#53 沈まぬ夕陽
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あれから私たちは、今日この日のために備えてきた。
“仙術”も、今日参加する“対戦相手”の情報収集も、そしてもちろん──
「文姫、気持ちは?」
「乗ってます……とは、言いづらいですね。こんなに“どきどき”しながら詩を書くのは初めてですから」
「大丈夫、いつもの貴女なら。ごめんね、いっぱい背負わせて」
「いいえ。頼ってもらえて嬉しいです。でも、期待を裏切るかもって考えたら……ちょっと怖いです」
怖いのも無理はない。対戦相手はいずれも中華指折りの識者たち。
その出自は、高名な儒家の子孫から、稀代の戦略家なんて呼ばれる者まで色様々。
そんな歴戦の英雄たちと肩を並べるには、まだこの子は幼すぎる。
小刻みに震える肩を、そっと抱きしめる。
こんなに細く小さな少女の肩に、私たちはいま、“全て”を託してしまっている。
怖くて当然だろう。この大会でお母さまが無様を晒せば、董家の命運は……“終わる”のだから。
「心配しないで……私がついてる」
その背中を、ゆっくり撫でる。
気休めにもならないかもしれないけど、いまの私にできることはこれしかない。
「……はい」
漢詩大会当日の朝。
私たちは少し早起きした。旧暦の五月の暮れは、新暦でいう七月頭くらいの暑さだ。
でも、今年の夏は“寒い”。
ここ数年の冷夏で、作物の収穫量はすっかり落ち込んでいる。王宮の貯蔵庫にある備蓄が心許ないと、いつか劉辯が言っていた。それはつまり、“五行が乱れている”──ということ。
皇帝は、代々国家の催事を執り行う“神職”であるとも云う。
霊帝さまの力が足りないのか……。それとも他に何か、“別の原因”があるのか。
“朱雀”は、火の化身であり、夏を支配する南の神鳥──
いつか私が仙術を使いこなせるようになれば、こんな不作に悩まされることもなくなるのだろうか。
「じゃあな赤麗。儂は先に行くぞ。陛下への挨拶もあるのでな」
お昼を少し回る頃、お爺ちゃんは一足先に王宮へと出発する。
お母さまと私は、硬い表情でそれを見送った。後ろにはもちろん、蔡邕と文姫もいる。
「どうした? なんじゃ。ははあ、流石のお前でも、この大舞台は緊張するか」
馬に跨ったお爺ちゃんが、がははと笑ってお母さまを見る。
「もう。私だって緊張くらいします! ただでさえ王宮などに踏み入れたこともないのに、まさか大勢の前で詩を詠むなんて……」
お母さまは顔を赤く染めてそう言った。
そう。たとえ文姫が影で詩を書いて手渡しても、それを大衆の前で披露するのは、紛れもなくお母さま。
招待客は、お母さまを除いてほとんどが男。つまりその一挙手一投足にまで、国中の名だたる男たちの視線を集めることになるのだから。
お母さまは美人だ。例え霊帝さまに身染められなくても、それが何皇后の目にどう映るかは想像に難くない。
「ちょうどいい。儂も『一度でいいから長安の“黒赤蝶”に会わせろ』などという輩を追い払うのに、いい加減辟易していたところじゃ。この大会で其方が皆の目に触れれば、“一度は見れる”。これを口実に断れるわい」
「黒赤蝶だなんて……いい迷惑ですわ。好奇の目に晒されるのは、嫌いです」
「ははは、そうだな。男どもは其方の詩を聞きに来るのではない。おおかた、“蝶”を取りにでもきたつもりじゃろう」
お爺ちゃんは、また愉快そうに笑う。
「……」
「じゃがな、赤麗」
その声に馬が一度、ぶるりと首を振る。お爺ちゃんは笑いを収めると、優しい声でお母さまに呼びかけた。
「……?」
「どんなに美しかろうと頭が切れようと、お主は武門の子。たとえどれだけこの大会で恥をかこうと、ただ“凛”としておれ。決して萎れるな。それだけで──我が家の“面目”は立つ」
「お父さま……」
「少しくらい噛みついてやれ。その“涼州の牙”でな。ただの“蝶”で終わるのは、お主らしくないぞ」
嗎き、そして鞭の音。
それだけ言って、お爺ちゃんは馬を繰り、街を駆けていく。
「“凛”と……」
その言葉を噛み締めるように、しばらくお母さまは胸の前で拳を握り締めていた。
「お母さま……」
私はそんなお母さまの袖を、ちょいちょいと引っ張る。
不安が顔に出ていたのだろうか。お母さまは私を抱きしめるように包み込んでくれた。
「ああ、小紅。ごめんなさいね。大丈夫、もう大丈夫よ」
その声は優しい。でも、小さく震えてもいる。
「絶対に……私が守るよ」
思わず口から漏れた私の声も、同じように震えていた。
なんて頼りない決意表明だったろう。
でも、お母さまは私の目を見てもう一度。
「ええ、ありがとう。でも、少し違うわ。“私たち”で守りましょう。我が家の“名誉”を」
その瞳は、まるで燃えるように赤かった。
自分ではない、誰かを守りたいという意志のこもった目だった。
私もそれにこくりと頷く。振り返れば、蔡邕と文姫が微笑んだ。
守ろう、“私たち”で。
胸の奥が熱い。まるで、朱雀の方が私を呼んでいる。
あの太陽が西に傾いたら、やがて夜がやって来る。そしたら、もう後には退けない。
でも、“朱雀”は太陽の化身。沈まぬ夕陽は、この胸の中にある。
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