第二百九話 届け、愛の歌:クリスの場合
クリスティーナ・ウェストリアは、エドワード・アルトナーを愛している。
クリスティーナ・ウェストリアという少女を『可哀想』と評するのは間違いであろう。確かに、クリスティーナ・ウエストリアの人生は『数奇』ではあったかも知れないが、少なくとも彼女にとって自身の人生は誰に卑下も、それに同情される程惨めな人生であるとは思っていない。確かに、彼女の人生は生まれる前から既に国内の大貴族であるアルトナー家の次子との婚姻という人生の重要イベントのフラグが立っている状態であり、そして生れ落ちたその瞬間に性別を偽って生きるという業を背負って生まれて来てはいる。しかも人質として他国に差し出されるというおまけ付で。
しかしながら、そんな中で行ったフレイム王国ではリズの母親である国母アンジェリカ、それにエリカの母親であるリーゼロッテの二人は他国から来たこの『少年』は心から愛された。女性ばかりの所帯、そんな中でやって来た『男の子』が可愛かったというのもあるが、少年の聡明さや愛らしさ、それに他国に人質に来ているというのに卑屈さを感じさせない天真爛漫なその姿にいじらしさを覚えたのもある。人並み以上の愛情も、教育も、そして『お叱り』も受けたクリスティーナはすくすくと育つ。恒常的な戦争状態、正に犬猿の仲である両国の、もしかしたら本当に架け橋になる存在になるのではないかとアンジェリカが真剣に検討する程に。当然、クリスだって何時だって楽しく笑えていた訳では無い。無いがしかし、彼女にとって幸せな事に常に彼女の側にはエドワード・アルトナーという最も信頼できる臣下がそこに居た。
もし――もし仮に、クリスティーナが『女性』として生きて行ければ、その生涯をパートナーとして過ごしたかも知れない男性で、遠い異国の地で自らを守るため、まるで騎士の様に自分に寄り添い、守り、見守ってくれる男性。
王族として生まれ、数奇な運命を送っているとはいえ彼女だって女性である。また、彼女の教師……は若干残念ではあったが、学友であるリズやアリアは所謂『キラキラ』した女性であり恋愛方面の――経験値はゼロであっても、知識は豊富にあった。そんな影響の下に育ったクリスティーナが、エドワードに淡い思慕の念を抱いたとしても然程不思議な事ではない。単純に長い時間を共に過ごしているのもある。何時しかクリスティーナはエドワードに視線を送る回数が増え、徐々に、そして確実にエドワードの考えが分かる様になっていった。勿論、考えの全てが分かるとか、或いはテレパシーの様に何を言いたいかが分かるなんてオカルト染みた話ではない。単純に付き合いの長さからくる一種の阿吽の呼吸の様なものであり――そして、その『能力』によってクリスは一つの結論を出す。
即ち、エドワードは自身に好意を寄せている。しかも、男女間の愛情をも越えた、もっともっと深い愛情を。
それに気付いた時、クリスティーナは舞い上がる程に喜ぶ気持ちと、同時に自身を消してしまいたい程の劣等感に苛まれた。当然と言えば当然、自身が好意を寄せている相手からの好意を喜ばない女性など存在し得ないだろうし、同時に、その相手に対して『女性』として答えてあげる事の出来ない――彼女に責任がある訳ではないが、それでも一種の不甲斐なさに似た感情も確かにあったのだ。
自身に好意を寄せてくれながら、それでもそれに答える事の出来ない辛さ。惨めさ。悲しさ。
何度もエドワードを解放しようと思った。エドワードは次男とは云え、名門アルトナー家の子息である。縁談の数は引く手数多であろうし、それこそ自身の妹であるマリーの嫁ぎ先として別家を立てる方法だってあったのだ。それでも、その最後の段階で必ずクリスティーナは躊躇し、そして幾度もエドワードからそのチャンスを奪って来た。そこにあったのは、暗く、そして鬱屈した独占欲に似た暗い感情。その感情を、一言で言うならば。
――クリスティーナ・ウェストリアは、エドワード・アルトナーを『愛』している。
例え、地獄の業火に焼かれる事になっても、それでも二人ならそんな業火すら愛しいと思えるほどに、クリスティーナ・ウエストリアはエドワード・アルトナーを愛しているのだ。
◇◆◇◆◇
「……さぶぅ」
窓の外が薄っすらっと白み、室内に太陽の光が降り注ぐ。めっきり日も短くなり、雪こそ降らないものの、太陽の光程度では十分とは言い難い室内に温度にクリスは小さく身を震わせるとあくびを一つ、まだ起きるには早い時間と思い布団の中にその体を丸めようとして――そして響いたノックの音にその動きを止める。
「開いとるよー」
王族とは思えない程の気安い声音。その声音に、ドアの前の『男性』が小さく溜息を吐いただろう事を想像し口の端を小さく上げる。
「失礼します、クリス様」
想像通り、室内に入って来たエドの姿にクリスは先程まで小さく上げていた口の端を、今度は満面の笑みに変えてエドを迎え入れた。
「おはよう、エド」
「おはようございます、クリス様。尤も、時間的には十分『おそよう』でありますが」
「ぶー。そんな事言わんでもエエがん。っていうか、そんなに遅く無くないかの? まだ日が昇ったばっかりじゃがん」
「やる事は沢山御座いますので。まあ、クリス様にそこまでの仕事量は求めませんが」
「エド、やさし~」
「いいえ、クリス様。クリス様の能力を考えれば寝ている方が仕事の進みが早いだけです」
「……エド、やさしくない~」
「事実ですので」
ぶー垂れた表情のクリスを優しい視線で見下ろしながら、クスリと小さく笑って見せる。そんなエドの表情だけで、胸の奥に温かいモノが流れ込んでくる感覚をクリスは覚えた。
「……ま、そうは言っても私がやる事があるんじゃろ?」
「ええ。流石に政務執行のサインは私のサインでは代用が出来ませんので。どうです? もう起きられますか?」
「起こしに来たんじゃろ、エド?」
「……そこまで立て込んでいる訳では御座いませんのでもう少し睡眠をとって頂いても構いませんよ」
ならば、なぜ来た? などとクリスは思わない。
「なんじゃ? エド、私に逢いとうなったけん、わざわざ朝はようから押し掛けて来たんか?」
ようは、こういう事である。
「……そういう訳では御座いませんが」
「照れんでもエエがん。私は嬉しいで? エドに起こして貰うの」
そう言ってにこやかな笑顔を向けるクリス。一瞬言い淀み、何かを言いかけ、そして諦めた様に小さく溜息を吐くエドにもう一度にこやかな笑みを浮かべて、クリスはベッドからその身を起き上がらせる。
「んー! ほいでもエエ時間じゃし、そろそろ起きようかの。エド、今日のご飯はなに?」
「起き抜けで早速ご飯の心配ですか?」
「朝はお腹が減るんじゃ。エド、もう食べたん?」
「いえ、私も頂いてはおりませんが」
「ほな丁度エエな! ほいじゃエド、一緒に朝食と行こうや!」
やれやれと言った風に肩を竦めるエドワード。長い付き合いだからこそ分かるその表情に、クリスは満面の笑顔を浮かべたまま――小さく、溜息を吐く。
「クリス様?」
クリスには分かる。ここ数日、フレイム王国を取り巻く環境は激変の言葉では物足りない程に変化を遂げている。この国の実質上のトップであるエドに掛かる負担は決して小さく無い事も、クリスには分かり、そしてその気の抜けない環境が徐々にエドの体を蝕んでいるのだって十分すぎるほど分かっているのだ。
「なんでもないで~」
だから。
「……そうですか?」
だから、もう、終わりにしよう。
「そうじゃそうじゃ。それより、朝ごはんは何かの~? 楽しみじゃ」
国家としての体をこれ以上維持するのは難しい。既に、世界中のその殆ど全てが敵の様な現状では、どんなに名君であったとしてもこれ以上事態の好転を望むのは無理だ。真綿で首を絞められる様に、徐々にフレイム王国はその息の根を止められる。今、エドが行っている『政策』はその息の根が止まるのを延命しているだけの事に過ぎない。それはとてもとても難しい事で、そしてその困難な事業を成し遂げようとするこの愛すべき忠臣を。
「……呑気ですね、クリス様は」
「そうじゃで? 私は何時だって呑気なんじゃ」
――この愛すべき男性を、真の意味で解放してあげようと、クリスは心から誓うのであった。




