珍しいモノ
「お茶」
「……ちっ」
休日である今日は朝から、客間にエリクシルがいる。
千里が呼んでしまったのだ。
しかし、その千里は慎次郎さんに呼ばれて、相手を俺に任せて席を外してしまったのだ。
二杯目のお茶を出してやると、ピンクの髪がふわりと揺れる。
じっと、置かれたお茶に視線を集中しているのだ。何だこいつは。
「……茶柱が、立っている」
何だと?
僕も、湯飲みの中を覗き込む。
「……ほう」
確かに、茶柱が立っていた。
珍しいこともあるものだ。縁起がいいな。
「貴方は、茶柱を見たことある?」
何故「戦い」の実行委員が、そんな事を訊いてくるのだろうか。
参加者と実行委員は、茶飲み友達という間柄ではないはずなのに。
「……過去に一度、見たことがある」
「二回目……すごいのね」
何故か、無表情ながら感心されてしまった。
僕はこいつが苦手だ。
まるで実行委員らしくない、変な女。悉く、僕の調子を狂わせる。
「……」
「……」
沈黙が客間に降りる。
エリクシルは、じっと茶柱を見つめたままだ。
「……飲まないのか」
「勿体ない」
僕が初めて茶柱を見た時、その場にいたかなめと同じことを言い出した。
「冷めるぞ」
「ここのお茶は、冷めても美味しい」
「……勝手にしろ」
僕は付き合いきれず、自室から持ってきた文庫本を取り出すと栞を探す。
「……ずずず」
ついに決心したのか、お茶を啜り始める。
「ずずず」
「……」
「ずずず」
「……おい」
こっちを見てお茶を啜るな。そして音を立てるな。行儀が悪い。
「何か用か?」
「それ」
無表情のまま指を差すそれは、僕が読んでいる本……に挟んであった栞だった。
「この栞がどうした」
「……栞?」
首を傾げるエリクシル。いや、何故首を傾げる?
「まさか、栞を知らないのか?」
こくり。エリクシルは頷いた。
実行委員らしくない、どころの話じゃない。世間知らずにも程がある。
少し天然が過ぎる程度に考えていたが……ここまでとは。
「何に使うもの?」
「……自分が読んでいた場所の目印に」
「どうやって?」
「……本に挟んで使う」
「そう……」
何故か深く興味を示すエリクシルは、栞を指先でつまむと、ひらひらさせてその様子を見る。
「これは何?」
次に興味を示したのは、栞の上部に巻かれている青い紐だった。
「紐だろう」
「何に使うの?」
「知るか」
「……貴方にも分からないのね」
どういう意味だ。
「貴方は、何でも知っているように見えるから」
「一般常識は心得ていると自負している」
何でも知っているような人間など、いるものか。
この世界は、分からないことで満ち溢れている。
その全てを知るような、全知全能の存在など、あり得ない。僕はそう思っている。
だから、この「戦い」の果てにある、彼女らの言う“絶対”も、正直僕は半信半疑だ。
この世の中にある膨大な量の事象は、移り変わってゆくものがほとんどだ。
だから、今知っているものだって、それが全てとは限らない。
それらを含めてでも、全てを知る存在……そんなものなど、無いはずだ。
「……ずずず」
思考に耽っていると、耳にまた、エリクシルがお茶を啜る音が入ってくる。
栞への興味を失ったのか、と思えばそうではなく。
湯飲みと、それを持つ手の平の間に、栞が挟まっていた。
余程気に入ったようだ。
しばらく放置し、本を読んでいると。
「……お茶」
僕の顔と本の間に、空になった湯飲みを突き出してきた。こいつ。
「またお代わりか」
呆れて湯飲みを受け取ろうとすると、エリクシルは首を横に振った。
「ごちそうさま」
普段無表情なエリクシルの顔に、僅かな笑みが表れていた。
「……そうか」
そう言いながらも、湯飲みを持ってポットのある所に行こうとしていたことに気付く。
お代わりを要求されるのだと思って、普通に身体が動こうとしていた……何故だ。
まさか、僕は無意識のうちに、こいつにお茶を淹れてやることが当たり前になっていたというのか?
……僕は認めないぞ。あり得ない。
「貴方も、お茶を飲むの?」
「違う」
内心のショックを閉じ込めつつ、僕は空の湯飲みを盆の上に置くと、席に座り直して本を広げ……
「……面倒だな」
本が、閉じていた。
エリクシルから湯飲みを受け取る際に、本を閉じてしまっていたのだ。
面倒だが、読んでいた場所を探さなければ。
「……そんなに早く、読めるものなの?」
ページをパラパラめくり、さっきまで読んでいた場所を探していると、その様子を眺めていたらしいエリクシルが訊いてきた。
「読んでいない。読んでいた場所が分からなくなったから探しているだけだ」
段落や文面を見て、その場所を探す。読んでいないところかと思えば、その先には読んだ覚えのある文章もあって……大変だ。
少し経って、ようやくそれらしい場所を見つけることができた。
栞を挟んでいれば、こんな無駄な時間を取られることはなかったのに。
「こういう時の為に、栞は必要なのね」
「……そうだ。だから返せ」
僕は手を差し出すが、エリクシルは栞を握って離そうとしない。
「何の真似だ」
「……もう少し、遊びたい」
遊ぶ?……栞で?
よく分からないが、エリクシルは相当この栞を気に入っているようだ。
……その栞は小さい頃、さくらい孤児院に来たばかりの僕が、慎次郎さんに教えられて作ったものだ。
同じ大きさの色画用紙を数枚重ね合わせて貼りつけ、上部に穴を空けて青い紐を通しただけの、不恰好な栞だ。
片面の下部には小さく「シキ」の名前が書いてある。他には何も描かれていない、シンプルな灰色の栞だ。
そんなものを、どうしてそこまで気に入っているのか。理解できない。
……それを今でも使っている僕自身が言えることでは、ないのかもしれないが。
「……お前、本を読むのか」
「資料なら」
紙の束じゃないか。栞は本に使うものだぞ。
……はぁ。仕方ない。
「お前、それが欲しいのか?」
「……(ぶんぶん)」
欲しがっているのかと思って問い掛けてみれば、首を横に振った。この小娘……
「なら返せ」
「あ……」
小さな手から栞を奪うと、エリクシルはどこか残念そうに目で栞を追っていた。
僕の傍らに栞を置くと、じっとそれを見つめてくる。
その上、少しずつこちらに近付いてきていた。
「……」
じりっ。
「……」
じりっ。
「……」
じりりっ。
「……ああ、もう……」
にじり寄ってくるエリクシルとその視線に気が向いて、読書に集中できない!
「分かった。……こいつはくれてやる。だから離れろ」
「別に、栞を欲しくは……」
「いいから受け取れ。そして離れろ。鬱陶しくて集中できない」
あくまでも首を横に振るエリクシルに、栞を押しつける。
あれは僕の、昔から使っていたものだったが……仕方ない。
本を買うと書店の店員がサービスしてくれた栞が、確か部屋に残っているはずだ。それを使えばいいか。
「……貴方、面白い人なのね」
やはり欲しかったのか、まんざらでもなさそうに栞を受け取るエリクシルは、くすっと小さく笑った。
こいつがこうして笑うところは、初めて見る。
こうして見れば、殺伐とした「戦い」に関わっている人間とは思えない、ただの少女なのに。
天然で、世間知らずで、儚い。そんな、少し変だが、普通の……
……僕は、何を考えているのだろうか。疲れが思考をおかしくしているようだ。
折角読む場所を見つけたのに、本を読む気が失せてしまった。
盆の上に置いてある、使っていない方の湯飲みを取り出す。
「お茶を飲むの?」
僕の挙動を予測して、エリクシルが訊いてくる。
「……ああ」
「……なら、私も」
「もう飲まないんじゃなかったのか」
さっき「ごちそうさま」って言っていたのに。
「……ちっ」
僕は舌打ちしつつ、エリクシルの湯飲みも片手に持つ。
二人分のお茶を淹れると、エリクシルの湯飲みにふと目が行った。
「これは……」
珍しいことも、あるものだ。
「?」
首を傾げるエリクシルに、その湯飲みを渡してやる。
「……あ」
エリクシルが小さく声を漏らすのも頷ける。
彼女の両手の中にある湯飲みには……
茶柱が、立っていた。
「茶柱は、簡単にできるの?」
「……知らないな」
少し経って、千里が慌てて戻ってくるまで。
僕とエリクシルは、ただ無言で、お茶を飲んでいた。
お茶の成分か……不思議と、居心地は良かった。