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第五十六話 松代浩太 Ⅱ

新年あけましておめでとうございます。疎陀です。今年もよろしくお願いします。さて、タイトルです。前回の第五十五話の時点では『前編』とか書いていたのですが……終わんねえですよ、マジで。ですので、数字表記に訂正させて頂きました。多分、『フレイム王国興亡記』にこういう話は求められて無いんだろうな~とは思ってますが、今後の展開に必要だと思いますので、もうちょっとお付き合い頂ければ幸いです。

 住越銀行総合企画部は住越銀行に数ある本部部署の中でも『エリート中のエリート』が集う部署と言われている。が、その実態をきちんと理解し、また把握しているのは住越銀行に勤めるおよそ三万人の行員の中でも極々一部に過ぎない。

 銀行には数多くの本部セクションがあるが、基本的に多くの本部の部署は『内向け』の仕事を行っている。例えば融資審査部という部署、ここは融資の審査を行う部であり、各営業店から上がって来た『稟議書』と呼ばれる書類をチェックし、照会事項がある場合は照会書を発状し、回答に納得いけば決裁する権限を持ったセクションになる。人事部にしたって、総務部にしたって、基本的にやっている事は『対銀行員』であり、言ってみれば『自分達以外の住越銀行員』が顧客となるのが本来の本部の仕事である。


 対して、総合企画部は少しだけ毛色が違う。


 総合企画部には幾つかの仕事があるが、一番大きな仕事は銀行本体の財務会計にある。各セクション毎に決められた予算を割り振り、その予算内で業務が進んでいるか、或いはいないのであれば理由は何故かをチェックし、一つに纏めて対外的に発表し――つまり、決算短信や、株主総会を仕切るのが総合企画部の仕事である。言ってみれば『外向け』の仕事、対営業店向けに何か通達を発令したりする事もなく、為に『何か凄い事をしてるらしいけど、具体的に何をしているかよくわからない、秘密組織みたいなトコ』という認識を営業店行員から受けているのが実情だ。尤も、バブル華やかな頃は悪名高い『MOF担』や『総会屋対策班』などの所謂ダーティーな部分を請け負った部署でもある事から、あながち『秘密組織』という認識も間違ってはいないのだが。

 閑話休題。内向けでも当然ダメなのではあるが、こと外向けの仕事である以上、『良く分かりませんけど、取りあえず数字はこうなっています』ではお話にならない。総合企画部員の発した言葉は、一営業店の担当者が言った言葉とは重みが違う。決算短信や株主総会で一部員が発言する機会など無いが、だからと言って『絶対に何も喋らない』という訳でもない。正確に銀行財務を理解する能力と、それをかみ砕いて説明できる話力、咄嗟の質問にも当意即妙に答えられる決断力と判断力が求められるのだ。『どれか一つ』ではなく、『どれもが全て』高いレベルを要求され、それをクリアしたものが総合企画部へと招待され、出世のレールに乗る。総合企画部に勤務するから出世するのではない。総合企画部に勤務できる程の能力があるから、出世するのである。


「……ふーん。それで? 結局、総合企画部ってどんな所なの?」

「……さあ? 正直、『銀行本体の財務会計』って言われても……なあ? 取りあえず、皆エリートっぽい。インテリの巣窟みたいな感じ」

「うわ、嫌な部署。何か凄い感じ悪いわね、それ。心が病みそう」

 そう言って、目の前にある骨付きの鳥の腿焼きに美味しそうにかぶりつく綾乃に、浩太は盛大に溜息を吐いて見せる。

「何処の山賊だ、お前は。一応、女なんだからもうちょっとお淑やかに食べるとか出来ないのかよ?」

 浩太の言葉に『ん?』と小首を傾げて見せ、テーブルの上の生中のジョッキを煽る。白い髭を口の周りに発生させる綾乃に、浩太の溜息が更に深くなった。

「ぷはぁーー! 『生きてるぅ!』って感じがする!」

「……もういいよ。残念な奴だな、お前は」

「あによ。大体ね? アンタの前でまで一々気を使ってたら疲れるでしょ? 気にスンナ、同期の桜」

「もう少し俺にも気を使えよ、同期の桜」

 言っても無駄だと知りながら、浩太は鳥皮の串に手を伸ばす。パリパリに焼かれた皮に、振り掛けられた塩のアクセントが絶妙だ。どうでも良いが、浩太は塩派である。

「それで? 何の用よ?」

「何だよ、何の用って」

「とぼけるんじゃないわよ。アンタが私に『何でも好きなモン食べろよ』なんて言うときは、大体ロクでも無い頼み事しに来るときって相場が決まってるのよ」

「待て。何だかそれだと俺がお前を食べ物で釣ってるみたいに聞こえるんだけど? つうか良いのかよ? 食べ物で釣られてるって」

「良いのよ。食べ物に罪は無いもん。まあ、それは良いのよ。それで? 一体どんな頼み事かしら?」

 綺麗に食べた鳥の腿の骨で浩太を指しながら、空いた左手でビールのジョッキに口を付けてジト目で睨む綾乃。その視線から逸らす様に中空に視線を向け、しばし。そろそろほとぼりが覚めたか、と視線を戻した浩太と、綾乃のジト目が交差する。

「……ほれ。さっさっと吐きなさい。ネタは上がっているんだから!」

 諦めた様に溜息一つ。

「……実は、頼みごとがあるんだよ」

 ボンジリの串を口に運びながら、浩太は先日の上司の話を思い出した。


◇◆◇◆◇◆


「……寄付講座、ですか?」

「そうだ」

 総合企画部はセクション毎に『ライン』と呼ばれる、業務ごとのグループ制を布いている。財務会計ラインは財務会計を、広報ラインは広報全般を、営業統括ラインは各営業部門をそれぞれ担当している。『ライン』の名の由来は種々あるが、グループを統括する次長をトップに、グループの構成員が一直線に机を並べているから、と言うのが有力だ。余談であるが、営業店では外交課は外交課、預金課は預金課毎に向かい合う形で机を並べ、一塊になっているので、『シマ』という俗称があったりする。

「えっと……次長、それってうちのライン、というか、そもそも総合企画部でやる事ですかね?」

 総合企画部企画経営ライン。商品企画によって上がって来た様々な商品を精査し、『住越銀行の商品』として世に出すラインである。大事なラインではあるが、どちらかと言えば『財務会計!』や『広報!』などの花形ラインに比べれば、同じ総合企画の中でも『閑職』と呼ばれるラインであり、浩太らしいと言えば浩太らしい配置と言えるだろう。

「まあ、あんまりウチでやる様な事じゃないだろうな」

 浩太の問いに、パソコンの画面から目を上げた企画経営ライン次長、中桐徹は白髪交じりの頭髪を撫でた。入行三店舗目で総合企画に調査役として赴任して以来、財務会計畑を歩み続けた住越のエリート中のエリートである。大荒れに荒れ、『怒号の株主総会』と呼ばれた2008年の株主総会を一調査役という役職の低さで見事に仕切った俊英。住越の百年を越える長い歴史の中で、一調査役が株主総会の壇上に立ったのは後にも先にも中桐徹一人である。そんな中桐次長が次長昇格を果たしたのは浩太の総合企画転勤と同時であり、年齢的な関係もあって閑職と呼ばれる企画経営ラインの次長職についている。要は、今後のステップアップの一貫だ。

「本来であればウチではなく、営業企画辺りがするのが筋何だろうが……今はウチだって色々やっているだろう? 企業の社会的貢献、ってやつ」

「ええ」

「銀行は金貸しの集団で、冷酷。晴れた日には傘を差し、雨の日には傘を取り上げる。言われ慣れた言葉ではあるし、株式会社である以上一面の真実ではあるのだが……個人的には、置き傘は不要と言いながら、土砂降りになってから傘を貸してくれ、と言う方にも問題はあるとは思うのだがな。まあそれは良いさ。とにかく、銀行業はイメージがあまり宜しく無い。寄付講座の一つでもやって見ようか、と言うのが理由の一つだ」

 そう言って、浩太の眼の前にポンっと一枚のパンフレットを投げて見せる。読んでみろ、と目で合図する中桐に軽く頭を下げ、浩太はそのパンフレットに視線を走らせて。

「……東桜じょ――と、東桜女子! 東桜女子って、あの東桜女子大学ですか?」

「話が来ているのは正確には東桜女子学園、だがな。名前ぐらいは聞いたことあるだろう?」

 驚きに目を見開きながら浩太は、中桐次長のその言葉に頷いて見せる。


 東桜女子学園。


 幼稚園から大学までの一貫教育を行う純粋培養のお嬢様学校。『日本の経済界を仕切る』と呼ばれる財界人のおよそ二割の『奥方』の出身学校であり、OG会である『桜会』が揶揄を含めて『影の財政会議』と呼ばれる程の力を持つ。愛校心が強い事でも知られ、二代、三代続けて子女が通う事もある程の……まあ、超が二個も三個もつくお嬢様学校である。

「松代君がするのは水曜の三コマ目、文学部の講義だ。単位は二単位で、三か月持って貰う」

「ま、待って下さい! 講義は三か月って……しかも、文学部? 私、経済学部出身ですよ?」

「講義内容は何でも構わない。東桜の文学部には国際経済コースがあるから、国際収支についての講義なんかが良いんじゃないか? ああ、何でも構わないと言ったが、銀行の内部事情や個人情報に関わる事は当然厳禁だぞ?」

「ええ、それは当然控えますが……ですが!」

 困惑しきりの顔を浮かべる浩太に、次長は掛けていた銀フレームの眼鏡を外してレンズを拭きながら溜息を吐く。

「……ウチの頭取の奥方は東桜のOGで、今の理事長とは同窓だ。その縁もあり、東桜とは良縁が続いているが……今、東桜の文学部の二年に四井銀行の執行役員の娘さんが居てな」

「……それが?」

「その縁を利用して、四井が大攻勢を掛けてきている。理事長は義理堅い方だから、断り続けてくれているが……断り続けるのも失礼に当たる。何かしら、『住越銀行を推す』理由がいるんだ。それが」

「寄付講座、という訳ですか?」

「そう言う事だ。『住越銀行さんは寄付講座までしてくれています。ですので……』という理由があれば良い訳で、変な話だが内容なんて何でも構わない。やった、という実績が大事なだけだ」

「社会貢献、というのは?」

「何年銀行員をしているんだ。そんなもの、建前に決まっているだろう?」

 思わず息を飲みその後呆れた表情を見せる浩太に、中桐は言葉を続けた。

「ついでだから言っておこう。憚りながら、我々総合企画部は銀行業界では……少なくとも、他行の役員連中の間ではちょっとは知られた存在だ。その総合企画部がわざわざ『出張った』マターと言うのは一定の影響力を持つ。それが今回我々がこの仕事を担当する意味だ」

「その『他行に知られた』総合企画部の、ペーペーに過ぎない私が担当する意味は?」

「他の人間は手一杯で、そんな余分な業務に手を裂いてる時間は無い。『ペーペー』の君ぐらいしか適任が居ないんだよ。加えて君は若いからな。『姫』は何時だって年若い『騎士』をお求めだ」

 東桜女子大学には『東桜』、『東桜女子』『桜乙女』など、幾つかの略称があるが、その中で一番有名な略称は『姫』である。東桜女子の略称『桜女』の同音である『王女』から転じて『姫』となったが、学校の存在基盤や意義にぴったりのこの略称は他校でも有名だ。少なくとも、『姫』を彼女にしたら、学校で少し自慢できるぐらいには。

「……私に『姫』の相手は少々手に余ると思いますが?」

「心配するな。誰だって姫の相手……というより、女の相手は手に余るさ」

 溜息を吐き肩を落とす中桐の姿に、浩太の眉が少しだけ跳ね上がる。何時も凛々しく颯爽とした『次の次の次の頭取候補』と称される男にしては珍しい姿だからだ。

「次長、その、プライベートの事で恐縮なのですが……なにかありました?」

「……車の助手席と男は何の為にあると思う?」

「……はい?」

「女の尻に敷かれる為にあるんだよ。まあそれが夫婦円満、家庭円満の秘訣ではあるが。ちなみに私は男女平等大賛成だ。もう少し、男の地位を上げてくれても良いと思ってる」

「……傾聴しました。気を付けます」

「気を付けてもどうにもならんがな」

「では、肝に銘じておきます。話を戻しますが、その姫の相手をするのは少し……」

「銀行員が上長から言われた言葉に『ノー』は無い。返事はハイかイエスだ。まあ、そうはいっても銀行業務からは掛け離れた業務ではある。家庭教師、或いは塾の講師の経験は?」

「いえ、ありませんが」

「流石に『やる事に意義がある』と言っても、あまりに拙い講義では逆に失礼に当たるからな。誰か助手が必要なら付けるが?」

 中桐の言葉に、浩太はぐるりと総合企画部の部内を見回す。皆、忙しそうに業務に励んでいるし……何より、先輩を『助手』にするのは浩太的には抵抗がある。

「別に総合企画部内で無くとも構わないぞ? 知り合いで適任が居るのであれば、その人間でも良い。無論、行員に限るが」

「え? 良いんですか? ですが、余所の部支店も忙しいかと……」

「何を言っている。私達は総合企画部だぞ? 良いに決まっているだろう」

 息をするように、全く嫌味なくそう言い切る中桐に思わず言葉が詰まる。流石、総合企画部だ。

「どうした?」

「……いえ、何でもありません。ですが、助手、ですか?」

 浩太の頭、フル回転。諸先輩方に頼むのは流石に気が引けるが、流石に一人で『姫』のお相手をするのは少々気おくれする。だが、浩太の同期の中で、名門女子大の相手に気おくれする事もなく、頭も良く、頼んでもそんなに浩太が苦にならないような、そんな都合の良い同期がポンッとみつか――



「……あ」



◇◆◇◆◇◆


「と、いう訳で、綾乃に『助手』を頼みたいんだけど……」

「寄付講座の助手? 何よ、それ」

「寄付講座って言うのは、企業が大学側に資金や人材を提供して大学のカリキュラム内に講座を持つ――」

「寄付講座の説明を聞いてるんじゃないわよ。助手の方! 何で私が!」

「いや、だって……綾乃、東大卒の才女だろ? 四か国語も喋れるし、中学高校はお嬢様学校。それに、塾の講師のアルバイトもしてたって言ってたよな? 俺の求める条件にがっつり合致するんだけど」

「そりゃそうだけど……でも、『桜女』でしょ?」

 渋い顔をしながら、ビールジョッキを傾ける綾乃に浩太は訝しげな表情を浮かべる。

「……『姫』の相手は嫌か?」

「私は良いんだけど……相手が、ね?」

「相手? 姫の方?」

「私、聖ヘレナ女学院の中高通ってるんだけど、桜女の子って聖ヘレナの子を目の敵にするのよね」

「そうなの? 聖ヘレナって『聖女』だろ? 姫が聖女を目の敵って……やっぱり、お嬢様学校同士って仲悪いの?」

 素朴な浩太の疑問に、少しだけ気まずそうに眼を逸らして。

「……私が言ってるんじゃないわよ?」

「なにが?」

「その、『桜女』も確かにお嬢様学校なんだけど、こう、なんていうか……『成金』のイメージなのよ、桜女って」

「……そうなの?」

「わ、私が言ってるんじゃないんだからね! 桜女って、こう、実業家の子女が通うイメージのある学校なのよ。対して聖ヘレナは旧華族とか、どっちかって言えば家柄重視というか……『本物のお嬢様』が通う所ってイメージがあるか――」

「ストップ」

「――らって、何よ?」

「家柄重視?」

「……言いたい事があるのなら聞くけど? はっきり言いなさいよ、はっきり」

「さっきまで山賊みたいに肉食ってた人が本物のお嬢様とかヘソで茶を沸かすんですけど」

「はっきり言い過ぎよ!」

 うがーっと怒って見せ、拗ねた様にビールのジョッキを煽る。その姿は浩太の想像するお嬢様とは正反対だ。

「……まあ、確かに? 大川家は普通の家庭よ?」

「外務官僚が普通の家庭か?」

「公務員の家は公務員の家よ。そうじゃなくて……私のお母さんがね、ちょっと良い所の出なのよ。と言っても、そんなに大富豪な訳じゃなくて……まあ、公家系の華族の出なのよ、母方の実家。侯爵って言ってたかな? そんな訳で、お母さんも聖ヘレナの出身なの」

「……マジで?」

「大マジよ。まあ、それは良いわ。それで、桜女の子はそういう『代々、聖ヘレナ!』みたいな子を嫌うのよね。『あの方達は能力もお金も無いから、家柄に頼るのですわ!』みたいな感じで。しかも、陰でコソコソと」

「……はあ。何と言うか……怖いな、女って」

 浩太の脳裏に、中桐次長の言葉が浮かぶ。なるほど、これなら尻に敷かれていた方が楽だと思いながら……浮かんだ疑問を綾乃にぶつける。

「それで? 聖ヘレナの子はそう言う気持ちないの? 『桜女なんて成金ですわ!』みたいな」

「どんな喋り方よ、それ。無いわよ。聖ヘレナはこう……人とどうこうじゃなくて『自分が一番!』って思ってるからね。我が強いのよ、皆。良くも悪くも」

 肩を竦めて見せて、残ったビールを一気で飲み干す。その後、浩太の目の前でジョッキをからからと振って見せる。

「なに?」

「もう一杯ビール、飲んで良い? それで、付き合ったげる。別に私が聖ヘレナ出身って言わなきゃいい訳だし……それに、ちょっとだけ『役得』かな、って思うし」

「役得?」

「水曜日の三コマって事は、一週間の真ん中で堂々と仕事サボって『充電』出来る訳でしょ? 乗らない手は無いかな~って」

「充電って……お前な? 別に遊びに行く訳じゃねえんだぞ? 仕事だ、仕事。結構神経を使うんだぞ?」

「……」

「……」

「……」

「……何だよ、その眼」

 空っぽになったジョッキを握りながら、半眼で浩太を睨みつける綾乃に、タジタジになりながらそう言って見せる。対して綾乃はジョッキを置いて、はーっと深い溜息をついた。

「まあ、確かに? 自分でもちょっと回りくどい言い方かな? とは思ったけど……でも結構、勝負かけたつもりだったんだけどな~。やっぱダメか、浩太には」

「どういう意味だ――って、おい! 『生中七杯!』じゃねえよ! 何杯飲むつもりだ、お前は!」

「うっさい! どうせアンタが五杯は飲むの! 一気で!」

「い、一気? 一気っておま――むご!」

「はーい! まつしろくんの~、ちょっといいとこ見てみたい~」

「げほっ! おま、止めろ! 学生ノリはやばいって!」


 ……何て事があったのが、三週間前。今、浩太と綾乃は東桜女子大学文学部の大講堂前に居た。今回の『住越銀行寄付講座~世界経済と銀行が果たす役割~』の受講者数はおよそ百人弱。普通教室では収容しきれない人数であり、急きょ大講堂が宛がわれたが……その分、浩太の緊張はとんでもない事になっていた。

「……人、人、人……んぐ」

「カニバリズムの趣味でもあるの? 何人、人を飲み込めば気が済むのよ?」

「放っておいてくれ。俺、今結構ヤバいんだから」

 学期途中で始まった講座である為、学校側も『そんなに学生が集まらないかも知れませんが』と申し訳なさそうにしていた三週間前を思い出す。浩太にしたってそれはそれで構わない、むしろ好都合と思っていたが……


 ――学校側の本気度を見誤っていた。

 

 仮にも理事長自ら『直々に』お願いした形の寄付講座だ。蓋を開けてみたら一人も居ませんでした、では格好もつかない。各教授を通して学生たちに受講を促した。

 学生側にとってもこれはチャンスである。普段なら半年の所が三か月、しかもテストもレポートもなく、出席だけしていれば単位が貰えるのだ。加えて水曜日の三コマと昼からというのも幸いし――浩太にとっては不幸な事に、受講者数が大変な事になってしまった。

「……そんなに緊張しなくても大丈夫よ。どうせ、学生なんて大して聞いちゃいないわよ。そんな事よりアンタ、約束忘れてないでしょうね?」

「……お前、今それ言う?」

「言うわよ。『緊張で忘れていました!』じゃ話にならないもん。はい、それじゃ約束!」

「……これから講義が終わるまでの三か月、毎日お前と土曜日は打ち合わせ、だろう? 打ち合わせ場所が居酒屋って、どんだけ酒豪だよお前は」

「良いでしょ、別に。こないだみたいな醜態をアンタが晒す事の無いように、ちゃんとセーブして飲むから」

「……こないだの事は忘れろ」

「『あやの~、おうじょのこ、こわーい』だって。べたべたと甘えてまぁ~……」

「忘れろって言っただろう! ったく……」

 そう言いながら、浩太は自身の緊張が徐々にほぐれて行っている事に気付く。綾乃なりの『優しさ』だろうと解釈し、コホンと一つ咳払い。講義室の扉を開けた。

「――っ」

 ガラガラと音を立てて引かれた扉に、二百に近い瞳が一斉に音を立てた主に集まる。その視線に思わず浩太も一瞬引いてしまうが、講師が瞳にビビッて逃げてしまう訳にも行かないと思い直し、その歩みを進め講義台の前に備え付けられたマイクに歩みを進めた。

「……皆様、初めまして。私、住越銀行総合企画部の松代浩太、と申します。今回、三か月という短い間ではありますが、宜しくお願いします。こちらは同じく住越銀行の大川です。今回の講義で私の助手を務めますので、何かありましたら私か大川に申し付け下さい」

 大川です、と頭を下げる綾乃の姿を視線におさめて学生に背を向けると、チョークを手に取り『銀行とは』と黒板に書いた後、パンパンと手を叩いて振り返る。

「私は皆様とそんなに年齢も違いません。あまり小難しい事を話すつもりはありませんので、どうぞ肩の力を抜いて聞いて頂ければ幸いです。ああ、睡眠時間に当てるのは辞めて下さいね? 一応、講師という立場上、堂々と睡眠をされてる方に単位を出すのはちょっと、ですから」

 浩太のその発言に、少しだけ笑いが起こる。ある程度弛緩された空気が流れる事にほっと胸を撫で下ろし、浩太は講義台に手を付きながら口を開いた。

「――それでは講義をはじめます。初日の今日は、私達が勤務している『銀行』という組織について、ですが」


◇◆◇◆◇◆


 講義時間の半分が過ぎる頃、事件は起こった。

「せんせーい」

 講義室の中ほどから、さっと手が上がる。『銀行の使命』という名のセンテンスについて述べていた浩太はその口を閉じ、手を上げた学生を指した。

「何かご質問でしょうか? 意見などありましたらご起立下さい」

 浩太の言葉に、髪を茶髪に染めた女性が立ち上がる。すらっとした均整の取れたプロポーションの彼女は、浩太の言葉を聞いて勢いよく立ち上がり口を開いた。

「せんせい、何処の大学出てるんですかぁ?」

 講義の内容から掛け離れたその学生の言葉に、大して年が離れていない筈の浩太の脳裏に、思わず『ゆとり』の三文字が浮かんだ。

「……その質問の内容は講義に関係ありますか?」

「講義の内容にはそんなに関係ないケド? でも、ウチら、それでも『姫』とか呼ばれてる訳だし? レベルの低い大学出ている人にはあんまり教えて欲しくないかな~、って」

 ねえ、と振り返る女性に対し、周りの女性も一斉に頷いて見せる。その仕草を見て力を得たよう、女性は浩太に向き直り言葉を続けた。

「住越銀行の総合企画部って、超エリートなんでしょ? だったら当然、東大くらい出てるのかな~って思って」

「いいえ。私は東大出身ではありません」

 浩太の言葉に、演技掛かった――大根役者も良い所だが――演技掛かった仕草で、女性は驚いた様に口元に手を当てて驚いて見せる。

「ええ! 住越の総合企画って東大出て無くてもイケる部署なんだ~。パパが凄いレベルが高いって言ってたから、当然東大ぐらい出てると思ったけど~。住越銀行のレベルって、結構低いのね~」

 講義室中に響き渡る声に、講義に集中していた学生の間にも徐々にざわめきが広がる。完全に小馬鹿にしたようなその態度に、困り果てたような何時もの苦笑を浮かべる浩太。その苦笑が気に障ったのか、学生の視線に敵意が交った。

「なにが可笑しいのよ? 住越銀行は東大も出ていない様な『先生』寄越してるのか? って聞いてるのよ」

「いえ……困りましたね。私が東大を出ていないのは事実ですから、反論のしようがありませんので」

「ふん! だから、住越はレベルが低いっていうのよ。ウチのパパ、四井の執行役員をやってるんだケド? 金融業界では有名なんでしょ? 『住越は品が悪い』って」

「一口に『銀行』と言っても各行ごとにそれぞれ『行風』と言うモノがあります。当行は革新的に色々な事業に取り組む、銀行業界の開拓者足らんと思って日々業務に邁進しておりますので、『利益至上主義』と言われている事は間違いないでしょうね」

「だったら、そんな『住越』の行員が何で寄付講座なんてやってるのよ? 利益至上主義なら、利益至上主義らしく、ダボハゼみたいにもっとお金儲けが出来そうな事に喰いついていればいいじゃん!」

 交っていた敵意がより一層強くなる。どう返答して良いモノやら、悩んだ浩太は口を開きかけて。



「……何笑ってんのよ? バカにされてるのに怒りもしないの?」



 地の底から、聞こえてくるよう。

 斜め後ろから聞こえるその声に、思わず開きかけた口を閉じて浩太は振り返り――


「……何が……レベルが低い、ですって?」


 夜叉の顔で笑う、綾乃を見た。

「あ、綾乃! ちょ、お、落ち着い――」

「そこのアンタ」

 浩太の言葉も何処吹く風。綾乃は先程の女性をビシッと指さし、その全身を上から下までくまなく見渡し、言葉を続ける。

「……住越の行員をレベル低い呼ばわりする割には、アンタだってそんなにレベル高そうには見えないんだけど? なに、そのメイク。すっごいダサいし、その茶髪も変。色が汚いわね。虫唾が走るわ」

「な、何よアンタ! 関係ないでしょ!」

「ウチの行員がバカにされた。ウチの銀行がバカにされた。貴方達の講師をする為にわざわざ時間を割いて一生懸命勉強してこの講義台の上に立っている、『松代浩太』がバカにされたのよ? 怒る理由なんて腐る程あるでしょ? なに? そんな事も分らないの? それで何が『ウチら、姫って呼ばれてるし~』よ。頭、大丈夫? 良いお医者さん紹介してあげたいけど……ああ、バカにつける薬は無いって言うし、無理よね。ごめんごめん」

「ば、バカ? アンタ、ウチらがバカって言うの!」

「ええ、言うわよ。東大を出てるから優秀、なんてバカな事を言ってるアンタたちはバカ以外の何物でもないわ。言っておくけど、浩太の出ている大学、桜女から見たら雲の上だから。アンタらがバカにしていいレベルじゃないの。解る? 日本に大学は東大と桜女しか無い訳じゃないのよ?」

「そ、そんな事言ってる訳じゃないし! 大体、ウチらは――」

「『姫だからそんなに勉強出来なくても良いもん。どうせ、お金持ちの家に嫁ぐし~』とか、舐めた事抜かすんじゃないでしょうね? その、合コンと男の事しか考えて無さそうな頭の悪い茶髪と化粧を見れば、『姫』って呼ばれるのが嬉しいのは分るけどね? 桜女風情が、一々偉そうな口利くんじゃないわよ」

「な、何よ! じゃあ、そんなに偉そうな事言う貴方は一体、何処の大学出てるのよ!」

「東大文一から法学部に進みました~。はい、どう? 何か文句あるかしら?」

 さらっと最高学府を出た事を告白する綾乃に、女性は一瞬たじろいだ様を見せるも、直ぐに立ち直り両手を組んで綾乃を睨みつけた。

「ふ、ふん! 東大が何よ!」

「……あのさ? アンタさっきと言ってる事が違うと思わない? だからバカって言われるのよ? わかりますか~?」

「う、うるさいし! だ、大体、別に私はいい大学を女が出る必要なんてないと思ってるし! それに、アンタだって、どうせ勉強しか出来ないか――」

「言い忘れたけど、私は中高までは聖ヘレナ女学院だから。桜女の皆さんは目の敵にしてるんでしょ、聖ヘレナの事? 悪いケド私達、桜女の事なんか眼中にないから」

「――っ! せ、聖ヘレナが何よ! う、ウチのパパは、四井銀行の執行役員なんだからね! パパに言いつけてやる! 住越の行員が――」



「……へぇ」



 その瞬間、綾乃の瞳がギラリと光る。まるで、獲物を見つけたライオンの様なその視線に、女性は喋りかけた言葉を止めた。

「『パパ』の名前、出しちゃうんだ? 良いわよ、それじゃ『パパ』同士で話を付けて貰おうかしら? 言っておくけどウチの『パパ』、外交官だから」

「そ、それが――」

「分ってないな~。外交官って言う事は、アンタが言う『イイ大学』、つまり東大を出ているって事よ? そして、その東大出身者が日本を動かしているの。アンタご自慢のパパが、四井の執行役員? 丁度良いわ。それじゃ『パパ』に言って、内閣府の同期にでも話を付けて貰うわ。今度の金融庁検査、四井には『厳しく』お願い、って」

 銀行が恐れる物は幾つかあるが、その中でも群を抜いて恐ろしいのは監督官庁による監査、つまり『金融庁検査』である。

 何処の世界でもそうだろうが、監督官庁の監査は厳しい。金融庁検査についても御多分に漏れずそうであり、詳細は省くが神経をすり減らすのは確かである。ちなみに、金融庁は内閣府の外局に当たる。

「……辛いわよね~、アンタの『パパ』。娘の心無い一言で、自分の職場が追い詰められるんだから。立場も無いだろうし、ひょっとしたら解雇されちゃうかもね? それで? 『四井の執行役員のパパ』っていう肩書が無くなった貴方には」



 ――一体、何が残るのかしらね? と。



 口元を歪めて嗤う綾乃。その獰猛な笑みに、立ったまま女性は小刻みに震えだす。学歴も、家柄も、最後の寄る辺である『パパ』の御威光までも完膚無きまでに叩きのめされた。瞳に涙を溜めながら、それでもその女性は気丈に綾乃を睨み返し。


「……え?」


 丸めたノートでスパコーンと頭を叩かれ蹲る綾乃の姿を見た。

「……いった~……アンタね! 何で私の頭を叩くのよ!」

「ねえ、なんで? なんで喧嘩腰なの? 普通に考えて分んないかな? あのさ、子供相手にムキになってどうすんだよ! 笑って流せよ、そんな事!」

 そう言って、浩太は女性に笑みを――引き攣った様な笑みを――見せながら、それでも優しく声をかける。

「どうぞ、お座りください。大丈夫、大川の方には私の方からきつく言い聞かせておきますから。ええ、ですからそんなに心配なさらず」

「え? え……え?」

 両目に涙を溜めたまま、訳も分らずポカンとする女性を慌てて席に座らせ、浩太は室内を見回して。

「……どーすんだよ、これ」

 呆気に取られたかの様に固まる諸学生を見つめ、大きく溜息を吐いた。


◇◆◇◆◇◆


「誠に……誠に、申し訳ございませんでした!」

 講師控室として用意された応接室。三人掛け、対面方式の応接セットのフカフカの椅子に座り、浩太は困惑していた。

「あの……頭、上げてください」

 年齢を感じさせる、白髪交じりながらも凛とした雰囲気を持つ上品そうな女性が、応接室の机に額を擦りつけんばかりの勢いで頭を下げているのである。自分の両親より上の年齢の人間にそんな事をされて、平然としていられる程のメンタルは浩太に無い。

「まさか、講義の最中にあの様な失礼な事を言ってしまうとは……大変、大変申し訳ございません!」

「い、いえ……ですから、理事長。どうか頭を上げてください」

 浩太の言葉に、やっと白髪交じりの頭を上げる理事長。若い頃はさぞ美人だっただろうと思わせる風貌に、上品そうな薄いメイクを乗せたその顔は、今や憂いを帯びた表情になっていた。

「その……なんでしょう? そんなにお気になさらず」

「そういう訳には行きません! 今回の事、当方から頼み込んだにも関わらず、あの様な無礼な振る舞い、本当に、お詫びのしようも――」

 堂々巡り。浩太は気付かれない程度、小さく溜息を吐いた。

 理事長からしてみれば、自らが直々に頼み込んだ『寄付講座』だ。別に監視の意味は無いが、それでも『どんな講義だったか、わかりません』と言うのは流石にちょっと……である。OG会である桜会の会合で、同窓の住越銀行頭取の奥様にあった時のネタにもしたい。そんな軽い気持ちで参加してみたのだが、蓋を開けてみれば自分の所の学生が講師に向かって暴言を吐いたのである。顔面蒼白ものだ。

「ですか――」

「松代さん、少し黙って居て貰えますか?」

 浩太の言葉を遮る様。瞳に怒りの色を湛えたまま、綾乃はそう言って口を開いた。

「理事長。今回の寄付講座、学園側からのお申し入れだったとお聞きしておりますが、私の認識で間違いはないでしょうか?」

「え、ええ。わたくし共の方から申し入れさせて頂きました」

「そうであるのならば、講義中にあの様な暴言を吐く、と言う事は住越銀行に恥をかかせる為にこの寄付講座を申し込んだ、と言う事でしょうか?」

「そ、そういうつもりは――」

「では、どういうおつもりですか? 確かに、私共住越銀行と東桜女子学園様は良縁を築かせて頂いてると思っております。ですが」


 それとこれとは、話が別です、と。


「……仰る通りです」

「今回の事は、松代の上長である総合企画部長にも報告させて頂きますし、然るべき処置も取らせて頂きます。寄付講座自体の取りやめも検討させて頂く事になると思いますので、そのつもりでお願いします。それでは、松代さん? 行きましょうか」

 そう言って席を立つ綾乃に、理事長が慌てて声をかける。

「ま、待って下さい!」

 理事長も必至である。

 一見、今回の事は学園側にはデメリットが少ないようにも感じる。元々、厳しい攻勢を仕掛けてくる四井に対する『言い訳』から始まった寄付講座だ。これによって住越と取引が切れたとしても、四井にお願いすれば良いだけの話である。銀行は住越だけではないのだ。

 ……だが、『自らの所の学生が暴言を吐いたから』と言うのは不味い。特に『お嬢様学校』で売っている東桜女子学園としては、これは非常に不味い。鳴り物入りで始まった寄付講座だ。急きょ取りやめになったりしたら、絶対に噂になる。噂は噂を呼び『なんだ、東桜女子は自分の所の学生も管理できないのか。お嬢様学校って言ってる癖に聞いて呆れるな』と、こうなるのである。それは東桜女子のイメージを悪くし、入学者の減少と、OGの評判を損ねる事になるのだ。そんな事態になったら、OG達に顔向けも出来ない。

「……責任を、取らせて頂きます」

「責任?」

「学生の管理を怠ったのは当方側のミス。大川さんのご指摘はご尤もです。ですので」

 そこまで喋り、まるで置物の様になって俯いているもう一人の人物――事件の当事者である、学生の方に視線を向けた。

「東桜女子の名に恥じる行為をした……彼女の除籍処分を検討させて頂きます」

 瞬間、件の女生徒が弾かれたかのように顔を上げる。驚きに開かれた目に、徐々に涙が溜まっていくその姿に、まるで胸を引き裂かれるような思いを感じながら理事長は目を逸らす。理事長にしたって、除籍処分になどしたくない。四井の執行役員の娘だから、何て打算的な感情ではない。経緯はどうあれ、東桜の門をくぐり、学び舎で勉学に励んだ可愛い生徒であり、自身も出身者である理事長に取って、彼女は可愛い後輩なのだ。失いたくなどない。

「……それを以って今回の件、どうか不問にして頂けませんでしょうか?」

 そう言って、唇を噛みしめながら頭を下げる。

「……はあ」

 長い、長い沈黙の後。下げた頭の上を通り過ぎたのは、罵倒でも罵声でもなく、溜息だった。

「何度も言うようですが……その、別段私は気にしておりません」

 理事長が下げた頭をあげる。その視線の先には、困惑した様な浩太の表情があった。

「気にして……おられない、ですか?」

「ええ。正直、除籍処分になったりした方がよっぽど気になりますよ。というか、ですね? 当行の大川の方が話を大きくしてしまいましたが、言ってみれば一学生が講師相手に文句を言っただけの話でしょう? 除籍だ何だという話になる方が可笑しいですよ」

「で、ですが……外部の方、ですよ? 外部の方に暴言を吐いたら、責任を取るのは銀行でも同じではないのですか?」

「子供のした事ですよ? そんなものに一々目くじらを立ててどうするんですか」

 疲れ切った様に息を吐く浩太。その姿を冷めた目で見つめ、綾乃は口を開いた。

「お言葉ですが、松代さん? そう言う問題ではありません」

「何が……っと、何がですか?」

「彼女は『四井銀行』の名前を出して当行を不当に貶めました。そして、そのきっかけは東桜女子大学の講義によるものであり、彼女は此処の学生です。であるのならば、責任の所在を明確にし、その上で罰する事が重要では無いですか?」

 綾乃の言葉に、一瞬きょとんとした表情をし、その後浩太はまじまじと綾乃を見つめ直す。

「お前……マジで言ってんの?」

「大マジよ」

「あのな? 学生が言った言葉だぞ? それを――」

「関係ないわよ。事実として、『四井』が『住越』をバカにしたの。品が無いと、レベルが低いと、大衆の……『財界のお偉方』を父親に、祖父に持つ『噂話が大好きな東桜女子の学生』の前でね。貴方、本当にこの意味が分ってる? 適切な処置を取らないと、住越だけじゃなくて四井の看板にも傷がつくのよ?」

 限られたパイを奪い合う、切った張ったの仁義なき戦いを続ける銀行業界であるが、それでも最低限守るべき『ルール』というモノがある。取引先の業況が危なくなったらメインが支援をするべきだ、とか、バンク・ミィーティングを開催する際はメインの声掛けからスタートするべきだ、とか、リスケと呼ばれる条件変更を行う際はプロラタ返済をするべきだ、とか、種々細々した紳士協定があるのだ。

 当たり前と言えば当たり前だが、その中でも一番やってはいけない事は『他行の批判をする事』である。身内の、つまり行内で『あそこの銀行はダメだよな~、レベル低いし』と言っており、本気で思っていたとしても、顧客対応の際に『あそこはレベルが低いですから、是非ウチと取引を』なんて事を言った日には、重大な信用問題になる。言った方も、言われた方も、その両方がだ。

「わ、私、そんなつもりじゃ――」

 思わず声を上げた学生を、綾乃は冷たい視線で睨む。

「そういうつもりじゃ無い? アンタがした事ってのは『そういう事』なのよ。四井の執行役員をしているパパが言ったんでしょ? 『住越は品が無い』って」

「ぱ、パパが言ったわけじゃない! そういう噂だって、パパが――あ」

「そうね。パパが言ったわけじゃなくても、パパはその噂を聞いて、貴方に話をしたんでしょ? ねえ、それはどういう意味? パパに言われたの? 『住越の講義をぶっ潰せ』って?」

「ち、違う! ぱ、パパは……パパはそんな事言ってない! わ、私が勝手にやっただけ! 四井が東桜と取引したいって言ってたから……わ、私が悪いの! パパは悪くないの!」

「へえ~。パパの為にずいぶんとまあ献身的な態度ね? でも、御免ね? 住越銀行は『品が悪い』から、そんなお涙頂戴の物語じゃ感動しないの。覚えておきなさい? 住越銀行は喧嘩を売られて笑っているほど寛容な銀行じゃないのよ」

 何せ『品が悪い』からね、と、ペロリと唇を舐めて獲物を見つめる虎の様な視線を向ける綾乃。その視線に晒された学生は、自らの仕出かした事の重大さに気付いたかの様、ガクガクと体を震わせる。

「……分りました。それでは、こうしましょう」

 そこまで黙って話を聞いていた浩太が、やおら口を開き、瞳に涙を溜める学生に視線を移した。

「お名前は?」

「ひっく……文学部二年……松葉……梢……」

「それでは松葉さん。貴方がした事の重大さは分りましたか?」

「……ひく……はい……」

「悪い事をした、と思っていますか?」

「……は、はい……ひく」

「では、何をすれば良いか、分りますね?」

 浩太の言葉に。


「……ご……ごめんなさい……」


 絞り出すように、そう言葉を告げる学生の頭を優しい笑顔で見守って、浩太はポンポンとその頭を撫で。


「……では、不問にします」


 えっという言葉が、誰からともなく漏れる。その言葉を耳の端で受け止め、浩太は視線を理事長に向ける。

「理事長」

「は、はい!」

「今回の件に関しては住越銀行側からの注意は致しません。私と、この大川の胸の内にだけ秘めておきましょう。その代り、ここで大川が喋った事に関しても他言無用でお願いします。講義は予定通り続けます」

「は、はい。で、ですが……宜しいのでしょうか? そ、その」

 ちらり、と理事長の視線が綾乃に向かう。

「構いません」

「で、ですが、それで――」

「……お恥ずかしい話ですが、私は今回の講義はとても緊張していました」

「――は……え? な、何を……」

「なんせ、百人の前で講義をするんです。此処にいる大川に、『人食い人種ですか?』と言われるほど、何回も『人』という字を飲み込みましたよ。何が言いたいかと言うと……まあ、物凄く緊張した、と言う事です」

「……」

「私も銀行員で、営業をしていた時代もあります。見ず知らずの人と話をする機会も多かったですし、そこそこ慣れている方ではありますが……それでも、緊張しました」

 そこまで喋り、ちらりと視線を松葉梢に向ける。

「……百人の前で喋る、と言うのはそれだけ気を張る行為です。業務の一貫として、給料を貰っている私ですらそうなんですよ? こちらにいらっしゃる松葉さんの緊張はどれ程だったでしょうか? そして、彼女がそれをしたのは何故でしょうか?」

「それは……」

「『大好きなお父さんの為』でしょう? いじらしいじゃないですか。ねえ、そう思いませんか、理事長? 『大好きなお父さんの為に、恥ずかしい思いを我慢して、必死で先生に噛みつく子供』というのは。東桜女子では『三従』は教えておられないんですか?」

「……宜しいのですか?」

「構いませんよ。ですが、『巧く』処理をして下さい。誰も……『何処も』ですかね? 何処も傷つかない様に」

「……それは、勿論。ですが」

 本当に、宜しいのですか? と、問いかける理事長に。


「勿論。だって、住越銀行は『品が良い』ですから」


 浩太はそう言ってふんわり微笑んだ。



◇◆◇◆◇◆


「……本当にアンタって、甘いわよね?」

 最寄り駅からの帰り道。沈みかけの夕陽を眺めながらブラブラ歩く浩太に、少しだけ怒った様に綾乃はそう問いかけた。

「なにが?」

「さっきのアレ」

「アレ?」

「『お父さんが大好きな娘が、一生懸命頑張りました』って……何よ、それ? 結局、美談にして終わらせようって腹積もり?」

 ジトーっとした目を向ける綾乃に、浩太は苦笑を返す。

「落しどころとしては結構無難だろう?」

「そう? 住越が四井に喧嘩売られたのよ?」

「本気で言ってる訳じゃないだろう?」

「そりゃ……まあ、そうだけど」

 銀行業界の暗黙のルールで、『他行の批判をしてはいけない』と言うのはある。特に、役員クラスがそんな事を言おうものなら、それこそ大問題になるだろう。なるだろうが。

「腐っても『住越銀行』だからな。子供の言った事で一々取引を辞める辞めないの話にはならないだろう、普通」

 仮にも都市銀行の一角を占める住越銀行だ。良い噂も悪い噂も随分とあるし、その中で『品が悪い』というのは良く言われる言葉だ。四井の執行役員がそう言ったなら『財界のお偉方』は動揺もするだろうが、執行役員の『娘』であるのならばまた話は別、特に、まだ大学二年生の小娘の言葉だ。そんなもので一々振り回されるほど、財界のお偉方というのは暇では無い。要は、全く問題が無いのである。

「それをまあ、お前はネチネチと……つうか、むしろびっくりしたよ、俺は」

「……何がよ」

「『住越銀行が四井銀行に貶められた』って……何時からお前はそんなに愛行心溢れる奴になったんだよ? 住越が無くても東京総和銀行に行くから別に良い! って言ってた奴が」

「別に愛行心の発露からあんな事言ったわけじゃないわよ。ただまあ……あんまりあの子が舐めた態度取ってたから、ちょっと腹が立っただけ。それに、一応東桜女子にも釘刺しとかなきゃいけないでしょ? 住越舐めるな、って」

「……結果オーライの所もあるけど、取りあえずこれで四井の攻勢はしばらくはおさまるかな? って俺も思ったけど……でもな? 腹が立ったって……お前さ、流石にやり過ぎだろうよ」

「なによ? 今回、殴り飛ばさなかったわよ? 成長したのよ、私も」

「……本気で言ってるんなら聖ヘレナの教育方針を疑うんだが?」

 ジト目で睨む浩太に、あうあう言いながら視線を逸らし、諦めた様にその視線を浩太に戻す。

「……悪かったわよ。でも!」

「でも?」

「そ、その……」

「なんだよ?」

「え、えっと……そ、その」

 いつに無くもじもじとした態度を取る綾乃に、浩太が訝しんだ視線を向ける。

「まあ、お前の愛行心は良く分かった。でもな? だからと言って――」

「……別に、愛行心じゃない」

「――やっていいこと……え?」



「……悔しかった、んだもん」



 ポツリ、と。

「……は? く、悔しい? なにが?」

「だ、だって! 浩太がどれほどあの『講義』に時間を割いてたかも知ってるもん! この三週間、講義の仕方を勉強するために夜間の大学にこっそり顔を出してたのも知ってるし、講義用に作ったノートだってボロボロになるまで読み込んでいるのだって知ってるもん! 毎日毎日夜遅くまで頑張って、『こうやったら分りやすいかな?』とか、考えてたのだって知ってるもん!」

「あ……やの?」

「それを、学歴だけで否定されるのなんて許せなかったのよ! 貴方の努力を、貴方の頑張りを、愚直なまでに必死に頑張った貴方のその言葉を、その声を、ただただ大学名だけで否定するっていうのが嫌だったのよ!」

 そこまで喋って、綾乃はキッと浩太を睨みつける。

「大体、アンタもちょっとぐらい反論しなさいよね! 講義の前に緊張しすぎる程緊張してたんでしょ? それって、裏を返せばこの講義にそれだけ全力で取り組んでいたって事じゃない! それを――」

 

 綾乃の言葉が、遠くから聞こえてくる様な、そんな錯覚。


 自らの努力を認めてくれ、その努力をバカにした人間を、自ら以外の人間が本気で怒ってくれる。


 浩太以上に真剣に、浩太の為に怒ってくれる人間がいる。


 浩太以上に浩太の努力を認め、そして褒めてくれる人間がいる。



 自分以外の人間が、自分を認めてくれる。




 ――それが一体、どれ程嬉しい事か。




「……って、聞いてるの、浩太!」

「ん……ああ、聞いてる」

 そう言って、浩太は隠す様に綾乃の頭を二、三度ポンポンと撫でるように叩く。

「な、なによ!」


 隠す様に。


「何でもないよ」


 その、震えだしそうな程の歓喜を隠す様に、浩太は綾乃の頭を撫で――そして、ある感情の芽生えに気付き、愕然とし、戸惑う。


「ちなみに、綾乃さん?」


 そんな感情の蕾を隠す様に。


「なに?」


 そんな感情の蕾を捨てる様に。


「さっき言ってたあの、金融庁検査だけど……マジ?」


 ――松代浩太は、自分の事を『普通の人』だと思っている。大した才能も、大した能力もない、極々普通の人だと、本気でそう思っている。



 だから、松代浩太は『望まない』



 望んでも手に入らない事を、望んでも叶わない事を、そして叶わなかった時の挫折と絶望を、良く知っているから――



 ――松代浩太は、その感情に『蓋』をする事を選ぶ。



「なに? お望みなら『マジ』にするけど?」




 ――決して、大川綾乃を『欲しがらない』様に。




「それは辞めろ!」


 綾乃の獰猛な笑みに慌てて浩太は首を左右に振る。その仕草を面白そうに眺めて、綾乃は肩を竦めて見せた。

「嘘に決まってるでしょ? 流石にそんな力はウチの『パパ』には無いわよ。大体お父さん、今頃イギリスに居るし」

「んじゃ、さっきのは」

「はったりに決まってるじゃん。アンタ得意でしょ、はったり。アンタのマネしてみたのよ」

 そう言ってにししと笑って見せる綾乃に浩太は溜息を――『いつも通り振舞えた』という、安堵の溜息を、一つ。ほれ、行くぞと綾乃を急かし、この後綾乃と飲みに行くことになっている居酒屋までの道を歩いた。


◇◆◇◆◇◆


 ――この話には少しだけ、後日談がある。


「……何をしたんだ、松代」

「……はい?」

 明けて、翌日。いつも通り出社した浩太に、次長の中桐はまるで呆れた様な顔を見せて浩太のデスクの前に立った。その姿に、頭に疑問符を浮かべ――昨日の『事件』を思い出す浩太。

「あ、あの……何か不味い事しました?」

「まあ、不味い事というか……昨日の夜にな? 四井の松葉執行役員からウチの部長宛に電話がかかって来たんだよ」

 中桐の口から飛び出した『四井の松葉』と言う単語に、浩太の顔が青ざめる。慌てて釈明を口に出そうと、浩太が口を開きかけ。



「松葉執行役員、ウチの部長に平謝りでな。松代に『くれぐれもありがとうと言っておいてくれ』だって。『娘が退学させられなかったのは君のお蔭だ』って……おい、松代。一体、何をやったらそうなるんだ?」



 ――『四井の執行役員に頭を下げさせた男』として、浩太の名が本部内でちょっとした噂になるのには、それから数日の時を要した。




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