代償
朝の冷気が顔を刺すが、人々はいつものように慌ただしく歩いている。
山田勝樹は改札を抜けると改札前広場で待ち合わせしている佐伯優斗の姿を目で探した。
優斗は既に立っていて、バッグを肩にかけ、マフラーをぐるりと巻いていた。
彼の顔にはいつもの軽い笑みがあり、初めて1人で狩ったイノシシの牙をネックレスにした事を話していた。
突然、遠くのビル群の向こう側から、金属を擦るような異音が重なって聞こえた。最初は工事現場の音か、瓦礫が崩れる音かと思った。
だがすぐに音は複雑になり、どこか鋭く、そして生々しい「擦れる」音へと変質した。
人々の顔が一斉に空を見上げ、スマートフォンを取り出す手が震えた。
どこからか子供の叫びと、鉄が引き裂かれるような音が混ざり、人混みは一瞬でパニックへと変わった。
最初に姿を見せたのは後にゴブリンと呼ばれる小型の群体だ。体は小学生位の身長で肌は縁。
ゲームとかでよく見る姿。
手には槍を持っているもの、包丁や鉄パイプなどその辺で拾ってきたものを装備して人々を襲っている。
「なんだよ、これ?」
勝樹は理解が追いつかず棒立ちになった。
道路に広がる凄惨な状況。
逃げ惑う人々。
ひときわ大きな音。
そちらを見ると、ビルの壁を壊して出てきた生き物。
後に「裂顎グラーヴ」と命名される。
サイほど大きさの獣形の魔物で、頭部は割れた顎が幾重にも重なり、その咀嚼音は遠くまで響いた。体表は鱗と皮膚の境界が不明瞭になっており、触れたものの内部を抉るように噛み千切る。
街路に停められたバスの側面を無造作に噛みちぎり、内部にいた人間を引きずり出すと、無言で食らう。
「何ボケっとしてんだ!逃げるぞ!」
勝樹の腕を引っ張り優斗は走り出す。
「逃げるって何処に?」
「知るか!取り敢えず大学だ!大学に行けば何とかなるだろ?」
頭の上を何かが通り過ぎる。
走りながら上を見るとカラスより大きい鳥。
空間を滑るように移動する「夜鴉」
カラスのように黒い羽。
急降下して鋭い爪やクチバシで人を襲っている。
複数羽が連携していて明らかに人間を獲物として狩りをしている。
アスファルトが盛り上がりそこから中型犬位のネズミが這い出てきた。
後に甲殻鼠と呼ばれ顔以外が骨のような装甲に覆われており、前歯が異様に発達してコンクリートなどを噛み砕いている。
「こっち!」
急な方向転換。
優斗に振り回されるように曲がる。
道路や車両、ガラス、通信インフラへの直接攻撃で都市機能を素早く破壊していく。
勝樹は、向かいのビルの屋根で何かが暴れているのを見る。
人々が叫び、走り、重なり合いながら逃げ惑う。
電車はまず停止した。
運行アナウンスは途切れ、ホームにはパニックで押し合う群衆。
ビルの高層窓が次々に割れ、ガラスの雨が降り注ぐ。タクシーは急発進し横転し、路上に放置された車列が障害となって逃走経路を塞ぐ。
火災が幾つも発生し、あっという間に黒煙が空を覆い始める。
現代都市は、情報と電力とインフラで成り立っている。
魔物の出現はその脆い継ぎ目を狙い、公共交通、電気、通信を瞬時に断ち切っていった。
駅前広場はもはや戦場だ。
いや、街全体がだ。
人々が右往左往する中、優斗はとっさに反応した。
幼い頃から山に入り、獲物を狙って生きてきた彼には、恐怖と判断が混ざる瞬間が短く素早く判断する。
狩人独自の危機管理能力と呼べばいいのか分からないが。
目の前で起きている非現実ではあるが、彼なりに最適な退避場所を考えた。
大学のキャンパスは近い。
そこにある施設の中で避難に適しているのは体育館。
屋根が厚く、外部からの侵入路が絞れる。
次に図書館、講義棟はガラス面が多く危険。
地下は一見安全だが、群体が侵入すれば逃げ場を失う。
優斗は瞬時にキャンパスマップを脳内でなぞり、体育館へのルートを選んだ。
二人は人の波に逆らいながら路地を抜け、タクシーの残骸や燃える横を走り抜ける。。
街全体が既に「ある種の秩序」を失っている。
赤ん坊を抱いた母親が転び、年老いた老人が杖を落とす。
救急車は通れず、消防は配備が間に合わない。
通信は断片化し、SNSでの映像は断続的に拡散されるだけだ。
誰かが呟く、「これは何だ?」という言葉に、返す声はない。
途中、路地裏で2匹のゴブリンと遭遇した。
優斗目掛けて手にしている鉄パイプを振り上げ走ってきた。
優斗は即座に反応し、背負っていたバッグを盾にしつ防ぎながら、地面に着地した瞬間ゴブリンを蹴り飛ばす。
その衝撃でゴブリンは鉄パイプを手放し、優斗は素早くそれを拾う。
もう一匹は勝樹を狙い、包丁を手に襲う。
優斗は素早く力を込め、勝樹を襲うゴブリンの後頭部目掛けて鉄パイプを振り下ろす。
鈍い音が響く。
痙攣するゴブリンにフルスイングで更に後頭部を殴る。
蹴り飛ばされたゴブリンは、起き上がると優斗を警戒しながら逃げ去っていく。
「ふ〜。イノシシよりトドメ刺すの楽だな。」
ぎこち無い笑顔を浮かべ勝樹を安心させるように話す。
「これ、持っとけ。」
ゴブリンが、持っていた包丁を勝樹に渡す。
「あぁ…。」
包丁を受け取る。
「ボケっとするな!」
優斗は大声を上げ勝樹の頬を平手打ちする。
「死にたいのか!…いいか?よく分からねーけど、自分の命は自分で守れ!」
「悪かった。…助かったよ。」
「行くぞ。」と短くいい走る優斗の後を追いかける。
二人は走り抜けた。
途中、燃えるバスの側に倒れて圧死した人、血まみれで動かない少女、座り込んで途方に暮れる老人。
そうした「被害」が随所に散っている。
魔物の襲来はそれ自体が凄惨だが、現代社会の密集性が被害を増幅していた。
公共の退避ルートは瞬時に壊滅し、避難の最中に別の暴力が発生する。
負傷者の山が積み上がる。
やっとキャンパスの正門に辿り着いたとき、大学側の職員や警備員、数名の警官が必死で門を守っていた。
だが彼らの力も限界だ。
門前の男子学生が、空から落ちてきた飛来体に打たれて倒れ、刃のようなものが首を抉られている。
勝樹は胃が締めつけられた。
心拍が跳ね上がり、目の前が赤く滲む。
だが優斗は振り返りもせず、体育館方向へ走り続ける。
勝樹は彼の背中を見て、どうしようもない安心感と恐怖を同時に覚えた。
キャンパス内もまた被害を受けていた。
大学の図書館のガラスが割れ、幾つかの窓際で人々が助けを求めている。
運動場には既に数台の車が炎に包まれており、風に煽られて火が迫っている。優斗はここで判断を迫られた。
体育館は最も安全だが、そこへ向かうルートの途中に開けた広場があり、群体に囲まれるリスクも高い。
図書館は窓が多く危険だが、入れれば蔵書室の強固な構造を利用できる。
優斗は周囲を一瞥して即座に答えを出した。
「体育館へ行く。屋根と裏手の倉庫がある。そこに人を集めて扉を固めるんだ。資材は倉庫にあるはずだ」
勝樹は頷いた。
二人は体育館へ向けて最短ルートを取った。
道は人で溢れ、だが一方通行の秩序すら失われた群れの中で、優斗は押しのけ、勝樹を守るように進んだ。
しかし、悲劇は突如として襲った。
狭い路地を抜けて広い通りに出た瞬間、群体の一部が建物の屋根から落下してきた。
裂顎グラーヴの一体が、目の前にいる人々を貪るように飛び降りる。
その巨大な顎が若い母親の頭上を砕き、子供が叫ぶ。道は突然に地獄絵図となった。
「こいつ!いい加減にしやがれ!」
優斗は咄嗟に人を突き飛ばし、自分を盾にして顎を受け止めた。骨が砕ける凄まじい音がした。
優斗の身体は飛ばされ、地面に叩きつけられる。
彼はそれでも立ち上がり、血を滲ませながら勝樹を押すように叫んだ。
「早く行け!」
勝樹は一瞬固まった。
優斗があまりにも当然のように自分を前に出したからだ。
彼は動くべきだと頭では理解している。
しかし、目の前で優斗が巨大な顎の犠牲になっていく様を見て、理性が崩れた。
優斗は呻きながらも勝樹の方を向き、半ば笑いながら言った。
「行け。必ず生きろ。綾のところへ行け!」
「いいや、俺は…」
勝樹の言葉はそこまでだった。
鼓動が耳を塞ぎ、胸の中が冷たくなる。
優斗の手が勝樹の腕へ伸び、彼の袖を掴んだ。
その瞬間、大きな影が再び落ちてきて、優斗を覆った。
勝樹は身体が動かなくなったのを自覚した。
重力が抜け、足が鉛のように床を離れない。
優斗は叫ばず、短く「行け」とだけ言った。優斗の顔は最後まで穏やかだった。
微かに笑っているようにも見えた。
そのとき、勝樹は完全に理性を失った。
時間が薄れ、世界がスローモーションになる。
目の前の光景は、スッと引き延ばされ、分解される。優斗の体が半ば空中に投げ出された瞬間、勝樹の全ての判断能力が壊れた。
彼は叫び、優斗に飛びかかろうとしたが、前方では別の魔物が蠢き、押し寄せる群衆の圧力が人を押し戻す。
腕を振りほどいて飛び出す力が、勝樹にはなかった。
胸に湧き上がるのは怒りでもなく、ただ生々しい恐怖と焦燥だった。
優斗が静かに地面に落ちるのを見て、勝樹は膝をついた。
彼の手は優斗の肩を掴み、冷たくなっていく皮膚に何度も触れる。
周囲の叫び声や爆発音、ガラスが粉々になる音は遠ざかり、世界はただ一点、優斗の顔の表情だけを繰り返していた。
血が服の上へとにじみ出し、土が鮮やかな赤を帯びる。人々が数人集まっては離れていき、血の海を囲うようにして蜷局ができる。
だが誰も負傷した一人を安全に運べる余裕はない。
魔物の群れは容赦なく迫り、救助の手も続かない。
勝樹は必死に優斗を抱え上げようとする。だが肩から下の筋肉が震え、呼吸が途切れ途切れになる。彼は叫ぶ、「優斗、しっかりしろ!」と。優斗の瞳はまだこちらを見ていた。
だがその瞳は次第に曇り、筋肉が緩み、瞼が重くなる。優斗は小さく笑って、力ない声で言った。
「お前、行けって言っただろ。…俺は大丈夫だ、行け」
勝樹はもう動けなかった。
重さと罪悪感が、彼の体に鎖を食い込ませる。だが遠くで、群衆の中から叫び声と破壊音が続き、魔物がこちらへ近づいているのが耳に入る。
彼は何とか立ち上がり、優斗を置いて走ろうとするが、足元に転がる瓦礫につまずき、崩れ落ちる。
だがそれでも彼は起き上がった。必死に腕を伸ばし、優斗の服を掴んで引きずろうとする。
だがそれが彼の最後の判断ミスだった。
周囲にはゴブリンが囲っていた。
同時に手に持つ武器を勝樹に振り下ろす。
瞬時に痛みが全身へ広がり、筋肉が固まり始める。
勝樹は掴んでいた優斗の袖を放しそうになったが、左手だけで必死に掴む。
だが両手が染み込むように冷たく、重くなる。
視界がぼやけ、頭が割れるように痛んだ。
彼は叫んだ。
だが、その声は次第にか細くなり、世界の音の中に飲み込まれていった。
一歩、また一歩。暗転が近づく感覚が胸を支配する。足が動かなくなる。
彼の体温が奪われていくのを感じ、皮膚が突き刺さるような痛みに変わる。
優斗の手は、まだ微かに温かかった。
勝樹は何かを言おうとして口を開いたが、言葉は喉で固まり、吐き出すことはできなかった。
世界は音を失っていく。
最後に見えたのは、遠くでヘリコプターが低空飛行をしているかのように見えた赤い点灯だった。
だがそれはすぐに消え、勝樹の瞼の裏には優斗と綾の笑顔を一瞬映し出し暗闇へ堕ちた。




