8.シュシュ・フラマン(求婚編)
「では、こちらで失礼いたします」
うやうやしく頭を下げる男性の声に現実に引き戻される。
慌てて会釈をすると、壮年の男性は穏やかな笑みをたたえ、ぼうっと月光のように控えめな光を放つ浮遊車へと戻っていった。
前回は二時間以上もかけて、首都の外れのアパルトマンからやってきたのだが、今回は指定された時刻に迎えがあると言われていた。
この時間に出たら夕食どきには間に合わないのでは、と心配しながらドアを開けて驚いた。
目の前に、庶民が一生かかっても乗ることはないだろうと言われる浮遊車が停まっていたからだ。
この国の技術は発展し続けているが、浮遊車はその最先端である。
月船の技術をコンパクト化し、空に透明な道を作りながら走行するこの車は、動かすだけでも膨大な魔力量と、精密なコントロール力が必要なのだという。
浮遊車は、まるで体に誂えたかのようなふわふわの座面で乗り心地が良いのだが、外の景色は驚くほどのスピードで吹き飛んでいき、気がつくと海の上にいた。
そこから海面を蹴るようにして、一気に浮上する。どんどん街が小さくなっていく。
そして私たちはいくつもの雲を抜け、空のずっと上、魔道具を使って強固に固められた雲の上にたどり着いた。
その上にさらに高くそびえるのが首都空中駅だ。前回来たときは、地上と空中駅をつなぐ昇降車を利用したから、こんな角度で駅を眺めるのは生まれてはじめてだった。
空中駅にルナシップが滑り込んできた瞬間、大人げなくはしゃいでしまった。背の高い建物が立ち並び、それぞれが魔導灯で美しく彩られて、宝石箱のような街である。
嫌な思い出と、親切にしてもらった思い出が混在するレストランにたどり着いた。
一度大きく息を吸い込み、吐き出してから扉に手をかける。扉は内側からゆっくりと開き、清潔感のある身なりをした男女に迎えられた。
「オーナーのミリアはあちらでお待ちです」
室内は薄暗い。前回来たときとずいぶん様子が違うので驚いていると、奥の席だけほのかに照らされたように明るくなっており、周りの席には誰も居ないのであった。
室内が暗いせいで、大きく取られた窓の向こうに、宝石箱のような空中都市が映し出されていて、泣きたいくらいに美しい。
「いらっしゃい、シュシュ」
落ち着いた、しかし柔らかな声が私をいざなった。奥の席で私を待っていたのは、私が勤めるアウトリーフ国最大の出版社、フェプラウダ社の会長であった。
「ミリア会長、あの、ほかのお客さまは……」
「ふふ、今日は貸し切りにしたの。この店、実は私がオーナーなのよ」
知らなかった事実に驚く。
ミリア・オパルス会長は、"大陸の解放王ミューゼット"の娘だ。それを知っていたら、私は彼女の誘いを受けなかったと思う。
アウトリーフ大陸にある3つの王国を統合し、身分制度をなくしたとされているミューゼット王。幼いころから神童と呼ばれていた彼は、ほんの数十年の根回しでほとんど衝突なく大陸統合を果たした。
ミューゼット王は、王として得ていたすべてを放棄。平民となり、王時代に投資で増やしたという個人資産を使ってフェプラーダ社を立ち上げる。
残念ながら商才はあまりなかったようで鳴かず飛ばずといった業績だった。
しかし、フェプラーダ社は、娘のミリア会長が後を継いだ途端、飛躍的な成長を遂げた。今では大陸一の出版社となり、ミリア会長は女傑として他大陸にまでその名を轟かせているくらいだ。
彼女の手腕を思えば、王都一のレストランを経営していても不思議ではない。
「それでね、今日あなたを呼び出すのに仕事を言い訳にしたけれど……本当はうそなの」
ミリア会長は、こてりと首をかしげた。
彼女は今年で七十五になるが、年齢を感じさせない少女らしさを持ち合わせている。
髪の毛は潔く真っ白で、身にまとうドレスもシンプルで上質だが、なぜか若々しく、可愛らしい。
「今日は、秘書としてのあなたではなく、シュシュとしてのあなたにお願いなのよ」
私は会長の秘書として入社しているが、適当な役職が見つからなかっただけらしく、実際にはフェプラウダ社で出版する専門書の執筆であったり、有識者と面談する時のサポートであったりとさまざまなことをしている。
それにしても、"シュシュ”としての私とは。
「あのね、──お見合いをしてほしいの!」
「お、お見合いですか?」
予想外の提案すぎて声が裏返ってしまった。ミリア会長はくすくす笑う。それから姿勢を正して私のほうへ向いた。
「わたくしの娘時代でいう、いわゆる政略結婚に似ているわね。昔は当たり前だったことで、今の若いあなたからすると古くさい習慣かもしれない。でもね、良い面もあったのよ? 確かな相手を紹介できることが多いのだから」
ミリア会長の"確かな相手”という言葉に、二年前ここで起きたことを思い出し心臓が嫌な音を立てた。
「あなたに紹介したいのは……わたくしの孫なの」
「孫というと、まさか……」
私が驚いてぽかんと口を開けていると、ミリア会長はいたずらが成功した子どものようにおどけた表情でころころと笑った。
「そう。グリハルト・オパルス。最近社長に就任した、青二才のわが孫よ。──ねえグリちゃん、そこにいるんでしょう?」
厨房から前菜とスープを運んだウェイターがやってきた。しかし、その容貌が異様に整っていることに気がつく。
月光のような銀色の髪に菫色と雨色のオッドアイ。背は高く、がっしりとした体つきの美丈夫。
フェプラウダ社中の女性たちが熱を上げているグリハルト・オパルス社長が、はじめてみる柔らかな顔で苦笑していた。「グリちゃん」とコミカルに呼ばれながら。