原点にして
腕の痛みが完全に消えていた。
薄暗い謁見の間の空気は、いつもよりも軽かった。
普段なら、広間を埋める重く冷たい気配を放つ、あの少女ヤマがいるはずだ。
だが、今は違う。
玉座には誰も座っていなかった。
空席という誘惑が勝樹の胸の内に微細な振動を起こさせる。
「……いないのか」
喉の奥を何かが掠めるような気配がして、彼はぎくりと身を固くした。
三度の死と蘇生は、痛みだけでなく恐怖を植え付けた。
死闘をヤマは常に見ていただろう。
もしかしたら今も見ているのかもしれない。
見えない目が、どこに潜んでいるのか分からない。
それでも、可能性はある。
玉座の主がいないという偶然は、彼にとって最大の逃走の誘惑だ。
塔に戻され、死に戻りを繰り返す運命から抜け出す機会がここにある。
思考は短く、目的を設定する。
足を動かせ、音を立てるな。
選べるルートを思い出せ。
城の隅々を設計した記憶が、脳の奥で静かに立ち上がる。
彼はゆっくり立ち上がった。
膝が軋み、汗が身体を冷やしていく。
何を何処に配置したんだ。
たしか玉座正面の大扉は監視結界と自動回帰機構で覆われている。
そこを抜ければ深い監視網に触れる。
謁見の間を見渡し穴を探す。
彼が選んだのは、左側に隠された小さな裏扉だ。
見せるための物ではない、効率のために作った普段の業務通路、誰も使わぬ補助の回廊へ繋がるもの。
ゲームの中でプレイしたとき此処にはトラップを設置しなかった。
今、最も安全に移動できる道である。
資源不足で放置したままのあの頃の自分に感謝しながら自分が作った古城が、今は命綱だ。
扉に触れ、金属の冷たさが手のひらに伝わる。
取っ手をゆっくり押したが、きしむ音が空間に小さい波紋を描く。
勝樹は呼吸を止める。
音が大きく戻るような気がして、体が本能的に堅くなた。
扉が開くと、狭い回廊が口を開ける。
蛍石がはめ込まれた小さな光が壁を淡く照らし、影が深く波打つ。
光と影のコントラストは視界を切り裂く。彼は壁沿いに身体を寄せ、槍を強く握る。
城は、彼が作った通りに存在している。
段差の角度、隠し溝の幅、壁の湿り具合、それらすべてが記憶との違いはない。
もちろん、記憶にない見知らぬ廊下やトラップがある可能性はある。
だが、今その可能性は排除しよう。
そんな事があったならその時点で詰み。
通路の長さが僅かに伸びているように感じる。
壁の紋が微妙にずれ、蛍石の光が不規則に点滅する。
心臓の音がうるさく聞こえる。
恐怖と緊張で息が乱れ、何度目かの固唾をのむを飲む。
螺旋階段を下る。階段の一段一段が、古城の年輪を刻んでいて石は滑り、湿ってる。
ゲームではこんな風には感じられなかった。
坂の下から古い鐘のような低音が一度だけ鳴る。
深い金属音はまるで城そのものが、何かに応答しているようだ。
体が凍り手足は震えても歩みは止めない。
下へ、下へ。
ゲームでは感じられなかった匂い。
地の奥へ向かうほど匂いは濃くなる。
薬品、油、そして先ほどから嫌というほど嗅いだ血の匂い。
錬金部屋の入口が現れると、勝樹は一度周りを見渡す。
彼女の姿はない。
錬金部屋の扉には光る石が7個埋め込まれている。
取っ手ではなく左から数えて七番目の石を押す仕掛けだ。
ゲームで設定したロック解錠の方法。
魔力供給がないと起動できないが、どうやら解錠できたようだ。
つまりこの城は魔力供給されている。
扉の一部が沈み、静かに開いた。
内側からは、錬金に使うための薬品の匂いと共に、埃に埋もれた器具群が顔を出す。
部屋の中は、やはり記憶通り。
少し違うのは液体の入ったフラスコは軋むように埃をかぶっていること。
彼の目は貪欲にそれらを確認する。
黒い小瓶が幾つか。布袋に入った粉末。薄い円盤状の転移石、刃物、粉薬どれもゲーム内のアイテム。
触れた感触が本物だと主張する。
再度周りを見渡し手頃の布を手に取る。
錬金台の横にデカい箱、アイテム保管箱をユックリ開ける。
マヤの設定とスキル構成を頭に浮かべ、箱の中から何を持ち出すのか選んでいく。
ヤマは吸血鬼。
普通なら光属性のアイテムを持っていくだろうがソレは罠だ。
ヤマのスキルには光属性のダメージを受けたときに発動する厄介なスキルがある、発動条件光属性のダメージを受けたとき最大HPの◯%以上のダメージを受けたとき、HP半分以下のとき、HPをゼロにされたとき、いずれかを満たしたらHP、MP全回復する。
軽減でも無効でも耐性を得るでもない。
だから光属性では倒せない。
勝樹は時折周りを見渡す。
彼女はいつ何処に現れてもおかしくない。
シャドウステップとは影へワープする魔法。
この影とは、例えば太陽の光が当たっているところは昼間だ。
逆に光に当たっていない場所は夜。
つまり影だ。
火属性魔法や雷属性だろうが光源となる魔法は必ず影ができる。
コンマの判定だがソレをものにすればほとんどの攻撃を避けられる便利な魔法。
故に彼女が真後ろにいてもおかしくない。
彼はアイテムの取捨選択をしていく。
布に包む。
理想は全てを持っていきたいがゲーム内のようにはいかない。
効かないとは思うが目潰し煙幕用の粉末。
止血と治癒促進する軟膏。
数分間だけ身体能力を底上げする薬液。
小さく欠けた転移石は、賭けだ。
使えば何処に飛べるかわからないが、城の外縁へ跳ぶ可能性がある。
確率で失敗。
こんなクソアイテムは本来は選ばないが、今は選ばねばならない。
彼は石を握り締め、ポケットにねじ込む。
一応回復薬、属性の固定ダメージアイテムにスクロール。
アイテムの選別をしながら周りをチェックし続けた。
扉の短い隙間から回廊が見え、蛍石の光が波打つ。
そこに誰もいないことを確かめるたび、放心のように震えが収まるがいっときで安心など生まれない。
深い静寂は、別の意味で獰猛だ。
見つけられないが故に、見られているかもという感覚は鋭い刃となる。
布の中に集められたアイテム。
心許ない。
これらを使用してもヤマからしたら無抵抗と同じだろう。
無いよりまし、そう言い聞かせる。
布を袋状にして背負い、最後に転移石を握る。
出発だ。
戻る経路は既に頭の中にある。
地下の排水路を逆に辿り、鐘楼下を抜け、外郭の小径へ回り、運河の旧道を使って外へ出る。
遠回りしているため距離はある。
堂々と最短距離で行くよりは見つかる確率は低いはずだ。
誤差かもしれないが。
ゲーム内で作った罠と死角の配置が、ここではか細い命綱。
彼は胸の奥の冷たさを噛み締めながら、隠し扉を閉じる。
石が静かに元へ戻ると、世界の輪郭が一段と締まる。
地下道は黙している。
水滴がどこかで落ち、一瞬だけ音の波紋がひろがる。足音は水と泥に飲まる。
気持ち悪いとか言ってられない。
途中狭く、彼は四つん這いになり、体を低くしたまま進むところもある。
水は冷たく、指先から骨の芯に冷気が染みる。
泥が靴底を引き止め、重みが増す。
だがそれは幸いだ。
泥が音を吸い、光を反射せずに影を作る。
追跡者にとっては迷路のように作用する。
彼は自分の作った迷路に自分だけで忍び込んでいく。
排水路を抜けると、岩場の裂け目を上る梯子が現れる。
手すりは腐食して朽ちている、それでも登ろうとしたら一本が折れ曲がり指が切れる。
だがその痛みが生を実感させる。
頂上に上がると、外郭の影が見えた。
黄金の月光が、輝き夜空を照らす。
外の空気は冷たいが、遠くから樹の匂いが感じられ、城内の腐臭とは違うその匂いに安心感が僅かにできた。
外郭小径を進む。
時折聞こえるうめき声は暗闇とかさなりさらに恐怖を掻き立てる。
それがゲーム内の効果音だったとしてめ。
慎重に進む。
城門の外郭にある死角。
そこへ向かえば外の世界だ。
彼は思いを固め、足を速める。
城門は巨大だ。鉄と魔銀が混ぜ合わされた扉は、夜の月を吸い込むような黒い面、城門は開かれていた。
深呼吸をする。
全身が声を上げるような緊張に包まれた。
もう一歩で、外だ。
もう少しで、解放されるかもしれない。
夢から覚めるかもしれない。
彼は正確な足取りで踏み出した。
門を抜けたその瞬間、世界が滲んだ。




