第百六十一話 勇者のお仕事
誰がとは言いませんが、勇者のお仕事です。
飛び込んで来たエミリの青ざめた表情と言葉をエリカが理解するまで、たっぷりと、数秒。回りの悪い脳が、その言葉を正確に理解すると同時にエリカはポカンとした表情のままポツリと。
「…………は?」
間抜けな声を上げていた。そんなエリカの声を受けたエミリは埒が明かないと思ったか、そのままエリカの袖を引いてぐいっとドアの方に向けて引っ張る。
「早くお逃げください、エリカ様! 既に賊は城門を抜けて城内へ侵入しております!」
「ちょ、ま、まって! な、なによ!? ぞ、賊? 賊ってどういう事よ? 此処はラルキア城よ? フレイムの、オルケナの千年の都、王都ラルキアなのよ! なんで賊が!」
「私にも詳細は分かりかねます! ですが、事実として賊が迫ってきております! 至急、お逃げくださいませ!」
訳が分からないまま、それでも必死のエミリの形相に気圧され、まるでその視線から逃げるようにエリカが浩太に視線を向ける。呆気に取られていたのは一瞬、エリカの視線を受けた浩太は努めて冷静に――それでも少しばかり上擦った声を上げた。
「……細かい事は分かりかねますがエミリさん、この王城内に危険が迫っているという認識で間違いはないですか?」
「そうに御座います! 城門前では激しい戦闘が行われたとお聞きしました。多くの近衛が討たれ、それでも何とか難を逃れた近衛の方が、最後の力を振り絞ってカール様に現状を報告されて……それで……」
どちらかと言えばいつもは気丈なエミリにしては珍しい、悲痛な、今にも泣き出しそうな表情を浮かべるその肩に浩太はそっと手を置く。そんな浩太に潤んだ瞳を向けてくるエミリの頭を撫でて、口を開いた。
「……分かりました。取り敢えず、逃げた方が良いのは良いのでしょう。エミリさん……ああ、いや、エリカさん? 避難経路はありませんか?」
「……へ? わ、私?」
未だ理解が追い付いていないのか、ポカンとした表情を浮かべたまま浩太を振り返るエリカ。場違いとは知りながら、そんなエリカの表情が可笑しくて浩太は小さく喉の奥を鳴らす。
「私の居た世界では良くあるんですよ。こういう、王様とか殿様が住む城にはいざという時の為に作られた隠し通路とか、秘密の抜け穴とか、或いは身を隠せる小部屋とかが。ありませんか?」
アレックス帝――マコトが浩太と同じ日本人であれば、あってもおかしくない。そう思った浩太の言葉に、エリカは曖昧な表情で頷いて見せた。
「え、ええっと……そ、その、あるにはある……と思う。ほ、ほら、ラルキア王城って結構広いでしょ? よく『かくれんぼ』をして遊んでいたんだけど、その時に『ルール違反』ってされてた通路があって、そこが、その……」
「秘密の抜け穴?」
「……うん。王城の外に出られる通路があるの。玉座のちょっと右側に、動く床があって、そこから出られるようになってる。きっと、まだ埋められてはいないと思うんだけど……」
エリカの言葉に思わず浩太が口笛をひゅーっと鳴らす。まるでアニメや漫画の世界、抜け穴があるだけでなく、入口まで十分『ファンタジー』である。
「分かりました。ではそちらに向かいましょう。エミリさん、随分息が上がっておられましたが、大丈夫ですか?」
「え、ええ。私は大丈夫です!」
瞳に溜まった涙をぐっと拭い、意思の籠ったそれを向けて来るエミリ。その姿にうんと頷き、浩太は視線をエリカに向けて。
「……リズは?」
不安そうなエリカの表情が視界に映る。
「ねえ、リズは? リズ、確か自分の部屋で寝ているわよね? 助けに! 助けに行かないと!」
先程までとはうって変わって、瞳に強い意志を宿すエリカ。そんな視線を受けてエミリが気まずそうに視線を避けた。
「……陛下のお部屋は今いる場所とは正反対、王城の奥に御座います。此処から玉間を通り過ぎ、そして玉間に向かうとなると……」
まるで奥歯に物が挟まった様なエミリの言葉。それに、エリカが噛みついた。
「…………だから?」
「……」
「だから、なに? リズの部屋が遠いから、なんなの? エミリ、もしかして貴方、リズの部屋が遠いから、助けに行かないとでも言うつもり?」
「……エリカ様」
「エミリ!」
まるで、叫ぶよう。そんなエリカの絶叫に、エミリがきっとした視線を向けた。
「……私はエリカ様付の侍女に御座います」
「エミリっ!」
「――エリカ様のお幸せが、エリカ様の笑顔が、エリカ様の安全が第一に御座いますっ! ですので……私は、陛下御救出は反対に御座いますっ!」
パーンという音が、室内に響いた。
「……もう、いい。私が助けに行くっ!」
「行かせません、エリカ様っ!」
「どきなさいエミリ!」
扉に向かって歩くエリカを遮る様、エミリが両手を広げてその動きを止める。まるで親の仇、睨み付けるエリカの視線を、それでも外さずエミリも睨む。
「……時間が勿体ないです。エリカさんも、エミリさんも」
そんな二人に割って入る様、浩太がその身を視線と視線の間に滑り込ませる。絶対零度、まるで凍えそうな視線に思わずぶるりと身を震わせた後、浩太は口を開いた。
「……エミリさん、エリカさんを連れて玉間に向かって下さい」
「コータっ! 貴方まで、何を言っているの!」
「個人的にはエミリさんの意見に全面的に賛成です。危険な状態である以上、早めに避難するのがベストです。対岸の火事とのんびり眺めている事が出来る状態でも無いですしね」
そんな浩太の言葉に、エリカの視線の険が一層強くなる。そんなエリカの視線を受けて、それでも浩太は臆する事もなく言葉を継いだ。
「――ですので、エリカさん? エリカさんはエミリさんと一緒に避難して下さい。陛下は、私が責任を持ってお連れしますので」
え、という声が、漏れた。
「こ、コータ様!? き、危険です! 危険すぎます!」
「そ、そうよ! コータ、何を考えているの!」
驚きの表情は一瞬。まるで機関銃の様に喋り出す二人に、小さく溜息を吐いて見せる。
「なにって……これがベストでしょう? エリカさんは陛下を救い出したい。エミリさんはエリカさんを早く逃がしたい。ならば、エミリさんがエリカさんを連れて逃げている間に私が陛下を助け出す。別にエリカさんが直接助け出さなくても、陛下が助かればそれで良いのであれば、問題ないじゃないですか」
「も、問題ないって……」
結論だけ見れば確かにそう。
「で、ですがコータ様! それではコータ様が危険過ぎます! 既に場内の何処に賊が侵入しているか分かりません! す、直ぐに私達と共にお逃げください!」
「だから、それじゃエリカさんが納得しないんですよ。此処で無駄に時間を使うぐらいなら、お二人だけでも逃げた方が良いです」
「だ、だから!」
「このままでは三人とも賊の手に掛かってしまいます。ですので、エミリさん、早く――」
「私はイヤですっ!」
エミリの絶叫が、室内に響く。
「……エミリさん?」
「私はイヤです! エリカ様をお救いする代わりに、コータ様を失うなんて、そんなのはイヤです!」
「……」
瞳に涙を浮かべたまま、じっと浩太を見やるエミリ。その姿に、浩太が小さく溜息を吐く。
「……まあ、そうですね。正直、私自身、運動にそれほど自信がある訳じゃないんですよ。足だって震えてるし、出来れば何にも見なかった事にして逃げ出したい所ではあるんですよ、ええ」
「でしたら!」
「でもね? それじゃきっとエリカさんはご納得されないでしょう? 陛下を残して、自分だけ生き残っても一生心に傷を負うでしょう? なら、きっと誰かが陛下をお助けしなければならない」
「……こーた……さま……」
言葉にならない、そんなエミリの言葉。そのエミリの仕草に、浩太は小さく笑む。
「……まあ、根拠も何にも無い癖に、楽観的な意見で申し訳ないですが、きっとなんとかなりますよ。ですので、エミリさんも心配せずに。それに……まあ、最近では魔王だなんだって言われて皆さん、忘れがちでしょうけど……私、一応『勇者』として召喚されたんですよ?」
そう言って、浩太は大袈裟に肩を竦めて見せて。
「――お姫様を救い出すのは、何時だって勇者のお仕事でしょう? まあ、救い出すのは女王様ですけど」
◆◇◆◇
「……流石にちょっちやっべーね、ソニアちゃん?」
「アヤノさん! いいです! もういいです!」
後方から聞こえる、剣戟の音と、怒号。軽口を叩きながら、それでも背中に流れるのは冷たい汗である事を感じ、そしてそれを殊更に忘れようと綾乃は軽口を叩く。
「いやー、王城に帰ってきて早々、大挙して武装集団現れるってどういう事よ? どんだけ運が悪いのよ、私達? 私、どっちかって言うと運がいい方だと思ってたけど……なに? ソニアちゃん、なんか憑いてるの? 主に貧乏神的なヤツが」
「もう……もう、いいです、アヤノさん! お願いですから! お願いですから!」
頭にお鍋を被り、右手でモップを持つ、なんてコミカルな格好のソニアを。
「お願いですから、降ろして下さい!」
――そんなソニアを、背負ったまま。
「このままではアヤノさんまで捕まってしまいます! ですから、私を降ろして下さいっ!」
背中に流れるのは冷たい汗でも、額に流れるのは珠の様な汗。ソニアを背負ったまま、目に入って来ようとする汗を拭い綾乃はニヤリと笑って見せる。
「ぶー! ソニアちゃん、ノリが悪い~。そもそも、そんな……」
チラリと視線を痛々しく、真っ赤に腫れあがった右足の踝に向ける。
「……そんな捻挫した足じゃ走れないでしょ? ソニアちゃん背負って走った方が早いっての。っていうかソニアちゃん、ドジっ娘だな~。まさか走り出した一歩目でコケるなんて」
「アヤノさん!」
「つうか、捻挫したままのソニアちゃんを置いて行くなんて出来る訳ないっしょ? だいじょーぶ! これでも私、小さい頃は『狂犬』って呼ばれてたんだから! ソニアちゃん一人を背負って走るぐらい、なんて事は無いって!」
全然、大丈夫には見えない。息は上がって、額から汗が滲む綾乃の姿に、悲痛なソニアの声が飛ぶ。
「ですが、このままではアヤノさんが!」
「だからだいじょーぶだって! ソニアちゃん、知らないの? こういう時って大体、ヒロインは助かるって相場が決まってるんだから! ソニアちゃんは安心して綾乃タクシーのナビしてればいいの! 逃げ道、分かるんでしょ?」
「それはお話の中だけの話でしょう!?」
「召喚されて異世界に転生しました~ってだけで、十分お話めいてるってば。ともかく! 子供は変な心配せずに黙ってお姉さんの背中におんぶされてればいいの」
そう言ってにこっと笑う綾乃の笑顔。いつも通り、ほんわかした笑顔の端で微かに震える唇がソニアの目には映った。
「……」
あんな事を言っても、綾乃が怖くない訳なんてない。屈強の男の兵士でも戦場では足が震えるものだ。年若い綾乃が、それでも気丈に振る舞えるのは綾乃の性格と。
「……大丈夫だから。ソニアちゃんは、きっと助けるから」
その、意志の強さ。そんな優しが嬉しく、有り難く――そして、何よりそんな綾乃に迷惑を掛けている自分が何よりも情けなく、ソニアはぎゅっと綾乃の背中にしがみつく。ソニアの力が入ったのが分かったのか、綾乃もソニアを背負い直して。
――それがいけなかったのだろう。
「――っ!? アヤノさん! こっちではありません!」
「なぬぅ! マジか!」
本来であれば右折する通路を、左折。増築に増築を重ねたラルキア王城は、広く複雑な造りをしておりまるで迷路の様になった城内には。
「げ! 行き止まり!?」
こんな場所がある。綾乃の額には先程とは別種の、背中に流れる汗と同種の汗が流れた。
「今来た道を戻って下さい! そうすれば――」
「おい、居たぞ! こっちだ!」
ソニアの言葉を遮る様、後ろから男の声が響いた。数の程は五人ほど、慌てて後ろを振り返ったソニアの視界に映ったのは血走った眼を向けて来る男たちの姿だった。
「なんだ……女?」
「は! 誰かが逃げたと思って追いかけてみたら女かよ? これじゃ『手柄』にもなりゃしねーぞ」
「っち! 折角追いかけて来たのに無駄足かよ! ったく、面倒くせーな。さっさと殺しちまえ! もっと大物、狙うぞ!」
口々にそういう男共の声に、ソニアが小さく体を震わす。
「……わい」
向けられた、その純粋な悪意。理由なんか何もない、ただ『殺す』という、明確で危険な意思に。
「……わい……こわい……」
最初は小さかったそれが、徐々にガタガタと、大きくなっていく。
「……こわい……こわい……こわいよ……こわいよ……こーたさまぁ……おとうさまぁ……」
体の震えは止まらない。歯の根が合わず、ガチガチと震えるソニアのその振動を背中で感じて綾乃は小さく溜息を吐いた。
「……よいしょっと」
そんなソニアを綾乃は背中から降ろすと、しゃがみ込み目を合わせる。『なぜ、背中から降ろすのか』と言わんばかり、不安を湛えた瞳に少しだけ苦笑し、綾乃は優しくソニアの頭を撫でる。
「……走れる、ソニアちゃん?」
「……え? は、走る?」
「足は痛いでしょうけど、ちょっとだけ頑張って走って。私があいつ等の気を引いてる間に、ダッシュして。ソニアちゃん、武芸の嗜みとかある?」
「す、少し齧った程度ですが……」
「うし。それじゃそのモップでアイツらの剣を防ぎつつダッシュで逃げる。逃げ道は分かるんでしょ? ぶっちゃけ、大した作戦でもないけど、それでも何にもやらないよりは大分マシでしょ? 一か八かってのもあるし」
「いえ、え、あ、え?」
「ああ、この言い方はダメだね。だいじょーぶ! ソニアちゃん、お姫様なんだから! お姫様は概ね助かるって相場が決まってるのよ!」
そう言って向日葵の様な笑みを見せると、綾乃はもう一度ソニアの頭を撫で、ソニアを庇う様に一歩前に出た。
「……さて? ちょっとお話したいんだけど良い?」
「ああ? 話だ?」
「そうそう。ホラ? さっきアンタらも言ってたでしょ? 此処で私ら殺しても手柄になんないんだったらさ? ちょっと逃がして上げよう、とか思わない? 此処で私ら逃がしたらホラ、もしかしたら地獄に落ちても天からクモの糸とか垂れて来るかもしれないじゃない?」
「ああん? 何言ってんだ、お前? クモの糸?」
「ああ……古式ゆかしき日本文化はやっぱり伝わらないか。イイ話なんだよ、アレ。まあ、どうせ助けるんならロープとかにしろよとは思うケド」
「……」
「あれ?」
「……おい、アイツ、頭でも狂ってんじゃねーか? なんか訳分かんねー事言ってるんだけど?」
「……だな。関わらねー方がいい。さっさと殺そうぜ」
「……おい。アンタら、誰の頭がおかしいか言ってみろ!」
綾乃の絶叫も聞いていないのか、男たちは綾乃から視線を逸らし――
「……おい。ちょっと待て。アイツ、よく見りゃそこそこ良いオンナじゃねーか?」
男たちの視線が止まる。
「……まあ……そうだな。別に無茶苦茶不細工って訳でもねーな」
「……あ、ああ。そうだな頭はおかしいけど」
「頭はおかしいけど……まあ、悪くはねー見てくれじゃねーか?」
「……」
「……」
「……そうだな。頭はおかしいかもしれねーけど……まあ悪いオンナじゃないよな?」
「……ああ」
「……」
「……」
「……どうせ殺すんだもんな?」
「そうだ。どうせ殺すんだ。それに、今から手柄になりそうな奴ら探してもどうせ他の奴らに持ってかれるさ。それなら……」
先程まで血走っていた眼が、好色なそれに変わる。下卑た笑みを浮かべながら、舐めまわすように綾乃の四肢を見る男たちに、ソニアが小さく息を呑んだ。
「あ、アヤノさん!」
「あー……まあ、良くあるパターンっちゃパターンだけどね?」
苦笑をして見せながら、それでもソニアを庇う様にぐいっと一歩前に足を出す綾乃。そんな綾乃に縋りつく様、ソニアがその体を綾乃に寄せて。
「――あ」
気丈に振る舞いながら、それでも今にも泣きだしそうなのを我慢して頬を引き攣らせる綾乃の姿が目に入った。
「…………あ」
「……だ、だいじょーぶ! 大丈夫だから……ソニアちゃんは、逃げる事だけ考えて!」
怖いに決まっている。怖いに決まっているのだ、綾乃だって。なのに、それなのに、自分の身よりも、ソニアの身を案じ続けるその姿に。
――何をやっているんだろう、と、ソニアは思う。
「……」
「……アイツらがこっちに来たら、モップを振り回しながら逃げてね?」
「……」
「……ソニアちゃん? 聞いてる?」
本当に、何をやっているんだろう、と。
綾乃だって怖いのに、それでも年長者としての威厳を見せて自分を守ってくれてる。自分だって、本当は泣き出したいぐらい怖いだろうに、それでも自分を守ってくれている。
――じゃあ、自分は?
そんな綾乃の背中に隠れて、ブルブル震えるだけ?
怖いと泣き、綾乃にしがみついているだけ?
コータ様、お父様と、助けを求めるだけ?
――否。
そんなのは絶対『否』。そんなのは絶対に認められない。だって、そんなのは、ソニアの、『ソニア・ソルバニア』の矜持に合わないから。
「――!? ソニアちゃん!」
まるで杖の様にモップを立て、今度は真逆、綾乃を庇う様に前に出る。
「ああ……ぷっ! なんだ、その格好は!」
「おい、お前、なんで頭に鍋被ってんだよ?」
「そのモップで戦うってか? 格好イイね~……ぷっ!」
ソニアの格好を見て、男の中から嘲笑が湧いた。
――何故だろう?
「……」
さっきまで、あれ程怖かったそんな男共が、とても小さく、見えて。
「……い」
そして、ソニアは『声』を掛ける。他の誰でもない、自分自身に。
「……りなさい」
さあ。
「あーん? どうした、お嬢ちゃん? 震えてるのか?」
「ぎゃはは! どーした? おしっこでもチビッたかぁ?」
「……下がりなさい」
「良く聞こえないぞ、お嬢ちゃーん? もっと大きな声で――」
「――下がれと言ったのだ、この下郎共っ!」
――目覚めろ、『蛇』の娘、と。
「「「……」」」
カーン、と。
モップの柄が、床を叩く音が聞こえた。
「貴様ら、誰にモノを言っているつもりだ?」
あれ程五月蠅かった剣戟の音や怒声が、まるで止んだ様な、そんな静寂。
「――我が名はソニア! ソルバニア王国第三十二世国王、カルロス・ソルバニア一世が第十一子、ソニア・ソルバニア! 我が前にての無礼な口上、聞き捨てならん! 我に弓弾く行為は即、ソルバニアに弓を引く行為と心得よ! 下がれ、この下郎共がっ!」
頭にはお鍋、右手にはモップ。
およそ、威厳や神々しさとはかけ離れた、そんなコミカルなソニアの姿で、姿だと云うのに、それでも男たちの間からはざわめきの一つも聞こえない。まるで、水を打った様な――或いは、何かに打たれたかの様な、静寂。
「どうした! 何事だ!」
そんな空気を壊す様、一人の男がソニアと綾乃に群がる男の群れを書き分けて姿を現す。他の人間よりも上等な鎧に身を包んだ、指揮官クラスらしい男はソニアの姿にはっと驚いた様に身を硬くし、その後慌てて頭を下げた。
「……こ、これはこれはソニア姫殿下! この様な場所でお逢いするとは夢にも思いませんでした。ご尊顔を拝しました事、恐悦至極に存じます!」
片膝を突き、上位の者にする様に頭を垂れる男。その男にチラリと視線をやった後、なんでもない様にソニアは口を開いた。
「わたくしが『誰』で、『どういった』人間か、お分かりですか?」
「勿論に御座います。『我々』はソルバニアに弓を引くつもりは毛頭、御座いません」
「そうですか。それでは今、わたくしが何を望んでいるか、貴方には分かりますね?」
コクン、と可愛らしく首を傾げて見せるソニア。その声と仕草に、男は小さく頷いて見せた。
「……どうぞ、お通り下さいませ」
そう言って、後ろを振り返り『おい』と一声。それと同時、まるでモーゼの十戒の様に人の群れが割れた。その光景に満足げに頷くと、ソニアは後ろを振り返り呆然とした顔を向ける綾乃に殊更ににこやかに笑んで見せた。
「……どうやら通して貰えるそうですね、アヤノさん。さあ、行きましょうか?」
「……へ? あ、う、うん!」
「済みません、アヤノさん。わたくし、まだ足が痛みまして……少し、肩をお貸し頂けますか?」
「あ、はい」
頭に疑問符を浮かべるアヤノににこやかに手を差し伸べて立ち上がらせると、ソニアはその肩に捕まってもう一度、視線を男たちに向けて。
「――それでは皆様? ごきげんよう」
その挨拶は場違いな程、優雅だった。
もう一個の連載との落差が半端ない。




