ええ。彼らはその……定期的に治療を受けなければ、そうやって結晶化をして、やがて怪物になります」
「怪物に? まさか……この状態でどれくらい持つんだ?」
「顔半分まで進行してるとなると、末期ですね。そう長くは持たないと思います」
しかし疑問点もある。彼女はサイカと同じ『特別なブレイバー』で、自在に夢世界と行き来する事もできる事から、結晶化とは無縁だと認識していた。
彼女がなぜ結晶化をしているのか、そればかりが気になってしまう。
「では尚更、我々警察よりも先に、キミたちが身柄を確保する必要があるな」
「え、でもそれって……」
「いいんだよ。警察には手におえない代物だ。出来る限り協力はさせて貰う」
「ありがとうございます」
そんな会話をしていると、ついに佐田警部補の問いかけにミーティアが笑って答えてる姿が見えた。車の中からなのでどんな会話をしているのかは聞こえないけど……佐田警部補の粘り勝ちだ。
ブレイバーと警察のそんなやり取りを知ってか知らずか、飯村警部は別の話題を持ち掛けてきた。
「二年前、明月くんと出会う少し前だ。妙な事件現場を見た事がある。パソコンが壊れ、血だらけの部屋。まだ犯人は掴めていない。今思えば怪物に捕食されたのではないかと思える現場だった」
「それって最初のネットワークショックが起きる前の事ですか?」
サイカと出会った頃の話だ。
「そうなる」
飯村警部のその話は、俺にとって思ってもいない事だった。
「そんな前から既にバグがいたかもしれないなんて初耳です」
「バグと言うのか……その怪物は。やはり『端末』から来ているのか?」
「ええ、そう考えられてます。ネットワークを徘徊するウイルスが端末に感染した際、稀に突然変異してそうなると言うのが現在の見解ですね」
「突然変異……ね」
すると、車内のセンターコンソールに設置された無線機のランプが光ったので、飯村警部がスイッチを押す。それによって電子音が鳴ったと思えば、車内に傍受した警察無線の音が流れ始めた。そう言えば今乗ってるこの車は、覆面パトカーだと言う事をすっかり忘れていた。
『警視庁より各局、警視庁より各局、現在多摩中央PS管内において、職質したPMをマルヒが蹴り飛ばし逃走。公務執行妨害事案が発生。場所、若葉台、稲城第三公園前。現在時を持って集中運用を発令する。近い移動局は現場方向へ転進、マルヒの完全確保されたし。多摩中央については管内の通りをすべて押さえるマルケン態勢。マルヒ特徴、猫の仮装でヤッパ持ちの女。黒のフード付きローブを着用。足が速く、町田方面に逃走中』
マルヒだとかヤッパだとか、訳の分からない用語が多数使われているが、『猫の仮装』という言葉を聞いて、俺は飯村警部と顔を見合わせる事となった。
センターコンソールにあったモニターに映像が映し出され、事件現場や予測される大よその逃走経路、そして現在動いているパトカーの位置までもが表示され、情報共有される。
飯村警部は窓ガラスを叩き、音を出して外にいる佐田警部補に合図をしながら、車のエンジンボタンを押した。
俺は後部座席に移動して佐田警部補が助手席に乗り込むと、どうして良いか分からないと言った様子で立ち尽くしているミーティアがいたので、俺も手で乗る様に手振りで伝え、彼女も遅れて後部座席に座った。
「どうしたんですか?」
と、佐田警部補が問いを投げると、車のアクセルを踏みながら飯村警部が答える。
「ホシを見つけた。警官を蹴り飛ばしたらしい。明月くんらと現場に向かう」
「本気ですか」
「いいから上げろ上げろ」
「はい!」
佐田警部補はコンソールにあるボタンを押すと、車体の屋根にパトランプが飛び出し、次のボタンでそれが赤い光を周囲に巻くと共にサイレン音が鳴り響く。続いて佐田警部補はスマートグラスを掛けて、コンソールと線で繋がれたマイクを手に持ったと思えば、大通りに出るなり声を発した。
「緊急車両が通ります。緊急車両が通ります」
大通りを走っていた一般車両が次々と道を開けてくれる様は圧巻だった。
正直、こんな形でパトカーに乗る日が来るなんて思わなかったし、少し鳥肌が立ってしまった。
「琢磨」
と、隣に座るミーティアが目線を向けてきたのは、呆けてないで俺も動けと言う意味だ。
「そうだな」
俺はスマートフォンを取り出し、電話を掛ける。
『はい、こちらBCU本部、明月さんどうなされましたか』
と、電話に出てくれたのは園田真琴だ。
「園田さん、稲城市で事件発生だ」
『事件? えっと、何があったのですか?』
「ブレイバーを見つけた」
『サイカですか?』
「いや、違うみたいだ。今、警察が追いかけている」
『そんな……』
「ブレイバーは誰が出れそう?」
『少々お待ちください』
そんな電話をしている間にも、俺が乗ったパトカーはどんどん進んで、段々とパトランプを光らせたパトカーが至る所に見える様になった。大規模な検問も行われていて、かなり一大事となってしまっている。
『クロードが出動できます』
「分かった。クロードをこっちに寄越してくれ」
『了解。クロードをオスプレイで緊急出動させます。位置情報確認。到着予想時刻は一八三〇です』
「頼んだ」
『ブレイバーのご加護があらんことを』
出動要請をしてから時刻通りにクロードを乗せたBCUのオスプレイが稲城市上空に到着。
閑静な住宅街にパトカーが走り回り、オスプレイが上空から捜索するという物々しい雰囲気となった。警察とBCU、どちらが先に被疑者とされる猫のブレイバーを見つけるかといった競争心にも駆られる。
そんな大捜査が始まって三時間ほどが経過して、時刻は二十時を回り、辺りもすっかり暗くなり始めた時の事だ。
南多摩尾根幹線道路の団地の前を走行中に、目の良いミーティアが動いた。
「いた!」
団地のマンションの屋上で動く人影を発見したミーティア。
俺はすぐに、
「飯村警部、車を停めて下さい!」
と、車を幹線道路の脇に停めて貰った。
「ミーティア!」
俺はそう言ってイヤホンマイクを手渡すと、ミーティアはそれを片耳に装着。
そしてミーティアは後部座席のドアを開けて車から降りると、すぐに走り出した。その速度は人間離れしていて、パルクールでも見ているかのように、黒のスーツ姿の金髪美女が、マンションの階段を使わず壁の突起物を利用してひょいひょいと登り屋上へと身を翻すとそのまま見えなくなった。むしろあんな激しい動きに、着用してるスーツが耐えてる事にも驚きだ。
さすがに俺でもあんな真似はできない……いや、できるか?
そんな事を考えていると、ミーティアの動きに呆気を取られている佐田警部補の横で、飯村警部が運転席から振り返り話し掛けて来た。
「明月くんも行ってきな。今のは見なかった事にするから」
「分かりました。あの……色々とありがとうございます」
「上手くやれよ」
「はい。わかりました」
俺が車から降りてドアを閉めると、飯村警部はすぐに車を走らせた。
至って冷静な俺は、遠くなる車を見送りながらポケットから電子タバコを取り出し、それを口に咥える。そして、イヤホンマイクを片耳に装着して電源をオン。
「こちら琢磨。ターゲットを見つけた。位置情報を送る」
するとクロードから通信が入った。
『了解。すぐに向かう』
さて、俺が歩道で呑気に煙草を吸ってる間、すぐ目の前にある五階建てのマンションでは、屋上でブレイバー同士が対峙していた。
屋上に到着したミーティアは、そこでローブのフードを被ったブレイバーが夜空に輝く星々をただ呆然と見上げているのを発見。ローブからはみ出た白くて長い尻尾は垂れ下がっていて、ゆらゆらと左右に揺れている。そんな尻尾を持つ何者かは、振り向きもしないのでミーティアが来た事に気付いたのかどうかも分からない。
「ワタアメ」
と、ミーティアが話しかける。
相手は名前を呼ばれてやっと動いた。
フードを頭から外し、頭に生えた白い耳と、綺麗な銀髪を晒しながら振り返ってきた。
「なんじゃ。誰かと思えば、ミーティアか」
顔を目視で確認したことで、ミーティアの自信は確信へと変わった。そう、やはりワタアメだったのだ。
ワールドオブアドベンチャーの世界で活躍してた頃の姿で、上半身の左半分と、顔の半分まで結晶化してしまっている不気味な姿。ローブの隙間から見える左腕は完全に結晶化してしまっている為、もう動かせないだろう。いったい彼女の身に何があったのか、想像する事すらできない。
ミーティアが次に何を発言しようかと迷っていると、ワタアメが喋り出した。
「この国のケーサツとか言う奴ら。やかましくて嫌になる。まるでハエじゃ。うーうーうーうー、やかましいやかましい」
「警察に手を出したのね」
「わっちにはもう時間が無い。この姿を見れば分かるじゃろう? なぜわっちがこんな目に合わないといけないんじゃ。二年。二年じゃ。わっちは……平穏に過ごしたいだけなのに……あまりにも理不尽じゃないか」
「二年……そんなに前からここにいたの?」
「わっちは死にぞこないじゃ。もう何の力もありんせん。放っておいてくれんかの」
そんな弱気な彼女の言葉に、ミーティアは怒りを覚え、そして強い口調で言い放つ。
「何も力が無いと言うのなら、なぜ人を助けた! 貴女は何と戦っているの! 正義の味方のつもり!?」
「……腐った蜜柑を捨てたまでの事。年頃の娘が酷い目に合うのを、わっちは見逃せんかった」
ミーティアが琢磨から聞いた事のあるブレイバーワタアメの印象とは大分違う。
もう生きる事に疲れてしまったという様子で、彼女は弱気な態度が声のトーンや表情に出ている。死人の様な輝きの無い眼をしていて、目の下には隈もある。よく見れば全身ボロボロで、コバエが集るほど汚れていた。それほど酷い生活を送ってきたのだろう。
「ワタアメ。私達のところへ来なさい」
「……断ると言ったら?」
「力尽くでも連れて行く」
と、ミーティアは右手に赤い剣を召喚する。
ワタアメはそれを交戦の意思と見たのか、動く右手を動かし短剣を召喚した。それを見たミーティアは警告する。
「やめなさい。シッコク様と互角に戦った武勇は聞き及んでいるけど、今の貴女では私に勝てないわ」
それを聞いたワタアメは、ニヤリと笑みを浮かべた。
次の瞬間、先に動いたのはワタアメだった。詰め寄って来た彼女の刃物を、ミーティアは剣で防ぎ、火花が散り、そしてミーティアも斬り返す。
そこからはブレイバー同士の激しい斬り合いへと発展した。
ワタアメは動かない左腕を庇いながらも、その予測の出来ない素早い動きでミーティアの剣を華麗に避けてくる。ワタアメが振るう鉄の刃が、ミーティアの頬擦れ擦れを通った。
互いの剣が空を斬る事を繰り返し、時には刃と刃が衝突して金属音が響き渡る。
一瞬の隙を見逃さなかったワタアメがミーティアの腹部に蹴りを捻じ込み、ミーティアは吹き飛ばされて貯水タンクに背中から衝突。
不覚を取った事に歯を食いしばったミーティアはすぐに立て直した矢先、ワタアメが追撃を仕掛けてきていた。が、ミーティアは負けじと左手に青の剣を召喚して、二刀流で対抗。
ここからは彼女が得意とする双剣スタイルで攻め立てる。
ミーティアが夢世界スキル《ソードウェーブ》による交差した衝撃波で、今度はワタアメが上空に吹き飛ばされる。
そしてミーティアは飛躍してそれを追いかけ、空中で強烈な回転蹴りを浴びせた。
そうやってワタアメをマンションの屋上から地上へと叩き付けた後、ミーティアも飛び降りてそれを追走し、地上での移動戦に移行する。
団地近くの林で走りながら攻防を繰り返し、やがて近所にあった誰もいない野球場へと場所を移動して行った。
野球場の外野から、内野の応援席、そしてピッチャーマウンド付近で斬り合いとなる。
そこでミーティアは攻撃速度が大幅に上昇する夢世界スキル《ソードクイッケン》で畳み掛け、速度でワタアメを凌駕した。
そうやって二人のブレイバーの戦いに勝敗が決まる。
この時、上空には既にクロードを乗せたオスプレイが到着していて、ホバリングしながら状況を追いかけていた。しかしスコープ越しに助ける機会を窺っていたクロードは、その引き金を動かす事はなかった。
クロードが安堵の息を漏らしたのも束の間、外野の中堅後方に設けられる暗色のバックスクリーンの上に立つ人物が彼の視界に入った。
狐面の赤いマフラーを着けた女ブレイバーがそこに立っていて、事の行く末を見守っていた様だった。
「あれは!」
と、クロードがオスプレイから少し身を乗り出し、名を叫ぼうとした。
しかし、狐面の女はクロードの存在に気付いて、すぐに透明化して姿が見えなくなってしまった。
俺が戦いの現場となった野球場へと到着した時、ワタアメは内野のクッション付きの壁にもたれ掛かる様に力尽きていて、それを立ったまま見下ろしているミーティアの姿があった。
内野席からグラウンドへと飛び降りた俺は、二人のブレイバーの元へ駆け寄る。
ミーティアは俺の姿を確認するなり、
「後は任せるわ」
と、俺にその場を任せて立ち去って行くと共に、クロードからも通信が入った。
『もういいか?』
「あとは俺がやる」
『了解。それと、サイカがいた』
「サイカが?」
『その話は後でだな。とにかく、警察に勘付かれない様に一旦この場から離脱する。手短に済ませてくれよ』
「分かってる」
そんな会話をすると、通信相手のクロードを乗せたオスプレイは移動して見えなくなってしまった。
俺はボロボロな姿で倒れているワタアメの前に立ち、彼女を見下ろした。ミーティアとの激しい戦闘で結晶化していた左腕は砕け散ってしまった様で、見るも無残な姿。ワタアメにとって、俺は星空を背景にして立っている謎の男に見えているかもしれない。
「誰じゃ」
そう発したワタアメの声は弱々しく、小さく震えていた。
「サイカだ。久しぶりだね」
「サイカ……? ふっ、そうか」
何かを理解した様で、ワタアメは頬を緩めた。そんな状況でも無いはずなのに、こんな状況なのに、彼女は俺に向かって強がって見せた。
遠くで響くパトカーのサイレンの音、野球場に響く鈴虫の鳴き声。さっきまでのミーティアとの戦いがまるで嘘だったかの様に、妙な静けさが、俺とワタアメを包んでいる。
こんな状態で、俺は何と声を掛けたらいい? どうしたらいい? とにかく話しかけなければいけない。
「ワールドオブアドベンチャーで、俺とミーティアが遊んでいた時、キミに出会った。ゲームの中とはいえ、キミの事はよく覚えているよ」
「わっちもじゃ」
「あの頃から、ブレイバーだったのか?」
その問いの答えは返って来なかった。
しばしの静寂の後、ワタアメは黙ったまま星空を見上げ勝手に語り出す。
「わっちはな……葵が当たり前に過ごすはずだった未来を、少しでも守ってやりたかったんよ。あの子は良い子じゃった。ちょっと根暗じゃったが、良い子やったんよ。日本という国は……いや、神様は、なぜこうも冷たいんじゃ。なぜこうも、たった一人の少女ですら守ってやる事ができんのじゃ」
「夢主の事を言ってるの?」
「何がガッコウだ。何が親だ。何がケーサツだ。何がブレイバーだ。何の役にも立たん。葵に生きて貰いたい。そんな、ほんのちっぽけな願いを……誰も叶えてやれんで……わっちのやる事は全て無駄に終わっていくんよ」
ワタアメの夢主である沖嶋葵は、当時二十二歳の時に自殺をしたと言う。
高校生の時に酷いイジメに合い不登校となり、学校を中退。それから約四年間、自室に閉じ籠りゲームで遊んでいたとの事だった。ワタアメがブレイバーとして彼女と接触したのはその頃と推測されている。
詳しい事情はまだ分からないが、そんな悲劇を経験したワタアメは、彼女なりに頑張っていたんだと分かる。
この悲壮感溢れる彼女の声が、それを物語っている。
「ワタアメ。キミは彩乃さんを救う際、狭間でサマエルに捕まり、そのままあそこに取り残されたはずだ。それがなぜここにいる。いったい何があった」
「……わっちにも分からんのじゃ。気付いたらわっちは葵の部屋にいた。誰もいない葵の部屋に。訳が分からんくて、混乱して、わっちは逃げ出してしまった」
「今まで何をしていた?」
「独りで戦った。お前達が現れるずっと前から、独りで戦っておったさ」
「バグと?」
こっちの世界にバグが出現を始めたのがその頃だったとして、ワタアメはずっと一人で、人知れず戦って来たとでも言うのか?
サイカがアイドルとなって、彩乃さんが異世界に連れていかれ、俺が無力の自分に悩み、ネットワークショックで世間が騒がしくなり、アメリカで狭間作戦が行われ、そして俺がサイカに刺され化け物になってしまってからも、ずっと一人で……戦っていたと言うのか?
ワタアメは黙ってしまった。
自身の死を悟り、思い出に耽っている様な、そんな沈黙だった。そして彼女は言う。
「……楽にしておくれ」
「え?」
「もう疲れた……もう、戦いたくない。死にたい。そう思ったら……こんなになってしまってな。そう長くない事は自分でもわかっておる。だからサイカ。お主の手で――――」
「違うだろ!」
この女は何を言ってるんだ。今更、何を言ってるんだ!
「あんたには聞きたい事は山ほどある! 分からない事だらけだ! でもな! あんたはやり方を間違えた事だけは分かる。なぜサイカを苦しめる様な真似をした! なぜ協力しようとしなかった! あんたがいれば、あんたが協力してさえいれば、助けられた人も沢山いたかもしれないのに! 今更疲れただって? 殺してくれだって? そんなんで悲劇のヒロインにでもなったつもりかよ!」
気が付けば、俺は感情に身を任せて声を荒げていた。自分でも何を言ってるのか分からないくらい、頭が真っ白になったけど、とにかく彼女に言いたい事を言い続けた。
「なんでレクスの事を教えてくれなかった! なんでマザーバグの実験であった事を教えてくれなかった! なんでシッコクに真実を話してやらなかった! なんでジーエイチセブンとエオナだけに任せて一人で狭間に行った! なんでサイカを……サイカを……助けてやらなかったんだよ! いい加減にしろよ! 何が守りたかっただ! 何が!」
ワタアメは怒涛の勢いで言い放たれた俺の言葉を聞いて、驚きで目を丸くしたあと、残った片目より涙がはらはらと流れた。
俺の視界も潤んでいたし、数年ぶりに泣いたかもしれない。サイカを失った時ですら、俺は泣けなかったと言うのに、こんな所で、温かい涙で頬を濡らしてしまっている。
「あんたは道を誤った! 俺だって道を誤った! だったら! 正しい道を探そうって、もっと歩きやすい道を探そうって、その努力をしろよ! 逃げんなよ!」
「サイカ……」
「俺は琢磨だ! サイカはいなくなった! どういう意味か分かるか! 今どんな状況か、あんたは分かってるのかよ!」
「ごめんな……わっちが悪かったわ。ほんとごめんな……許してくりゃれ……許してくりゃれ」
と、ワタアメはきつく目を閉じると、湛えていた涙が頬を伝った。
そしてそれを嘲笑うかの様に、ワタアメの身体を侵食していた結晶が進む。
これは彼女を心身弱らせている結晶化の末期症状、バグ化寸前の兆候だ。ここまで来てしまったら、すぐにバグ化が始まる。
実は近くで隠れて様子を窺っていたミーティアが、慌てた様子で剣を持って駆け寄ってきた。
「琢磨! 離れろ!」
だけど俺は離れなかった。
それどころか俺は一歩も動かず、ワタアメに再度意思の確認をする。
「ログアウトブレイバーズのギルドマスター、ワタアメ。俺はあんたを救える。だからもう一度聞かせてくれ。『生きたい』か『死にたい』か。どっちだ?」
その問いは、ワタアメに希望を生んだ。
そして哀れな猫耳女は懇願する。
「生きたい! わっちは生きたい! 助けてくりゃれ! わっちは!」
「分かった。もういい」
と、俺は屈んで力無い彼女を手で引き寄せる。
結晶化を止めるなんてやった事は無い。
でも俺にはワタアメを救う事ができると、確信があった。
(大丈夫。私の力なら、結晶化は止められる)
そんな心の声が俺の右手を青く輝かせ、これを彼女の胸に入れればいいと直感で理解する。
「じゃあ……行くよ」
身体のほとんどが結晶化して、口が覆われてもう言葉を発する事も出来なくなったワタアメの胸に、手を入れる。
そして彼女の冷たい心に触れた。
手を挿入された彼女は自身の体の高揚を感じ、結晶の隙間から見える僅かな頬を赤く染める。
俺はここから儀式めいた言葉を口にした。
「我は管理者……次元の果てで生まれし生命よ……忘れられし生命よ……その心に灯を与える……来たれ、来たれ、来たれ……その紐を結び直せ……ブレイバー接続……ログイン……リファクタリング!」
空から光の柱が降り注ぎ、まともに目を開けてられないほどの光が、誰もいない真っ暗な球場を明るく照らす。
俺の手が、ワタアメの氷の様に冷え切った心に、青い光を灯す。
ワタアメの身体を侵食していた結晶が蒸発していく。
そして彼女の身体は真っ白な光に包まれ、凍った心が温かい光で溶かされたかの様に、全ての悩みから解き放たれたかの様に、満足そうな表情を浮かばせていた。
やっと眩い光が治まったところで、状況が理解できないミーティアは俺に近づいて来て言った。
「琢磨、いったい何を……」
と、ミーティアが琢磨が抱き抱えているモノを見る。
そこには丸い生き物がいた。
黒紫色のバスケットボールぐらいの大きさで、頭には猫の耳の様な突起物。後ろから長い尻尾。つぶらな目が、周りをキョロキョロと見回していた。
「これは……バグ!?」
焦るミーティアだったが、その敵意の無い生き物は琢磨の腕から飛び出して来たので、彼女は思わず持っていた剣を投げ捨ててそれを両手で受け取ってしまった。
もちもちして柔らかく、全く危険性を感じないバグを抱きしめたミーティアは言った。
「レベルワンのバグか……琢磨、これはいったい……」
バグはその強さに応じてレベルを五段階で表現しており、レベルワンは無害なバグ、レベルツーは怪我をする恐れのあるバグ、レベルスリーは攻撃能力を持ち無視できないバグ、レベルフォーは戦闘能力が極めて高いバグ、レベルファイブは戦闘能力が高く特質した能力や知能を持つバグとされる。
その知識から判断すれば、この明らかにバグの仲間と思われるが、敵意は無く無害そうなこの生き物はレベルワンのバグに見える。
そんな謎の生物はミーティアに抱き抱えられながらも、言葉を発してきた。
「まさかわっちがバグになるとはな。不思議な感覚じゃ」
「喋った! なにこれ可愛い!」
と、目を丸くしながら両手でその生き物を持ち上げたので、俺は説明する。
「それはさっきまでミーティアが戦ってたワタアメだ。結晶化を無理やり解除した反動で、力をほとんど失ってしまったんだろう」
「この可愛い生き物が!?」
まるで可愛いぬいぐるみを手に入れたかの様に、ミーティアは今まで見た事もないくらい乙女な顔でワタアメを抱きしめた。
「うぐ、苦しいからやめれ!」
こんな姿になっても話せるという事に俺も一安心だ。
ゆっくりワタアメと今までの事やこれからの事を話したいのも山々だが、周囲を上空から警戒していたクロードからの通信が入った。
『さっきの光で警察がそっちに集まって来ている。早く離れた方が良い』
「分かった。ミーティア、移動しよう」
それから俺とミーティア、そして小さくて丸くて可愛いバグになってしまったワタアメを連れて、野球場から撤収する。
警察が駆け付けてきていたが、何とか鉢合わせになる事もなく、逃げる事ができたのだ。
『警視庁より各局、現在時、発令中の集中運用を解除。解信をとる。自ら隊どうぞ』
そんな無線通信が入り、俺たちがこそこそと帰路の道を歩む中で、警察のパトカーが次々と撤収していくところを目撃した。
帰りにこんな変な生き物を連れて歩いている所を見られたら職質されると心配していたが、どうやら大丈夫そうである。
『こちらクロード、帰りの便は必要か?』
「必要ない。こっちは車で帰るから、撤収してくれ」
『撤収了解。帰ったら一杯奢れよ』
「分かった」
そうやって、クロードを乗せたオスプレイも東京都稲城市の上空から撤収して行った。
車を置いてきてしまった多摩川沿いの道路まで、徒歩で一時間ほど掛かった。その間もミーティアに抱かれたワタアメは特に何を話す訳もなく、しばらくミーティアの胸元から見える景色を眺めた後、そして眠りに入っていた。
よほど疲れていたのか、ワタアメは安心した様に、すやすやと眠っていた。
やがて俺とミーティアは車の位置まで戻ってくる。
するとそこには飯村警部の覆面パトカーがあり、佐田警部補は助手席で何やらパソコンの入力作業をしていて、飯村警部だけが外で電子タバコを咥えて待っていた。
飯村警部は俺たちを見るなり、
「おつかれさん」
と、声を掛けてきた。
「いいんですか、警察が外で煙草なんて吸ってて」
そう言いながら、俺も飯村警部の横で電子タバコを咥える。
「いいんだよ。外で煙草禁止を謳う世の中は終わってる」
「それもそうですね」
「それで、終わったんだな?」
「ええ、まあ、なんとか」
「根回しはしておいた。今日起きた事は、忘れといてやる」
「ありがとうございます」
飯村警部は謎の生物を抱えているミーティアに目をやると、その生き物に気付いたようだったが、特に言及しようとはしてこなかった。
その代り、ミーティアの切り痕だらけの泥で汚れたスーツを見て一言。
「良いスーツが台無しだな。それは買い換えたほうがいい」
言われたミーティアは少し恥ずかしそうに、
「はい。ありがとうございます」
と、ペコリとお辞儀した。
「さてと、俺たちもそろそろ帰る。お前たちも、安全運転で帰るんだぞ」
飯村警部はそう言って、電子タバコをポケットにしまって車の運転席に乗り込もうとしたので、俺が最後に一つだけ気になっていた事を口にした。
「あの、飯村警部」
「ん?」
「その……彩乃さんは、元気にしてますか?」
「ああ。まだ病院でリハビリ中だが、元気にしてるよ。最近笑う様になった」
「そうですか。俺も見舞いに行きたいんですが……」
「今はやめといたほうがいいな。キミを見たら、きっとまた取り乱してしまう」
「そう……ですか」
「あの子が喋れる様になったら、本人の意思を確認するから、明月くんが会うのはそれからにしてくれ。それじゃ、おつかれさん」
飯村警部の車が走り去っていくところを、俺は見えなくなるまでお辞儀をして見送った。
こんな状況でもBCUの事を気に掛け、娘さんが大変な事になってしまっている原因の一つでもある俺に協力までしてくれている。こんなに有り難い事は他に無いのだから、感謝するにもしきれないだろう。
車が見えなくなったので、俺は顔を上げてミーティアを見る。
「さぁ、俺たちも帰ろうか」
「はい」
帰りも俺が運転して、ミーティアが助手席に座る。
夜の時間帯、人は心理的にお喋りになると言うが、帰りの道のミーティアは行きと違って驚く程饒舌だった。眠るワタアメを抱きかかえたまま、窓越しに流れる東京の夜景を眺めて、彼女はワールドオブアドベンチャーでの思い出をよく喋る。
サイカと出会った時の話、一緒にギルドに入った時の話、サイカがクノイチと言う職業に転職した時の話。
その時のサイカは俺でもあるのだから、当然話も分かるし、懐かしいとも感じながら受け答えをした。きっとミーティアも嬉しかったのだろう。こうやって思い出話を語れる相手が隣にいて、安心しているのだろう。
帰りの車内での会話は、ミーティアだってブレイバーである以前に一人の女性なのだと感じさせてくれた。
BCUの本部に戻ると、心配してずっと待っていた千枝が逃げた飼い犬を見るような眼付で駆け寄ってきた。
パチン。
気が付けば千枝に頬をビンタされていて、次の瞬間には抱き着かれていた。
ついこの前まで「たっくんに暴力はやめて!」なんて事をミーティアに言っていたのに、女の子の考えはよく分からないものである。
人間としての欲求や希望は誰もが同じと聞いた事があるけど、果たして本当にそうなのだろうか。
生き物の性とでも言うべきか、どんな局面においても、人という生き物は思い通りには動かない。きっとブレイバーだってそうだ。ワタアメだってそう。自分の思い通りに動くのなんて、自分しかいないのだ。
突然なんでそんな話を始めたかって?
それは千枝に帰還早々ビンタをされたから……なんて冗談を言おうかとも思ったけど、やめておこう。
◆警察用語
⇒ PS: 警察署
⇒ PM:警察官
⇒ マルヒ:被疑者
⇒ 集中運用:現場周辺で活動している警察官全員を動かす
⇒ 移動局:パトカー
⇒マルケン:検問
⇒ヤッパ:刃物
⇒ホシ:犯人
◆パルクール
フランスの軍事訓練から発展して生まれ、人が持つ本来の身体能力を引き出し追求した動作の事。走る・跳ぶ・登るといった移動所作に重点を置くスポーツもしくは動作鍛錬でもある。障害物があるコースを自分の身体能力だけで滑らかに素早く通り抜け、走る・跳ぶ・登るの基本に加えて、壁や地形を活かして飛び移る・飛び降りる・回転して受け身をとるといったダイナミックな動作も繰り返し行う。
今回、ミーティアが外壁の突起物だけ利用して屋上まで登った様がパルクールと例えられた。
◆ミーティアのスーツ
外出用に用意された彼女の為の特注ビジネススーツ。どんな動きにも耐えられる様に、特殊な伸縮生地が使われている高級品。
◆琢磨の能力・その弐
その右手は、ブレイバーの結晶化を無効化する事ができる。




