雨降りの思い出
窓の外は新緑が広がる世界。
そう表すれば、何か壮大な雰囲気を感じなくもないが、実際は学校の裏山だ。
さして珍しくもなく。ふだんは誰も見向きもしない。
淑女を目指す乙女のみが集められた学園の生徒たちには、到底無縁の世界だ。
紅葉の季節ともなれば、辺り一面赤々と染まるため、目を向ける者も増えるが、校舎の北側に面した廊下の窓辺に人気はない。
南側の校庭に面した教室や、校舎の端にもうけられた休憩所が生徒の過ごす主な場所だ。特に校庭側には殺風景な運動場だけでなく、ちょっとした庭園のようになっていた。
そう、この学園は、名家の令嬢や学業の優秀な子女が通う場所なのだ。
だから、野生じみた裏庭に興味を示す生徒はいないし、なお悪いことに、校舎裏には古びた洋館が残されており、不気味な雰囲気を出しているせいで、近づきたがる生徒はいない。
「あの子は……」
そんな誰も近寄らない校舎裏の雑木林へ進入していく派手目な傘がいた。何度か左右に揺れ動く傘は、持ち主の動きを如実に表している。傘に隠れて見えないはずの人物がどんな動きをしているか手に取るようにわかってしまう。
見下ろしている生徒からは、服装すらハッキリとは見えないが、かろうじて見えるスカートの裾から制服であり、生徒であることはわかる。
「今日も雨なのに……何をしているのかしら」
雨粒で視界の悪くなった窓から下を見下ろし、呟く。
「き~ちゃん」
ぴょこぴょこと元気に動く傘が校舎裏の林に消えてもしばらく追い続ける。雨の窓に手をかけ、物憂げに外を眺める姿はとても神秘的だ。
「き~~~ちゃ~~~ん」
廊下を歩く生徒たちの視線が少なからず引き込まれても不思議はない。真っ直ぐ伸びた黒髪ときっちり切りそろえられた前髪が、印象を強くし目を引きつける。
「きーちゃん。きーちゃん。きーちゃん!」
「何かしら」
黒髪の艶が滑らかに揺らめき、鋭く細められた視線が自分を呼んでいたと思われる相手の方へと向けられる。
「何かしら。じゃないよ」
「では、どうなのかしら?」
「きーちゃんの意地悪」
「意地悪も何も、その呼び方は止めてくださらないかしら? 静香さん」
「かわいいのにぃ~」
そう言って、少々場の雰囲気に合わない、いや、有り体に言って浮いている静香と呼ばれた女生徒が不満そうに唇を尖らせる。
「私には京子という名前があります。ちゃんと名前で呼んでください」
「でも、ちゃんと返事してくれたよ?」
小首をかしげて問い返す静香。
しかし、それを見た京子は、いったん大きく息を吐き出し、
「廊下に響き渡ってしまって、口うるさい教師が駆けつけてきては面倒ですからね。止めようと思っただけです」
あきれ果てていた。
「う……」
教師という単語に反応して静香の勢いがそがれた。流石に、教師に目をつけられるのは避けたいらしく、気まずそうな表情で視線を逸らす。
「ところで、今日も裏庭の林を見ていたの?」
そして、話題も逸らした。
「そうですね」
「不気味な洋館があるくらいで、大して珍しいものもないのに楽しいの?」
「楽しいということはないわね」
「だったら、なぜ――」
折角、逸らした話題だったが、今ひとつハッキリしない回答に、静香は思わず半眼になってしまう。
「気まぐれ……ですね」
「その割に熱心に見てたよ」
「そうかしら?」
「も~。きーちゃん、ハッキリしてよね。らしくないよ?」
静香は、正直のところ焦がれていた。ふだんは竹を割ったような性格で有名な京子の態度には違和感しかない。つい問い詰めるような口調になってしまった。もちろん、そこには友人だからこその、じゃれ合いのニュアンスもある。
しかし、静香としては、少し予想外な展開となった。
「そうね。ハッキリさせましょう」
「え?」
このままうやむやになるのかと思っていたからだ。京子にも気分で行動したいことくらいあるだろうと、自分の性格を当てはめた予想をしていただからだ。
「それでは、失礼します」
思考が停止していたわずかの間に、謝罪を述べて京子はスタスタと歩き出してしまった。
完全に意表を突かれておいていかれてしまった。もちろん、追いかけて、昼休みの退屈な時間を過ごせば良かったのだが、そうは思えなかった。
しかし、この日、京子の後を追わなくて正解だったと思う日が来るとは、今の静香にしるよしもなかった。
◇
傘をさし、人気のない裏庭を歩く。
生徒はほとんど立ち入らない場所ではあるが、校内としての清掃や整備は行き届いており、荒れているところはない。ただ、校舎に沿って存在する雑木林には、背の低い樹木もあるため、余り視界が良いとは言えない。
実際、元気な傘が入っていったと思われる場所の前に立っても、その姿を見ることはできなかった。
京子が靴を履き替え、裏庭に回ってくる間に立ち去ってしまったのだろうか。
しかし、悩んだのは一瞬で、すぐに足がでていた。
一度、動き出してからは、躊躇うことなく林の奥へと足を進める。
「どこへ行ったのかしら」
林へ侵入することに躊躇いはないが、迷子に迷子になってもつまらない。歩いてきた方向を見失わないように周囲を確認しながら歩く。
「余り、奥の方まで入っていな――かったのね」
見回した視界の先、少し大きな木の根元に見覚えのある傘がモゾモゾとうごめいていた。
謎の傘に近づく京子。
雨で湿った地面は柔らかく足音はほとんどしない。
何かに夢中になっている傘は、京子の接近に気づかない。
「本当に気づいてないのかしら」
思わず口からでた言葉も独り言にされてしまう。
いよいよ、傘のすぐ背後まで近づいてしまって、どうしてものかと考えを巡らせていると。
「いらっしゃいませ!」
「きゃっ」
一瞬の隙を衝いたかのように、謎の傘が高速で向きを変え、大きく湧き上がったのだ。
京子は突然の出来事に、思わず固まってしまう。
そして、その状況を招いた本人も京子の驚きっぷりと、自分のしたことに気づいて固まる。
京子の顔や艶やかな黒髪・制服に傘から跳ねた水がかかってしまったのだ。
傘を左手で大きく掲げた少女は、濁点の付いた『あ』と声を出していそうな顔をしている。額にないはずの汗が見えそうである。
最初の一言を発した瞬間に見せた表情が見間違いだったのではと思えるくらいだ。
「ごめんなさいっ」
手にしていた傘を後ろへ落とし、全力で頭を下げた。
「気にしないで、少し驚いただけですから」
「でも……」
上目遣いで申し訳なさを伝えてくる少女。
だが、それはあざとさを出しているわけではなく、腰を大きく折ったまま、顔だけを上げようとしたための仕方のない姿勢だった。首の関節の限界なのだから仕方がない。
京子も、そんなあざとさにほだされるほど純粋ではなかったが、それでも一連の動きを見ていて、堪えられなかった。
「ふふふ――」
京子自身も正直、何がそれ程ツボにはまったのかは分からなかった。だが、笑わずにはいられなかったのだ。
「にはは」
口元に手を当て上品に笑う京子の姿を見て、少女は苦笑いをするとともに、その美しさに見とれていた。
「ところで、右手の中のモノが苦しそうですよ」
少女の方は、完全に惚けており自分の手にしていた存在を完全に忘れていた。慌てて、腕の中の茶色の毛玉を抱え直して謝り始めた。
なで回しながら謝る姿もおかしくて、京子は目を細め手を口にあてる。
そして、少しの間だけ様子を眺めて当初の目的を果たそうとした。
「もしかしなくても、あなたが毎日この林へ入っていたのは、その子犬のせいなのかしら?」
京子の質問に、少女は永遠に続けないか心配になる子犬への謝罪を中断し、質問をした主を見返した。
「はい。その通りです」
そして、迷いなく肯定した。
「そう。意外ね」
「意外……、ですか?」
「ええ。こんな場所に隠すように。そう、かくまっているのに、私に見つかっても取り繕うどころか、歓迎ムードなんですもの。不思議に思ってもおかしくはないわね」
「あー」
京子の答えを聞いて、苦笑いをする少女。
「まぁ、何と言いますか。いろいろと事情がありまして……」
「事情ですか。話してくださいますか?」
問い詰めるように迫る口調だったが、その言葉とは裏腹に京子の視線は少女の腕の中のままだ。
それに気づいた少女は、少し表情を緩めた。
「では!」
元気の良いかけ声とともに少女は、腕の中の子犬を京子の鼻先に突き出した。
「この子です」
「その子に何か事情があるのは、既にお聞きました」
京子は、いつもどおり冷静に振る舞う。少女の行動の理由を突き止めるのが目的だからだ。気を逸らしている場合ではない。
だが、出鼻をくじかれた京子の心情など知るよしもなく少女は続ける。
「実は、先日、道ばたで捨てられているところを発見して連れ帰ったんです。ですが、母に犬を飼うのは駄目だ。元いた場所に戻してきなさいって言われたんです」
「あなたのお母様にも考えがあったのでしょう」
当時のことを思い出したのか、表情が暗くなる少女。
本人もわかっているはずだと思いつつも、ありがちなフォローをする京子。
事実、その通りの部分があり少女は気にしたふうもなく続ける。もとより話すつもりだったのだろう。
「はい、実は全然知らなかったのですが、どうやら母はアレルギーがあって飼えなかったみたいなんです。母も動物が嫌いなわけではないし、外でも特に避けている感じはしなかったので、本当に知りませんでした」
口調は落ち着いているが、表情はどんどん暗く落ち込んでいくのが、傍目にも本当に良く分かってしまう。
だが、京子としても続きを聞かなければならない。
「しかも、母に子犬を飼えない理由が自分にあるからと謝られてしまって……。家を出て歩いているときに、子犬を飼ってあげられないことと混ざって泣きそうになってしまいました。中途半端な正義感のせいで子犬に、かわそうなことをしてしまいました」
いつの間にか抱きかかえ直された子犬が少女を見上げる。もしかすると、そのときもこんなふうに見上げていたのかもしれない。
その犬を見て、少女は更に当時のことを語る。
「凄い悲しくて、でも涙はでなくて。そしたら、この子が声をかけてくれたんです」
そう言って少女は、顔を合わせた子犬を撫でる。
「気にするなよって言ってくれた気がしました。もちろん、私の勝手な解釈です。自分が楽になりたいだけの我が儘な解釈。そのとき、雨が降ってきたんです。私の心の涙が雨になって降ってきたみたいでした」
ここで一息。少女は京子を見ると苦笑いをした。恥ずかしい話をしてしまった。そんな表情だ。
しかし、次の瞬間、表情が軽くなり人差し指を立てて顔を近づけた。
「しかも、その後も続いたんです」
「何がですか?」
話が明後日の方向へ飛ぶことを感じつつも、京子は先を促す。
「雨がです」
「話が見えませんよ?」
「つまり、この子犬が鳴くと雨に降られるんです」
「それは、気象台も真っ青な天気予報ですね」
「まったくです」
京子の突っ込みなど気にした様子もなく同調して頷く少女。
また、次の瞬間には一瞬見せた笑顔が引っ込み「話はそれましたけれど――」と話題と表情を戻す。
「そのときは、そんな感傷的なことを考えもしたんです。でも、雨にうたれて少し冷静になれて、やっぱり、このままじゃいけないって思いました。だから、何とかして里親を探して、それまでは、ここで飼おうって思ったんです」
言葉と同時に少女は、少し体を開いて視線を背後にあった木の根元に向ける。
京子がつられて見ると、そこにはちょうど子犬が雨風をしのげそうな洞があった。どこから持ってきたのか、毛布も敷かれている。
すっかり、居心地の良い場所が出来上がっているような気もするが、どう考えてもこのままで入られない。それに、誰かに気づかれるのも時間の問題だ。
「ですが――」
「はい。分かっています。でも、里親が見つかるまで、それまでは内緒にしてほしいんです」
京子がそのことを指摘しようとすると、もちろん本人も分かっていたようで、すがるような目で見つめてくる。
腕の中の子犬も理解しているのか同様に京子を見つめる。
「それは、構いませんが、今まで、誰にも気づかれなかったのですか?」
「全くということはありませんよ。流石に」
少女は再び苦笑いと少し困った顔をする。ただし、今度は少し余裕があるようで目が笑っているように感じられた。
楽観はできないまでも、少女なりの希望があるのだろう。
「一度、校舎に戻ったところで、何をやっているのか? って声をかけられたことがありました。そのときに、林の中から物音がするから、見に行ったけど何もなかった。不思議ですって伝えたんです」
「なるほど。怪談にしてしまったのですね」
子犬を抱えているため、かなり無理無理だったが、両手の甲をそろえて胸の前に差し出す少女のしぐさで京子は理解した。
「そうなの……かも。怖がらせるようなことを言えば、近づきたがらなくなるかなって思ったんですけど、話した人が顔を真っ青にして逃げていくとは思いませんでした」
失敗しましたという表情をする少女。今度は本当に目が笑っているのがわかる。
京子は、思った。――さもありなん――と。この林の奥にはこの学校の七不思議にも登場する洋館があるのだから。そもそも、ここの生徒なら誰も近づきたがらないのだ。そこへ、怪談めいた話題を出せば、逃げ帰っても仕方がないだろう。
そう言う意味では、子犬の隠し場所としては、とても的確だ。しかし、少女自身は平気なのだろうか。
「それで、あなたはこの林に入るのは怖くなかったのですか?」
「へ? 何で私が怖いんですか?」
「ですから――」
少女の疑問に答えようとして、京子は会話のズレに気づいた。
少女は、この林のことを恐れていない。
というか、そもそも怪談話に繋がるような場所とすら思っていないのだ。
そうと分かれば少女の質問も当然のことだ。
「新入生でも大抵の子は、知っているのだけれど。あなたは知らないのですね」
「何をですか?」
本当に何も分かっていない様子だ。無邪気に問い掛けてくる。
「あの洋館をご存じかしら?」
そう言って、木の枝の隙間から見える古びた洋館を指差す京子。
その所作に続いて、少女が枝の向こうを見上げる。
「えっと。立派な洋館ですよね。ボロボロっぽいですけれど」
「そうね。ですから、あの洋館には出るのですよ」
「何がですか?」
「もちろん、幽霊が、です」
無邪気な笑顔が凍り付き、ゆっくりと顔が京子の方へと向き直る。
「本当に?」
少女がかすれた声で問い掛ける。
「もちろん、ただの噂話です。どこの学校にもある七不思議のひとつ」
京子は笑顔でそう答える。
やはり、この場所を選んだのは偶然。無知ゆえの快挙だったようだ。
悪運が強いと言うべきだろうか。
「ですよねー」
少し表情は柔らかくなったものの、種明かしを聞いても不安が残っているらしく、視線がキョロキョロしている。
先ほどから、コロコロ変わる表情に京子は興味津々なのだが、そろそろ決めていたことを話すときだと思い直す。
「その子犬は我が家で預かりますわ」
怖がらせてしまった少女に、自分の行動は正しかったのだと伝えた。
その言葉の意味をなかなか理解できず、少女は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をする。
戸惑いを隠し切れず、周りを見回し、足踏みをする姿が可愛らしい。
「いつでも我が家に遊びに来てくれて構わないですから、是非私の家で引き取らせてくださいな」
もう一度、丁寧に言った。
少女の中に染み渡ってくる言葉は、この数日ずっと待っていた言葉で、もう見つからないのではと思い始めていた希望だった。
それほど、大げさに騒ぐようなことではないかもしれない。捨てられ、泥だらけで生きている野良犬は幾らでもいる。だが、この子犬は関わってしまった。それを無視することはできない。
だから、本当に嬉しかった。少女は、その気持ちを体全体で示した。
そして、大きく頭を下げ――、
「ありがとうございます」
力強くお礼を言った。
京子は、静かに落ち着いて答える。
「お礼を言われるようなことではないわ。私がその子を我が家に招きたいと思っただけ、むしろ私があなたから、その子を奪おうとしているのだから、恨み言を言っても良いのですよ?」
少女は、首をふる。大きく力強く。
そんなことはないと。
「正直、諦めかけてました。私は、捨てることも、飼うこともできず、だからといって里親をちゃんと探すこともしないで中途半端にしてきたんです」
目を潤ませて少女は言う。
「だから、感謝しかありません」
そして、腕の中の子犬を京子に抱かせた。
京子の腕の中に大人しく収まる子犬を見て、優しく、しかし、少し寂しそうに微笑む少女。
「わん」
ずっと、静かだった子犬が一声だけ鳴く。新たな主人に挨拶をしたかのようだ。
初めて聞いた鳴き声に目を細め腕の中の暖かい物体を撫でる。そこで、ふと気になり、何げなく疑問を口にする。
「降ってるときに鳴くとどうなるのかしら?」
「さぁ? どうなんでしょうか。晴れか曇ってるときしか鳴いたことなかったので」
京子の素朴な疑問に少女も首をひねる。
二人は目を合わせ、変な話だと笑い出す。
最初は小さくお淑やかに。
次第に大きく元気になっていった。
そのとき、激しく林の木々の葉を打ち付け、大きな音が響き渡る。
雨が土砂降りへと変わったのだ。
少女は放りだしていた傘を慌てて拾い上げる。ほんのつい今し方までは、小雨で木陰なら傘がなくても何とかなるくらいだったのだが、完全に不意打ちとなった。
京子と二人、既に雨が降っているのだから何か起きることなどない、と高をくくっていた。
「いったん校舎へ戻りましょう」
このまま、この場にいても被害が大きくなるだけだ。
素早く判断すると、京子はきびすを返して校舎へと向かう。
「え。良いの?」
京子は「何が?」と問い返しそうになってとどまり、視線を腕の中に落とす。
「問題ありません。もし、教師に何か言われたら、迷い込んでいたので連れ帰りますって言うだけですから」
そう言って、ウインクをする京子。
少女は、二重で驚いて、固まってしまった。それは、京子の己の姿勢を貫く意志、外見やそんな力強さからは想像できない可憐さを見せつけられたからだ。
そして、少女は自分の何倍も大きく見える背中を追いかけ、歩き出した。
京子も、その歩き出す気配に安心して、先を進んだ。
ぬかるみを歩いて、校舎へと到達したとき、京子は振り返った。林を出たところからは、土砂降りの雨に本格的に打ち付けられ、前を見ている余裕しかなかった。扱いの慣れない子犬を落とさないようにもしなければならない。
だから、気がついていなかった。
そこに誰もいないことに。
京子は慌てて自分の歩いてきた方向を見る。しかし、そこには自分ひとりの足跡すら、既に雨で見えなくなっていた。
「いったいどこへ……」
◇
あの後、京子は子犬を自宅へと連れ帰り、飼うことになった。
両親の説得も予定どおり成功した。もちろん、勝算があってのことだ。それでも、その事実には胸をなで下ろしたし、毎日、しっかりと世話をしている。
そして、ふと思い出しては、廊下の窓の下を見てしまっていた。
「き~ちゃ~~~ん。聞いて」
廊下を歩く同級生たちが、思わず避けてしまう京子のオーラなどお構いなく、ゆる~く呼ぶ声。
仕方なく振り返る京子。その表情は当然重たい。
「聞いてくれる?」
「断っても、お話しをするのでしょう?」
「うん」
呆れの色がにじみ出る京子の問いに対して、笑顔で肯定が帰ってくる。いつものことながら、このポジティブさには舌を巻かざるを得ない。
「それで、何を聞いて欲しいのかしら?」
「今朝ね、隣のクラスの子が話しているのを聞いたの。七不思議のひとつかもしれないって」
「七不思議ですか」
その単語を聞いて、京子は思わず視線を窓の外に向ける。
そのしぐさを、校舎裏の古びた洋館を見たのだと、勘違いした静香は言う。
「そうなんだよ。あの古びた洋館で起きた殺人事件の被害者の霊が今でも彷徨っている~、で始まる七不思議のひとつだよ」
京子は、一応頷いた。変に横槍を入れても話が長くなるだけだ。自由に話させておくのが、一番効率の良い相手のしかただ。
「まだ、三つしか見つかっていない七不思議の新しいひとつかもしれないんだよ」
「前置きが、長いわね」
結局、突っ込みを入れてしまう京子。
そんな京子に、静香は、人差し指を立てて左右に振る。分かっていないぞ、と。
「私は、きーちゃんとのお話を楽しんでいるの。前置きも大切なお話なんだよ」
妙に偉そうである。
今度こそサラッと流すのが吉だ。先を促すように手の平を見せる。
それを見て、静香は頷き、本題に入る。
「戦争が始まるより前の学校での出来事だよ。動物が大好きな生徒がいたのだけれど、自宅で飼うことは許されなかったらしいの。でも、捨てることができなくて、学校のどこかでコッソリ飼っていたんだって。その後、その生徒は病気で亡くなってしまう。だけれど、学校で飼っていた犬のことが、心配で夜な夜な現れては犬の名前を呼ぶんですって……」
静香が半眼で顔を寄せるように話して聞かせた。
雰囲気を出そうとしているのだろうか。しかし、京子の反応は乏しい。
当然、その様子に静香は不満だ。折角の怪談話をサラッと流されてはたまらない。
「もぅ。きーちゃん、全然、怖がってくれないから、つまんない~」
見事な膨れっ面である。
この百面相はいつ見ても飽きないが、流石に気分が乗らないときもある。つい、視線を窓の下へ向けてしまう。この場所にいるとどうしても気になってしまう。
「あーーー。また、窓の下を見てる。この前、急にどこかに行った日から変だよ?」
「そうかしら?」
「そうかしら? じゃないよ。お昼休みが終わっても教室に戻ってこないし、早退しちゃうし、心配したんだから」
「それは、もう何度も聞いたわ。悪かったわね」
「ホントだよー」
今度は、プリプリ怒り出すクラスメート。
京子はめまぐるしく変化する表情を見て、ニヤリと微笑んだ。そして、――。
「そういえば。私が早退した日に何かあったのかを、何度も聞いてきたわね?」
「うん。すっごく気になってる」
「そのときの話を、あなたにだけ特別に教えて差し上げます」
そして、ことの顛末を話して聞かせた。
話をしている途中から、何かに気づいて表情がどんどん青ざめていく静香。
「で、その後輩の子は……」
「あれ以来、会っていないわ」
完全に、表情が固まってしまった。
京子としては、誇張することなく事実を述べただけだし、実際、彼女には会っていない。同じ学校に通うからといって、全校生徒と顔を合わせるわけではない。一週間程度、会わなくても不思議はない。ましてや、さして親しい間柄だったわけでもないのだ。
だが、静香には、そんな常識的なことすら考えられない状況だった。
「じゃあ、じゃあ、引き受けた子犬はどうしてるの?」
「子犬は我が家で引き取って飼っていますわ。獣医の先生にも診ていただきましたし、お祖父さまが始めたばかりのお店の看板犬にもなってますわよ」
もう、何が何だかわからない。そんな表情だ。
しばらく固まって、放心して、瞳の光が戻ると――。
「きーちゃん。お昼ご飯食べに行こう」
「ちょっと」
「お腹ぺこぺこなの忘れてたよ。早く行こう」
「そんなに、しっかり掴まなくても、どこかへ行ったりしませんわよ」
有無を言わさず歩き出す静香。
京子の言葉に、振り返る表情には笑顔が貼り付いていた。それは、今すぐにでもこの場を離れたい、別の話題に切り替えて忘れてしまいたい。そんな雰囲気を纏っている。
だから、京子は静香には話さないでおこうと思った。子犬を連れ帰った日、自宅の前で抱いていたときのことを。
そして、あの日のことは、いつか彼女に再会できたとき、感謝の気持ちとともに語り合おうと、心の中で誓うのだった。
◇
小雨の降るあいにくの天気の中、小さなお店が開店していた。
ささやかだが、子供たちに夢を与える幸せのお店。
大小、虹色のお菓子がところ狭しと並べられた駄菓子屋だ。
その店先に、家族と思われる四人と子犬が一匹。記念撮影を済ませ、新しい門出に笑顔が絶え間なく溢れている。
長い黒髪は、綺麗に切りそろえられ厳格な性格を表しているようだが、今は柔らかい表情になっていた。
その黒髪の少女は、腕の中の子犬に向き合う。しとしとと降り続ける雨を見上げていたが、急に目を細め、首を少し縮めた。それは、まるで誰かに撫でられているかのような、穏やかなしぐさだった。
少女は、顔を上げ――ありがとう――と唇だけを動かした。
◇
人生には様々な出来事がある。楽しいこと悲しいこと、どれもが輝いている。そう思える反面、すべてを覚えているわけでもない。嬉しくて泣いてしまうようなこと恥ずかしくて隠れたくなるようなこと、たくさんのことを忘れてしまっているのだろう。だとしても、人生は続くし、その時々の喜怒哀楽を体験し続ける。そのような流れの中で、何げないことを切っ掛けに過去の出来事が鮮明に蘇ることがある。
それは、元気なポニーテールで、駄菓子屋というお菓子の世界に迷い込んだアリスのようだ。
迷い、悩み、決める。その姿は、幼い子供であっても、とても尊く感じる。
それと同時に京子は懐かしさを感じていた。
時々、京子のいる駄菓子屋に現れる元気いっぱいな女の子。
その女の子を眺める視力はすっかり衰え、眼鏡をかけても霞んでしまう視界。
真っ白になってしまった髪に、乾燥気味な皮の余った肌。
積み重ねてきた人生を感じさせる。それは、決して重苦しいものではなく、優しく大らかな暖かみを感じる。
気がつけば、ポニーテールの女の子は、今日も真剣に悩み抜いて決めたであろう駄菓子をカウンターに置いて問い掛けてくる。
「お幾らですか?」
見た目どおりの元気な声だ。
いつもと違い、オドオドとはしていない。
「五十円よ」
「はいっ」
可愛くて小さなお財布から、一生懸命、十円玉を取り出す姿は本当に微笑ましい。
一枚ずつ取り出された硬貨は、カウンターに並べられる。
「一、二、三、四、五。はい、確かに」
硬貨を数えて、確認を終えると満面の笑みになる。
「今、袋にいれるから、少し待ってね」
「うん」
返事をすると、女の子はポシェットの紐を両手でギュッと握りしめると、周りに意識を巡らせた。
「ねぇ。いつもいる犬さんは?」
「あぁ、今は散歩中だよ。でも、もう少しで帰ってくるかしらね」
今日の女の子がいつも以上に輝いていた理由はこれだ。京子には、その変化の理由が分かっていたから、帰りの時間が迫っていることを告げた。
もう少し懐かしいポニーテールを眺めていたいと思ってしまうが、怖がる顔を見るのは本意ではない。だから、教えたのだ。
もっと長く見届けていたい気持ちもある。それは、刹那的なものではなく長期的なもので、もっと遠くの未来を見てみたい。そんな願いだ。
懐かしさの原因を確かめたい。この女の子の成長した姿を確かめたい。あのときの気持ちを伝えたい。
だが、願いは叶わないかも知れず、ようやく見つけた可能性に諦めきれない気持ちが溢れていた。
だから、いつもこう言うのだ。
「また、来てね」
それと同時に、駄菓子の入った袋を渡す。
その言葉に最高の笑顔を見せて、女の子は店を出て行く。
同じく笑顔で見送る後ろ姿。
そこには、聞き慣れない節の付いた歌が、添えられていた。
了
本作に興味を持っていただいてありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたでしょうか?
いつも同じ事書いていてテンプレ化してきていますが、楽しんで貰えたら嬉しいです。