第四話 世界は廻るようです。
朝焼けの光に心のドアをノックされて、私が目を覚ますと耳元にくすぐったい風を感じた。そうか、私は滅んでしまったのかもしれない世界を、素敵な騎士様と旅をしている最中だったんだ。そんなことを思いながら、私はわずかな吐息まで感じてしまうくらいにお兄ちゃんに顔を近づけて、じっと見つめてみる。
キス……しちゃおっかな、なんて!
優しくて、大人で、楽しくて凄くいい人。私はこの人となら、この世界も悪いものじゃないな、なんて思ってるんだ。これっていけないことだよね、わかってる。
出会ってまだ一週間だけど、この人がどういう人か、私はしっかり理解したつもり。ずっと、このまま一緒にいたいとも思ってる。だってこんな人、他にいないよ?
昨日だって、あの怖い怖い不思議なわんちゃんから、私の盾になって守ってくれた。傷ついた人をちゃんと助けてあげた。こんな状況で、他人のために自分の命を投げ出す人なんて、元の世界にどれだけいるのかな? きっと、ほとんどいないんじゃないかな?
私は、騎士様の寝顔をじっと見つめながら、様々な思いを募らせる。きっと、これが恋ってやつなんだろうな、なんて!
そんなぼやけた私が、ろくお兄ちゃんの寝顔に見とれているといきなり、お兄ちゃんの堅く閉じられていた二つの門が突然、音もなく上げられた。
「おわっ! ど、どうした天狐」
びっくりしたのは、私の方だよ、お兄ちゃん……良かったキスしてる最中とかじゃなくて、と私は胸をなでおろす。
「な、な、なんでもないよ。あ、いい天気だね! おはようろくお兄ちゃん!」
お兄ちゃんは不思議そうな顔をして、それから、少し笑っておはようと言ってくれた。よし、私は今日も頑張れそう。
お兄ちゃんが私と包まっていた大きめのタオルケットをクルクル回して、小さくしてからリュックにしまった。私は少しだけ残念に思い、朝焼けを背にしたお兄ちゃんを座ったまま見上げた。いけない、かっこよすぎる。
「すぐに出発するぞ、どうした天狐」
「あ、なんでもない!」
疑うような目でじっとお兄ちゃんの目が私を捉えて放さない。まっすぐに見据えられた目が、私の全てを見抜いてしまいそうだった。
「あー食事か? 天狐は食いしん坊だからな、少し歩いてからにしようと思ったんだけど、やっぱり食べてからの方がいいかな?」
変に納得しないでよ! と、怒りたくなったけど、我慢して立ち上がった。
「ううん、大丈夫。良き女はね、黙って三歩後ろをついていくものなの」
お兄ちゃんの様子を見ると、少し照れてるようだった。簡単だなぁ……将来、悪い女に引っかかっちゃうよ? 私が面倒見ないといけない? ……大歓迎だよ、なんて!
「わかった。何かあれば、すぐに言って欲しい、それじゃ先を急ごうか」
「はーい! 出発ー!」
ほんとにわかってるのかなぁ? お兄ちゃんのことだから、私が黙って無理してでもついていくとか言ってると思ってそう……。
私たちがしばらく壊れてしまった街中を歩くと、朽ち果てた線路が見えてくる。かすかに残る線路の面影が、痛々しい世界の有様をはっきりと教えてくれるみたい。
「この線路をたどっていけば、目的地に着く。んー今日中には着くと思うよ」
「わかった、札幌についたら、まずは食べ物を探すんだよね?」
「ああ、そこは計画通りに行こうと思う、持ってきた食料は残り4日分、今日中に札幌について、そこから2日以内に滞在の目処が立つ何かしらの発見をする。何も無ければ、一旦家に戻るよ。まだ家に食料はあるからね」
お兄ちゃんと1週間同じ家で暮らした時に、色々話し合って決めた計画だった。私はそれにうなずくと、覚悟を決め、また先へと歩き出した。
そんな私に気付いたのか、お兄ちゃんが真剣な表情で歩きながら、私に現状を整理して話してくれた。
それはこの二日で何も発見できないと、窮地に追い込まれることだった。もし、世界が本当に滅亡していて、生き残った人々もいない状況だと、私たちに待っているのは遅かれ早かれ、近いうちの死だとお兄ちゃんは言った。
何か私たちの生きる助けになるようなものを見つけることを最優先。それに何故、突然あの6つ目のわんちゃんや、羽の生えた人が世界に出てきたのか、そのように世界が変わってしまった原因も知る必要があるとお兄ちゃんは付け足した。
「ろくお兄ちゃんはいつも凄いね」
「なんだ急に?」
「だって、常に前を向いて歩けるんだもん。私にだってこの状況がどれだけ切迫してる状況なのかはわかるよ? だけど、お兄ちゃんはその中でも絶対に立ち止まらない、私が一人だったら、丸まって泣いてるくらいしか出来ないよ」
ろくお兄ちゃんを見ると、少し難しそうな顔をしている。あんまり見た目はカッコいいとかじゃ無いけれど、その真剣な表情は私を射抜くには十分だと思う。
ふいに頭をわしわしと撫でられた。最初は驚いたけれど、お兄ちゃんに触られて嫌な思いはしない、私はすぐに大人しくなった。
「あんまり、卑屈になるな。天狐が僕のどれだけ役に立っているか、聞きたいか?」
私の頭に置いた手をそのままに、立ち止まって不器用に口の端をあげてそう言った。もう、反則!
「ううん、いい、ろくお兄ちゃんありがと」
「どういたしまして」
すました顔でそう言ったお兄ちゃんは、先を急ぐぞと行く先を指差して、また歩き出した。途中開けたところで休憩して、簡単な朝食をとった。今日の朝ごはんは、フルーツの缶詰に乾パン。それほどいい食事じゃ無いけれど、お兄ちゃんとこうして並んで食べるのが私にはご馳走だった。
それから線路沿いをしばらく歩くと、線路の周りには少しずつ木々が生い茂ってきて、やがて線路の上しか歩けないほどになった。
「凄いことになってるな、何年も人の手が入ってないみたいだ」
「凄いね、こんなだったっけ?」
「いや、僕の記憶では、ここはちゃんと整備されていたはずだけど」
私たちよりも背丈の高い草が、線路の周りを取り囲むようにして生えている。そこはまるで一本道のようになっていた。
「とりあえず、左右には警戒しておこうか、突然何かが出てきても対処出来る様に分担しよう、僕は右を天狐は左を頼む」
「わかった」
「それと……」
そう言うとお兄ちゃんはリュックをすばやく下ろして、中から一本のナイフを取り出した。少し小さめだけどしっかりしたナイフだった。
「天狐はこれを持って、もし複数同時に襲われて僕が天狐を守りきれない時は、これで身を守るんだ。いいね?」
「う、うん。わかったよろくお兄ちゃん」
そう言ってお兄ちゃんはナイフを私のカバンにくくりつけて、落ちないようにした。こうしておけば、すぐに取り外して使える。くくりつけられたナイフは、ずっしりと重く感じて何だか少し怖くなった。これで何かを刺すなんてことは、私には出来ないのかもしれない。だけど、やらないときっと死んじゃう、そう考えた私にとてつもなく高い感情の波が押し寄せてくるのを感じた。
お兄ちゃんの後をついていくと、ついに波が私の防波堤を飛び越えて、それが頬をつたっていく。お兄ちゃんには悟られまいと、必死に声を上げるのを我慢して、じっと左の茂みに注意しながら進んだ。
そんな中である時、茂みの奥の方から何かを踏み抜いたような音が私の耳に聞こえてくる。お兄ちゃんにも聞こえたようで、私たちはすぐに足を止めて身構えた。
「ろくお兄ちゃん今の……」
お兄ちゃんにギリギリ聞こえるだけの声量で不安を訴える。
「わかってる、天狐は後ろを頼むよ」
お兄ちゃんが不審な音のした茂みの前に、私をかばうようにして進み出てそう言った。私は、不安を押し殺してお兄ちゃんの背を守るため、逆側の茂みをにらみつけた。すると今度は私の方から、木の枝を次々と折っていくような音が聞こえてくる。
「はさまれてるのか! 走るぞ天狐!」
お兄ちゃんはその音を聞いた瞬間に、私を連れて走り出した。私がついてこれるギリギリの速度で線路の上を走った。線路の上は、ごつごつとした大きな石だらけで少しでも気を抜けば、足をとられて転んでしまいそうだった。余計に疲れがたまって、まだそれほど走っていないのにどんどん息が苦しくなる。
お兄ちゃんが片方だけにかかった重いリュックと手に持った槍のせいで、不器用な走り方になっている。それでもお兄ちゃんは私よりずっと早く走れるのだから凄い。私たちの息づかいが荒くなり、これ以上走れないと立ち止まろうとしたころに茂みの終わりが見えてきた。
「ハッ……ハッ……天狐……あそこまでだ……あそこまで走ろう」
私の方を振り返ったお兄ちゃんは額にびっしょりと汗をかいていた。きっとリュックのせいで走るのが辛いんだと思った。お兄ちゃんは私の顔を見て、茂みの終わりの方へ向かって指を差した。
――お兄ちゃんが指を差すその先には、大きな何かが私たちを待ち構えていた!
「お兄ちゃん前!」
咄嗟に叫ぶと、お兄ちゃんはすぐに前を向いた。一瞬の出来事だった。お兄ちゃんに飛び掛った大きな人型の何かは、鋭く突き出される槍を肩に受けて倒れた。青い血が槍にべっとりとこびりついている。しかし、化け物はすぐに身を起こして、けたたましい怒りの叫び声をあげた。
『キャォォォォオオオオオオオオ!』
余りにも酷く耳障りなその叫び声は、私とお兄ちゃんを硬直させた。大きな人型の何かの身長はお兄ちゃんより一回り大きく、屈強そうな体に茶色の体毛をびっしりと生えそろえていて、猿と狼をたして半分にしたような顔をしていた。
再び、傷ついたその狼顔の巨猿が飛び掛ってくる。
「下がってろ天狐!」
そう言ったお兄ちゃんは、リュックを地面に落として前に出た。その背中を私は見ているだけしか出来ない。
お兄ちゃんは叫び声を上げて、槍を突いた。しかし、狼顔の巨猿は大きな長い腕でそれを跳ね除けるとお兄ちゃんの体を強烈に殴り飛ばした。お兄ちゃんの体はくの字になって横に飛ばされ、茂みの木に肩から激しく激突した。
「お兄ちゃん!」
私が叫ぶとお兄ちゃんはよろめきながら立ち上がる。私の目の前にいる大きな巨猿が、肩と腕から青い血を流しながら、憤怒の表情で私をにらみつけた。まるでお前は後だと言わんばかりだった。
狼顔の巨猿は私を無視し、背中を向けてお兄ちゃんにまた突進していった。お兄ちゃんは咄嗟に槍を探して見つけたけど、あまりにも遠すぎた。巨猿の大きく振りかぶった一撃で、お兄ちゃんは今度は私の方に飛ばされた。巨猿は勝ち誇ったかのように汚い笑みを浮かべて、のっしのっしとこちらに歩いてくる。
お兄ちゃんは私の隣で苦しそうに立ち上がった。もう抵抗出来るほど力も残ってないように見えた。巨猿は狼のような口をぱっくりと開けて、こちらにゆっくりと迫ってきていた。せめて何か武器をと思った私が目にしたのは、槍が遠くで光っている姿だけだった。
「動くなよ、天狐」
小さな声でそう言ったお兄ちゃんの通りにする。私は微動だにせず、じっと呼吸すら止めて動かなかった。
巨猿が、ついに目の前に来た時、お兄ちゃんが怒声をあげて飛び掛っていく。武器も無しにこの大きな化け物に向かっていったと私は思った。
しかし、不意を突かれた巨猿の目にお兄ちゃんの牙が突き刺さっていた。私は腰のカバンについていたナイフが、いつの間にか無くなっていることにようやく気がついた。
そのまま押し倒したお兄ちゃんが、巨猿の上に馬乗りになって、ナイフを引き抜いて何度も振り下ろした。最初は巨猿も抵抗していたが、お兄ちゃんが喉にナイフを突き入れると巨猿は少しずつ動きが鈍ってきて、ついに動かなくなった。
青い血で染まったお兄ちゃんにかまいもせず抱きついて泣いた。もうダメだと思った。私は諦めたけどお兄ちゃんは絶対に諦めなかった。それが恥ずかしくて、申し訳なくて、お兄ちゃんに謝りながら泣いた。お兄ちゃんは、そんな私を手をぬぐってから何度も優しく頭を撫でてくれる。
しかし、不自然にその手が止まった。私は不安になって、お兄ちゃんの顔を見上げるとお兄ちゃんはどこか虚ろで寂しいような表情をしていた。
「天狐、ごめん、ここまでかもしれない」
お兄ちゃんはそういうと私をどかして心地悪い音をならして、猿の化け物からナイフを抜き取ると立ち上がった。
私は周りを見て絶望に打ちひしがれた。周りには5匹の巨猿が、顔に怨恨と怒りを浮かべて並んでいた。
お兄ちゃんは青く染まったナイフを手に、私に近づけまいと周りをけん制していた。しかし、それはその時を少しだけ遅らせるにすぎなかった。
他の4匹より少し体格の良い巨猿が、お兄ちゃんの突き出すナイフを手で受けて、激しく殴り飛ばした。首には大きな木で出来たネックレスをしている。
お兄ちゃんはその強烈な一撃を受けるとボロ雑巾のように地面に転がった。巨猿たちは、そんなお兄ちゃんを執拗に殴り続ける、そこに希望は無く、ただ痛みに耐えているだけの時間だった、それでもお兄ちゃんは何度も立ち上がった、きっと私を守ろうとして……。
ついにお兄ちゃんは血を吐いて地面に這いつくばると動かなくなった。呼吸もままならないようで、ピクリとも動かない。
私は腰が抜けて、それを見ているだけしか出来なかった。
「天狐、ごめん」
喉から空気が漏れるような音で、かすかにそれは聞こえてきた。風が通るようなヒューヒューとした不自然な呼吸音が私の胸を更に締め付けた。
誰か、誰でもいいから、お兄ちゃんを助けて……お兄ちゃんが死んじゃう、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! 誰か、誰か――!
しかしそんな私の心の声は誰にも届かない、ずっと願っているのに何故? 神様はいないの? どうして私たちがこんな目にあわなきゃいけないの?
やがて、一匹の化け物が私の方へやってくる。太い腕に体毛をまとい、口には牙をそなえた化け物が私の目の前で私を品定めするように見下ろしていた。
しかし、その化け物が私を掴もうとするとその手が止まった。
化け物は後ずさりしはじめ、やがて後ろを向いて走り始めた。私は後ろを振り返るとそこには、昨日助けた黒い羽と狼の耳を持った女性が立っていた。その女性は昨日コンテナの中で見た時とはかけ離れているくらいに美しく、綺麗な女性だった。
その女性が凄い速度で走り出したと思うと、逃げ出した一匹の巨猿を捕まえていた。そして、腕を巨猿の中にゆっくりと沈めていく。青い血が白い肌を伝って流れ出ている。
巨猿は、何が起こったのかわからないままに息絶えたようだった。他の巨猿は、すぐに逃げ出したようですでにいなかった。
黒羽の女性は、巨猿の死体から腕をするりと抜いて、青く染まった腕をそのままに、茂みの中へ入っていこうとしていた。私はありったけの勇気を振り絞る。
「ま、待ってください」
声にならない声がかすかに絞り出ただけだった。しかし、黒羽の女性は立ち止まってくれた。
「お兄ちゃんを、お兄ちゃんを助けて……」
もう手遅れかもしれない、聞いてもらえないかもしれない。ただ、この人なら何か出来るかもしれないとかすかな希望を持ってそう言った。このままだとお兄ちゃんが死んじゃう、そう思うと涙があふれ出てくる。感情が猛り、うねりを上げていた。それ以上話すことも出来ず、ただただ泣くしか出来なかった。
黒羽の女性は、ゆっくりと動かなくなったお兄ちゃんに近づいて、指で自分の胸の間を引き裂いた。私は思わず目を覆ったけど、すぐに気を持ち直してそれを見守った。黒羽の女性は少しも表情を変えず、波打つ自分の心臓に鋭い指を突き刺した。
真紅の血が、白い腕を伝ってひじの辺りからお兄ちゃんの口元に注がれた。全く動かなくなっていたお兄ちゃんが、ピクリと反応したように見えた。黒羽の女性がそれをやめると、私はふらつく足を押さえて立ち上がり、お兄ちゃんに駆け寄った。胸に耳を当てるとお兄ちゃんの鼓動がたしかに聞こえてくる。
私は嬉しくて、お兄ちゃんに抱きついて泣きはらした。