第二百七話 コジンノイシ
こんなジョークをご存じだろうか?
犯罪者の約98%が食べている食事は何か、という問題で正解はパンである、というものだ。パン食甚だしい昨今、日本人にとっても無視できない統計的な数字である……というジョークである。現代日本でパンを食べた事が無い人、と云うのを探すのは中々難しい事と簡単に想像出来るが、日本人がここまで恒常的にパンを食す様になったのは精々ここ百年、具体的には第二次世界大戦後の事である。
第二次世界大戦、世界中で深刻な食糧難に陥った。空襲、原爆と空からの脅威により国土のほぼ全てが焦土と化した日本だけではなく、陸上戦で国土を疲弊させた欧州でも同じような問題は起きていた。そして、この問題を解決したのがアメリカだ。第二次世界大戦中、数例の例外を除いて国土を侵される事の無かったアメリカは自国のみならず、欧州向けに自国製品――具体的には『小麦』を輸出していった。欧州復興計画、当時の国務長官であり提唱者であるジョージ・マーシャルの名を取った通称『マーシャル・プラン』である。マーシャル・プランは大成功の内に幕を閉じた。幕を閉じた代わりに、新たな問題を生んだ。
小麦が余ったのである。
小麦は米と違い、足の速い食物である。余剰となった小麦の提供先として、アメリカが目を付けたのが日本だ。戦後数年、まだまだ食糧事情が深刻な日本に対し、アメリカは小麦の『援助』を行う事を決定したアメリカはそのまま、学校給食にも手を付ける。パン食と牛乳の始まりだ。古来、日本の文化に無かった『パン食』はこうして始まったのである。
学校でパンを普通に食べた世代が、大人になってもパンを食べ、そして結婚し子供が生まれたらその子にパンを食べさせ、そしてその子が大きくなって学校に通う頃には当たり前の様にパンを食べる。ちなみに、今でも日本の小麦の最大の輸入国はアメリカである。
断っておくが、これをもって米食文化への攻撃だ、文化の侵略だ、などと云った過激な話をするつもりは毛頭ない。理由はどうあれ日本の当時の食糧事情が最悪であった事は事実であり、アメリカによる小麦の供給によって欠食児童や栄養失調の数が劇的に減少したのは間違いないのである。経緯や過程はともかく、感謝するのは間違った話ではないのだ。
が、それも踏まえて敢えて陰謀論をぶちまけるのであれば、このアメリカの政策の裏に穀物の国際的な流通に多大な影響力を持ち、その実力を行使できる商社――所謂、『穀物メジャー』の存在があったであろう事は想像に難くない。むしろ、余剰になった小麦の『販売先』の確保を狙った穀物メジャーによる働きかけがあったと考えるのが普通でもあり。
「ワシらの様に『穀物』を扱う商会は為政者との連携は密にせんといかんからの」
こういう事である。
「ええ、分かります」
「ひょっひょっひょ。別にバカにするつもりは無いがの? 究極、ロート商会みたいなアクセサリーを作る商いは無くても困る事では無いからの。心の充足を得るためにアクセサリーは必要じゃろうが、それじゃって食うモノがあって初めて意味を持つ。誰しも腹が減っとる状態でやれアクセサリーだ、やれ服だ、とは中々言えんもんだからの」
そう言ってひょっひょっひょと笑い、ライツは浩太の眼をじっと見つめる。
「我々穀物を――と云うよりは食糧をかの? ともかく、そういったモノを扱う商会は大なり小なり政治と関わりを持つことになる。当たり前と言えば当たり前じゃが、政治とは、国とは国民のその全ての口にパンを供給するのも仕事の一つじゃからの。一つの商会が力を持ちすぎない様に、その商会だけで全てを決めてしまわない様に」
国民を、飢えさせない様に。
「それが出来る為政者こそが信頼に足る為政者じゃって」
「……お考え、拝聴しました」
「お考え、という程でも無いがの。まあともかく、今のラルキアの……フレイム王国の為政者は信用できん」
「ウェストリア出身だから?」
「商売相手じゃったらウェストリアじゃろうがフレイムじゃろうがソルバニアじゃろうが差して変わらん。心情的にはお里が知れるとは思うが、それで見誤る程度の商才じゃったらウチは此処まで続い取らんわい」
「失礼しました」
「構わんがの。ともかく、ワシは今の為政者を信用しとらん。孫ほどの年齢の小僧っ子と小娘が二人でちんたら『経営』しとる様な国じゃからな。早晩、瓦解するのは目に見えとる。泥船に乗るのも詰まらんしの? なら、良い条件で話が来ている今のうちに乗って置こう、と云うのが理由の一つじゃな」
「……一つ?」
「二つ目は個人的な事情じゃがの。まあ、お前も知っとるじゃろ? ロッテは元々バウムガルデン商会の御曹司じゃぞ?」
「それが――」
言いかけて、気付く。
「……昔馴染み、ですか?」
「ロッテとワシは三つも離れて無い。付き合い自体はあ奴の二人の兄との方が長いが、まあ同じ九人委員会の仲じゃ。鼻水を垂らしてた頃からの付き合いじゃの」
まあ、ロッテが鼻水を垂らしてる姿なんぞ見た事は無かったがの、と一笑い。
「あ奴の評判は知っとるじゃろ?」
「評判、と云いますか……まあ、フレイム王国の鵺みたいな人だったとは」
「そうじゃな。冷徹にして、苛烈。弱みを見せる事などなく、常に大上段から話をする男。そのくせ、外面は分厚い化粧で隠して本音を見せない。それこそ、他国の宰相クラスがロッテが何を考えているか全く分からない程に」
「……抜群の外交手腕だった、とはお聞きしております」
「まあの。あ奴が外務局の局長をしているときはウチの商会も随分儲けさせて貰ったわい。なんせ、あ奴が交渉に出ると今まで渋っていた国でも穀物の輸出をすんなり認める様になるからの。じゃからまあ、増税要求に関してもすんなり受けて来た」
「その割には減税を求める嘆願もあったとお聞きしておりますが?」
「そりゃの。ワシらもただ黙って増税を呑む訳には行かんし、まあ一種の風物詩の様なモンじゃ。それで下がれば運も良い」
「ロッテさんの事を悪く言えませんよ。貴方も随分な悪党だ」
「ひょっひょっひょ。ワシなど可愛いモンじゃ。まあ、ロッテだって可愛いモンじゃがの」
そう言って一息。ライツは笑みを引っ込めた真剣な視線を浩太に向ける。
「ロッテの望みはの? 『フレイム王国の幸せ』じゃった。王族だけが、貴族だけが、ワシらの様な大商会だけが幸せになるのではなく、国家が、その国家に住む全員が幸せになる事を考えておったんじゃ」
「……ご存知だったのですか?」
「ひょ? ご存知?」
「いえ……ロッテさんの『夢』です」
「いや、知らんがの。知らんが……なんじゃ? ロッテの夢は『国民の幸せ』じゃったか?」
「正確には『皆が笑える国』ですが、まあ同意でしょう。というより、ご存知では無かったと?」
「知らん。あ奴が国政の実権を握りだした頃はもう、お互いにエエ年じゃったしの。今更夢や理想を語る程の事はした事なんぞ無い」
「ですが、先程ロッテさんの理想の国家の在り方を断言されていたでは無いですか」
「語らずとも分かる。ワシは商会、ロッテは国家と土俵こそ違うもお互いに守るモノの為に働いていたんじゃ。あ奴の施策がワシらや、ワシの商会で働く人間を少しでも豊かに、少しでも良くしようとしていたのは良く分かる。それこそ、百万の言葉で語られるよりもの」
「……」
「……ロッテの考え自体はワシも好意的に捉えていたからの。さっきも言った通り、ワシの商会は穀物を扱う。そういう意味では、国家への貢献度は他の九人委員会よりも高いという……まあ、なんじゃ? 自負もある」
「自負?」
「国民を不幸にする『責任』も、国民を幸福にする『権利』も、その両方を持ち合わせているという自負がの」
一商会が偉そうにと思うじゃろうがの、と楽しそうに笑い。
「エリザベート陛下もエリカ陛下も、形は違えどロッテの意思と遺志を継ぎ、それを成功に導きたいという意志もあるとワシは見る。バウムガルデンの一族であり、学術院の才女であるシオン・バウムガルデンも居るし、ビアンカの義妹も居る。どっちに賭ける方が……そうじゃの、『楽しそう』かは火を見るよりも明らかじゃ」
「……ご期待に沿えると良いのですが」
「無理に沿って貰う必要も無いがの。それに、別に責任を感じる必要も無い。見込み違いであればワシの見る目が無かっただけじゃ」
そう言って残っていた紅茶を一息で飲み干し、ライツは席を立って。
「――ま、そうは言ってもこのライツ、読みを外した事は無いがの?」
もう一度ひょっひょっひょと楽しそうに笑い、ライツは頭を下げる浩太にひらひらと手を振って部屋を後にした。




