代償
教授がスライドを切り替え、学生たちはノートを取り、時計の秒針だけが淡々と進む。
空気がひとつ、ひび割れたように変わった。
講義の雑音の中に、かすかな「引っ掻く音」が混じる。
座席の向こう、教室の奥の窓ガラスがピキリと音を立て、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
「ん?」教授が首をかしげる間もなく、窓の外から黒い影が滑り込んできた。
最初に姿を見せたのは小柄な体。
緑色の皮膚をしたゴブリンだった。
目は細く、笑うように鋭い牙を覗かせている。
続いて二、三匹、床を這うようにして窓枠を伝って侵入してきた。
最初に叫んだのは隣の列の女子だった。
ゴブリンはためらいなく、その腕に飛びかかった。
肉の裂ける音、短い喘ぎ。
慌てて立ち上がる者、机に頭を伏せる者、スマホのカメラを向ける者。
教室は瞬時に秩序を失った。
この教室だけではない。
気がつけば大学の至る所から悲鳴や怒号が聞こえていた。
廊下から今度は低いうなり声。
四足の足音が近づくのが聞こえた。
廊下の扉が破られ、次に入ってきたのは魔犬だ。
毛は抜け落ち、皮膚はまだらに裂け、口元からは泡を垂らしている。
片方の前足でドアを押し開けるその姿は、獣そのものの狂気を放っていた。
数歩で教室の前列に達すると、無差別に飛びかかり、悲鳴とともに一人の学生が机ごと吹き飛ばされた。
鼓動が耳の奥で鳴り、周囲の動作がスローモーションのように映る。
学友の顔が恐怖で歪み、目の前でひとりが倒れた。
血の匂い、焦げた匂い、鉄のような生臭さが鼻腔を突いた。
誰かのバッグが床に転がり、中の教科書がぱらぱらとばら撒かれる。
動かなければ死ぬ。
彼は窓の外へ目を走らせ、教室の出口と廊下の方向を確認する。廊下は既に混乱の渦。
辺りからは逃げ惑う足音と、伸びる悲鳴、断続的な咆哮が響く。
大河内 恒一。
ごく普通の大学一年生。
特別に勇敢でも、運動神経がいいわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ運が良かった。
校舎の廊下は地獄だった。
さっきまで笑い声が響いていた場所で、今は悲鳴が折り重なっている。
ゴブリンが教室に雪崩れ込み、牙をむき出しにして人間へ飛びかかる。
窓ガラスを突き破って侵入してきた魔犬が、四足で床を滑り、逃げ遅れた学生の足に食らいつく。
「やめろ! やめろぉ!!」
叫び声が途切れ、肉を裂く湿った音が続く。
大河内はその光景を目の端で見ただけで、足が勝手に動いた。
考える余裕などない。逃げなければ死ぬ。
それだけが、全身を突き動かしていた。
友人の名前を呼ぶ声が背後から聞こえた。
振り向けば助けられたかもしれない。
だが、振り向いた瞬間に死ぬ――そんな確信があった。
彼もまた、廊下の角で魔犬に襲われた。
黒ずんだ毛並み、皮膚の裂け目から覗く赤黒い肉、異様に長い牙。
唾液を垂らしながら跳びかかってきた一匹を、彼は反射的に掲示板の金属枠で押し返した。
運よく体勢を崩した隙に、夢中で走った。
心臓が破裂しそうなほど鳴り、肺が焼けるように痛い。
周囲を見渡せば、どこも同じだった。
襲われる学生、倒れる教師、逃げ惑う群衆。
自分も、いつ背後から喉を噛みちぎられるか分からない。
その時だった。
視界の端に、開けた空間が映る。
体育館――大きな扉。
そして、その前に積まれた机や跳び箱。
「……」
理解するより先に、足がそちらへ向いた。
あそこなら、生き延びられるかもしれない。
大河内は走った。
全力で。
喉が裂けるような呼吸を繰り返しながら。
背後で、低く濁った吠え声が響く。
――グルルルル……
振り向かなくても分かる。
魔犬だ。
気づかれた。
次の瞬間、複数の爪が床を叩く音が追いかけてくる。
足音でわかる。
数匹追いかけてきてる。
「く、来るな……来るなぁ……!」
叫びは風にかき消える。
体育館の入口が近づく。あと数メートル。
足がもつれそうになるのを必死にこらえ、彼は跳び箱の隙間をすり抜けるように中へ飛び込んだ。
その瞬間、外から獣の咆哮が響く。
床に倒れ込んだ。
息が吸えない。
肺が空気を拒んでいるようだった。
背中を冷たい床に押しつけ、必死に呼吸を整える。
――助かったのか?
恐る恐る振り向いた。
体育館の入口の外。
そこに立っていたのは二人の男子学生だった。
勝樹と優斗。
二人の手には金属バットが握られている。
迷いはない。
恐怖はあるはずなのに、それを押し殺して前に出ている。
飛びかかってきた魔犬の一匹が、口を大きく開けて勝樹の腕に食らいつこうとした瞬間――
ゴンッ!!
鈍い衝撃音。
優斗のバットが、横から魔犬の頭部を叩き潰した。骨の砕ける感触が手に伝わり、優斗の顔が歪む。
それでも振り抜いた。
もう一匹が低く唸りながら跳躍する。
勝樹は半歩踏み込み、上段から容赦なく振り下ろした。
魔犬の頭が床に叩きつけられ、痙攣する。
黒い血が飛び散り、床を汚す。
躊躇はなかった。
情けもない。
ただ、確実に動きを止めるための一撃。
残る一匹が怯み、後退する。
だが、優斗が一歩前へ出る。
「来いよ……!」
声は震えていた。
それでも、足は退かない。
魔犬は低く唸り、やがて踵を返して走り去った。
獲物を失った群れの影が、校舎の向こうへ消えていく。
静寂が戻る。
いや、遠くの悲鳴がある限り、静寂とは言えない。
床に倒れたままの大河内は、呆然とその光景を見ていた。
助けられた。
見ず知らずの学生に。
勝樹が振り向く。
その目は鋭く、しかしどこか安堵を滲ませていた。
「……大丈夫か?」
その一言で、大河内の全身から力が抜けた。
喉の奥から、嗚咽がこぼれる。
「た、助かった……俺……俺……」
優斗は荒い呼吸のまま、バットを肩に担ぐ。
「まだ終わってねぇ。」
優斗はバットを差し出す。
「やるか、やられるかだ。」
大河内は床に手をつき、震える足で立ち上がった。
外では、世界が壊れ続けている。
それでも、この場所には、抗おうとする意志があった。
しかし、大河内はバットを握るのに戸惑う。
アレと戦うのはとてもできそうにない。
でも死ぬのは嫌だ。
外から怪我をした学生や教授が体育館に走ってくる。
それを追いかけ襲う魔物達。
彼はバットと魔物、そして避難してくる人々に視線を動かす




