日常?
深呼吸をして冷たい空気を肺の奥へ送る。
歩けば足元の落ち葉が乾いた音を立てる。
優斗はもう一度深く息を吸い、肩にかけた狩猟銃をもう一度確かめた。
今日は師匠の森岡と二人きりの山だ。
師匠はいつもの渋い革帽を深く被り用意をしている。
祖父は猟師だった。
その祖父はいない。
優斗も20歳になって直ぐに試験を受け、猟師になった。
18歳から祖父の狩り仲間の森岡に狩りを教えてもらい早2年。
だが今日は、いつもと違う緊張が二人の間に流れていた。
「今日のやつはお前一人で仕留めろ、余計な手出しはせん。お前が一人前かどうか、それを見せてみなさい」
師匠の声は低く、だが揺らぎはない。
何年もの猟で磨かれた言葉は短いが重い。
優斗はうなずいた。
師匠の眼差しは厳しくも暖かい。
これが試験。
祖父が狩場としていたこの山で森岡に認められれば晴れて自分の狩場にできる。
勝樹は少し離れた尾根に機材をセットしていた。
小型ドローンのプロペラが静かに回り、薄い機械音だけが静寂に響く。
彼は送られてくる映像をタブレットで確認し、優斗と森岡に回線を割った。
勝樹は観測と必要に応じて補助。
勝樹は狩猟免許は持っていない。
森岡は狩りのルールを最後に何時もの言葉を言い渡す。
「出来るだけ苦しめず、確実に。人間は銃を持って始めて動物と対等、忘れるな。」
その言葉は礼儀であり、森岡の狩人としての矜持でもある。
優斗はゆっくり頷いた。
彼の手は落ち着いていたが、心臓の鼓動は確かに高まっている。
ドローン越しの画面には、優斗と師匠のシルエット、そして奥の茂みが映っている。
勝樹は微細な振動ノイズを補正し、赤外線で藪の中の微かな熱を強調表示した。
二人のイヤーピースから勝樹の声が聞こえる。
「距離:一九八メートル。風:南東二メートル。遮蔽物:薄」。
勝樹は画面に矢印を描き、優斗と森岡のタブレットに控えめな補助情報を流す。
茂みが一度だけ、かさりと音を立てる。
黒い影が枝の合間から現れる。
イノシシだ。
体躯は大きく、冬毛がよく育っている。
野性の眼が光り、こちらを探るように鼻先を動かす。
優斗は膝を落とし、ゆっくり近づく。
気づかれないように音を出来るだけ立てずに近づく。
有効射程内にとらえると、ゆっくりと銃を構えた。
師匠はただ目を細め、銃を握るが手を出さない。
本当に危ないときだけ。
優斗は息を吐き、銃のサイトに黒い塊を合わせた。狙うのは脚や胴ではない。
写真のように考えは整理されている心臓付近、肺側面の致命。
師匠が教えた通り、動脈や神経を避け、致命的だが素早い場所を選ぶ。
風が一度だけ変わり、落ち葉が小さく舞う。
イノシシは鼻をすすり、こちらを探る。
優斗の人差し指がそっと触れ、ゆっくりと引き金を絞る。銃声は森を割った。
瞬間、弾は黒い塊に命中し、獣は一度体をくねらせてから地面に伏した。
数秒の静寂。
続いて、優斗はすぐに駆け寄り、確実に止めを入れる。
苦しみを延ばさない、師匠の教えが手の動きに宿っている。
画面を見つめる勝樹は、ドローンが捉えた鮮烈な一部始終をただ記録する。
胸の中は複雑だった。
命を奪う行為と優斗のやりたいこと。
師匠が見守る中で一人前の所作を見せたのだ。
今日、次に待つのは解体と分配だ。
猟の一連は「殺す」ことだけでは終わらない。
今回の狩りは自分たちが食べる肉。
記念の日に自分が狩猟した肉を喰らう。
師匠はゆっくりと近づき、優斗の肩に手を置いた。
言葉は無い。
濃い皺の刻まれた顔に、わずかに笑みが漏れる。
優斗は深く頭を下げた。
勝樹はドローンのカメラを引き、三人の影を一枚の枠に収めた。
後片付けの間、師匠は一つだけ助言を与えた。
「今日の判断は良かった。だが忘れるな、狩りに誇りを持つ者は、道具にも心を入れるんだ」
優斗は返事もせず、ただ頷いた。
彼の目は静かに燃えている。
勝樹はリュックからドローンをしまいながら、タブレットに保存した映像を流し、細かなデータをメモした。
「師匠、今日はありがとうございます。」
師匠は肩をすくめる。
「アイツは何て思うか知らんが、教えられることは全て教えた。狩猟は狩る者と狩られる側が何時も一緒だと思うなよ。まぁ耳にタコが出来てると思うが。」
優斗はこくりと頷いた。勝樹は無言でその会話を聞き、ドローンの映像をもう一度だけスクリーンに映した。
それはただの狩猟の一日かもしれない。
だが優斗は今日、一つ大きな壁を越えた。
師匠の試験は合格だ。
彼らが持ち帰る肉の袋の重みと同じくらいに、優斗の肩には責任の重みが乗った。
勝樹はそう直感しながら、タブレットの記録ファイルに静かに名前をつけた。
「しかし、ドローンとは便利な時代になったな!俺には無理だ。時代は変わったんだと思っていたがこんな所まで来てたんだな。猟犬要らずか?」
「いや、勝樹が居てこそですよ。本当、器用に操作するよな?」
「ドローンに猟犬の真似事はできません。あくまでも目ですから。」




