代償
優斗が体育館の扉を押し開けると目に飛び込んできた光景は、見慣れた体育館とは別物だった。
「おーい、連れて……うぉ! なんだこれ?」
明るい蛍光灯の光が妙に冷たく、空気の重さが足元をじわりと伝ってくる。
跳び箱や平均台が入口側に積み上げられ、床にはロープが張り巡らされている。窓際には折りたたみ机が斜めに固定され、即席の盾のように並んでいた。体育器具庫の扉は開け放たれ、中からは金属バットや竹刀、マットが引きずり出されている。
折りたたみ机が斜めに積まれ、跳び箱が即席の塀になり、ロープが床に不規則に張られている。
その中心に立っていた勝樹が、二人に気づいた瞬間、顔を歪めるように笑った。
「やっと来た!」
次の瞬間、彼は走り寄り、綾を強く抱きしめた。
「今度は、助けるから。俺が守るよ」
綾は目を丸くし、腕を宙に浮かせたまま固まる。
優斗は眉をひそめ、勝樹の肩を軽く叩いた。
「つ、疲れてるのか? 今日は休むか?」
「そうだよ。疲れてるんだよ。家まで私が送ろうか?」
冗談めかした言葉だったが、声の奥には本気の心配が滲んでいた。
「今度こそ三人で生き残ろう」
言葉が空気に落ちた瞬間、校舎の外から金属を引き裂くような悲鳴が断続的に上がった。遠くだが確かな響き。窓の外で何かが堅いものにぶつかる音。
街のどこかから悲鳴が上がった。
一つではない。二つ、三つ、連鎖するように響く絶叫。ガラスの割れる音、何かが倒れる音。遠くのはずなのに、やけに近く感じる。
「な、何が起きて――」
言葉は最後まで続かなかった。
角の影から、背の低い異形が飛び出した。
緑色の皮膚、異様に長い腕、濁った黄色の目。腰には布切れを巻いただけの粗末な姿。
手には錆びたナイフのような刃物。
ゴブリン。
それは躊躇なく、最後尾の男子生徒に飛びかかった。
短い悲鳴。鈍い音。
男子生徒は床に崩れ落ち、動かなくなった。
優斗の視界が揺れた。
理解が追いつかない。だが、倒れた身体が二度と起き上がらないことだけは、本能が告げていた。
「……嘘だろ」
さらに、窓の外から低い唸り声が響く。
校庭のフェンスの隙間をすり抜け、黒い影が四足で走ってくるのが見えた。
毛の抜け落ちたまだらな体、裂けた口元から垂れる涎、赤く濁った目。
――魔犬。
その一匹がフェンスに体当たりし、金網を歪ませる。
現実が音を立てて崩れた。
綾はまだ状況を飲み込めていないようだった。倒れた学生の方を見て眉を寄せ、目を丸くしたまま立ちすくむ。
優斗は歯を食いしばり、近くにあった金属バットを掴んだ。
「勝樹……これ、やばいぞ」
綾はその場から動けず、ただ目の前の光景を見つめていた。
「え……なに……? 映画……じゃ、ないよね……?」
声は震え、状況を受け止めきれていないのが分かる。
外では、逃げ惑う人影が見える。
スマホを構えて立ち尽くす者。
何が起きているのか分からず、ただ叫ぶ者。
逆方向へ走り出し、魔犬に追いつかれる者。
「異常」を理解していない。
だからこそ、被害は広がっていく。
「……やべえ、これはマジだ」優斗は荒い息のまま呟き、手に握ったバットをぎゅっと強く握る。初めの戸惑いは冷静な恐怖に変わった。目の前で人が死ぬのを見てしまったのだ。
優斗は窓越しにその光景を見て、ようやく理解した。
ここはもう、安全な学校ではない。
「……分かった。やるしかないな」
綾は言葉を失っていた。顔面蒼白のまま、ただじっと倒れた生徒をみていた。
現実を受け入れられないまま、世界の端がざわめいているのを感じるだけだ。優斗が彼女の肩に触れ、低い声で促す。「綾、こっちだ。今はここにいろ」と。彼女のまなざしがようやくこちらへ向き、震える指で跳び箱の縁を握りしめた。
勝樹は素早く体育器具倉庫へ走った。金属バットを手に取り、跳び箱を裏返して角を作り、即席の槍を仕立てる。机を何枚か引き出して窓際に押し当て、ロープを結び直して足が引っかかるよう高度を調整する。床に仕掛けたワイヤートラップを一度踏んで感触を確かめ、少しだけ位置を微調整する。




