#52 匂い
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「じゃあ、いくわよ」
「はい」
文姫と二人で向かい合い。私たちは意識を集中させた。
お母さまには、これから何が起こるか伝えてある。
もちろんそれは、“透過の術”の話。お母さまの漢詩大会出場をサポートするため、私たち二人が側についていく。“そのために覚えた”とだけ伝えた。どうやってこの術を知ったかは、蔡邕にうまく誤魔化してもらった。
董家が滅亡するかもなんて重い話は、お母さまにまで背負わせる必要ない。
「お母さま……」
「うん」
「びっくりしないでね」
私たちはこれから、お母さまの前で“透過の術”を使う。
もう何度も成功させているから、感覚はしっかり覚えた。発動の失敗は、たぶんない。
胸の奥で静かに鳴る心臓の音が、私の自信の証。
「──透過の術」
一瞬だけ音が止み、少しずつ色が抜けていく。
お母さまはそれを、ただ目を丸くして見ていた。
「まあ……これは……小紅、そこにいるの?」
お母さまがこちらに向けてゆっくりと手を差し出す。
私はそれに触れて「いるよ」って答えたけれど、聞こえている様子はない。
「──いま、指に何か……」
お母さまは少しだけくすぐったそうにして、自分の手を引っ込めた。
「赤麗さま。小紅さまも文姫も、そこにおります。しかし、“透過の術”は自らの存在を五行と同化させます。触れることは叶えど、声も姿もこちらには届きません。もちろん、一時的なものですが」
側に控えていた蔡邕が補足する。
「ああ、でも……この感覚。懐かしいわ。かつて涼州の草原で感じていた。あの風と同じような……」
そう言って、お母さまは昔を思い出すような顔をした。
私は生まれてすぐの短い間しか涼州にはいなかったけれど、お母さまとお爺ちゃんにとっては“故郷”。
もしかしたら、そこには五行が満ちていたのかもしれない。濃密な五行は、人でもうっすら感じ取ることができるのだと蔡邕に教えてもらった。
「目で見えぬもの、耳で聞こえぬものは鼻や肌で感じると良いでしょう」
そう言って、蔡邕はすんすんと鼻を鳴らす。それに倣って、お母さまも同じようにした。
「……本当だわ。なんだかぼんやりとだけれど、小紅の匂いがする」
え──!? 何それ!? 私は鼻に自分の袖を当てて嗅いでみるが、こういうものは自分ではよくわからない。
「ね、ねぇ。ちょっと文姫! 私ってそんなに匂うの!?」
「ええ!? そんなことはないですよ! ちゃんとしたいい匂いです!」
「ちゃんと!?」
そんな風に話していると、目を閉じたお母さまが近づいて、両手でそっと私を抱き寄せた。
「ほら、ここにいたわ」
きゅっとされると、お母さまの胸に耳が埋まる。心臓が、とくんとくんと鳴っている。
優しい音。お母さまの音だ。誘拐劇のあの夜、胸に抱かれて聞いたのと同じ。
なんだか嬉しくなって、つい頭を擦り付けてしまった。
「あ! こらこら」
そう言って、お母さまは笑う。
もう少しそうしていたかったけれど、そんな時間は、蔡邕の重い声によって絶たれた。
「“仙術”や“妖術”の類は……“匂い”でその存在を探ることができます。ですが……手慣れた者はそれを逆手に取り、香りで人を惑わせる」
「……どういう意味?」
お母さまは私を胸から離すと、ゆっくり蔡邕の方を向いて立ち上がる。
「言いづらいことですが……霊帝さまが纏う“風”も、昔と違っていまは澱んでおります。匂うのです。何か、恐ろしいものが蠢いているような……。赤麗さま。くれぐれも、ご注意を」
彼は険しい顔でそう言った。
“妖術”──という言葉が、なぜか私の胸をざわつかせる。
都に蔓延る賄賂。中華全土で繰り返す冷夏、そして広がっていく飢饉。
劉辯の周りを嗅ぎ回っている連中も……もしかしたら──
「蔡邕……言葉が過ぎます。不敬ですよ」
お母さまがぴしゃりと言い放った。その声に、私の思考も引き戻される。
「ここは皇帝の住まう都──洛陽です。そのような噂、口に出して良いものではありません」
「ッ! 申し訳ありません」
振り向くと、蔡邕は短く謝罪をして頭を下げていた。けれど私から見えたその横顔は、悲痛に歪んでいる。
それを見て確信する。これはきっと蔡邕の思い込みなんかじゃない。お母さまの無事を願っての本心だ。
もしかしたら、蔡邕は勘付いているのかもしれない──宮中の闇に。
あのお爺ちゃんにも物怖じせず忠言する彼のことだ。きっとその性格は、昔から変わっていないのだろう。
だから、不興を被って宮中を追われた。
そう考えたら、全てが繋がる。昨日見せたあの、蔡邕の暗い顔の意味も……。
振り返って、「待って」そう言った。けれど、私の声はお母さまの耳に届かない。
“透過の術”が、私の存在を消している。私は急いで印を結び、術を解く。
「あの──」
「“でも”……」
色が戻りかけて口を開こうとした私の袖を、そっと文姫が引っ張る。その視線は、お母さまに向いていた。
見ると、お母さまは目を閉じ、胸に手を当てて静かに息を整えている。
そして、ゆっくり目を開いて続けた。私と同じ、赤い瞳が優しく細まる。
「貴方がそこまで言うんだもの、気をつけた方が良さそうね」
蔡邕が、安心した顔で頭を上げる。
私と文姫も、ほっと胸を撫で下ろして顔を見合わせた。
その時──天井からキシリと小さく音がする。
それと同時、まるで自分の背中に誰かの視線が注がれているような気がして、私は振り返った。
誰もいない。それを見た文姫が、不思議そうに声をかけてくる。
「どうか、されましたか?」
「……いいえ。なんでもないわ、たぶんね」
蔡邕が、じっと天井を見つめている。
つられて私も見上げてみたが、そこにはただ剥き出しになった梁があるだけだった。
宮中の不穏な動き、それも──この大会で何かわかるかもしれない。
敵の姿はまだ見えない。そもそも敵なんか、最初からいないのかもしれない。
それでも、この大会は危険だ。ただ歌を披露する“だけ”で、本当に無事に終わるのか?
私の中の何かが、警鐘を鳴らしている。
漢詩大会まで──あと四日。
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