4.シュシュ・フラマン(婚約破棄編)
店を出る前に、あの親切なウェイターの男性を探したけれど、見当たらなかった。
夢のように美しかった国一番のレストランを出る。彼以外の店員も感じが良かった。興味深そうにこちらを眺めるでもなく、必要以上に憐れむわけでもなく。
ふかふかの絨毯が敷かれた空中昇降車に乗り込む。さっきと同じワンピースに髪型だというのに、いま鏡に映る自分の顔は、泣きそうな、怒鳴りだしそうな、微妙な顔をしていた。
空中昇降車がどんどん、どんどん落ちていく。
せめて姿勢だけでもよくいようと、ぴんと背すじを伸ばした。化粧室で赤いルージュをくっきりと塗る。
レストランを出てしばらく歩いていると、母から電話があった。これも異世界から落ちてきた人がもたらした技術を参考に、私が開発した試作品である。
この国に最後の異世界人が現れたのがかなり前で、「電話」という言葉の意味をきちんと理解できてはいないが、雷魔法を意味する文字と似ていた。話というのは会話のことを指すのだろう。
電話の実用化にはかなり長い年月がかかるだろう。この試作品は、母と私の魔力を座標として、魔法を使って起動させるもの。他の人には利用できないし、母以外の相手につなげることもできない状態だ。
何より、私はもう、魔導具研究所をやめると決めたから。
母と話したら泣いてしまいそうで、どうするか迷った。けれども、誰にも言えずにいるのも苦しくて、最後には電話に出ることにした。
「あの……シュシュちゃん、今日はどうだった?」
母がおずおずと尋ねる。母と私はそんなに似ていない。
年齢を重ねてもあどけない顔立ちに、いつも細い金縁の丸眼鏡をかけている母とは、顔立ちも髪の色も違う。受け継いだのは、片方の瞳の色だけだ。
「母さん、……なんかだめだった」
私はなんとか絞り出した。声が詰まった。こんなところで涙をこぼしちゃいけない。口元を押さえ、道の端に置かれたアーチ型のベンチにへなへなと座り込む。
電話の向こうでは、母が息を飲む音がしたが、続きを急かしたりすることはなかった。たぶん、どんなふうに声をかけようか考えてくれているのだろう。私は母のそういうところが好きだ。
呼吸を整える。涙が落ちないようにぐっと上を向いた。夜空にさっと虹の道が敷かれていく。またルナシップが到着するのだ。
ふいに電話の向こうが騒がしくなった。
「シュシュ! 振られたってどういうことだ!」
義父だった。
母は結婚しないまま私を産み、私が十歳になるかならないかのころ、この人と再婚した。
声を荒らげているが、それは私を叱っているのではなく、彼に憤っているのだとわかっているから別に怖くはない。血の繋がらない娘にも、本気でぶつかってくれる義父のことも私は好きだった。
それからぽつぽつと話をした。義父はレックスの家に乗り込みかねない勢いだったけれど、私はそれを断った。
「義父さん、母さん、私、魔導具研究所をやめてもいい?」
「レックスさんがいるから?」
母が心配そうに尋ねる。
「それもあるけど、私、本当はもっと勉強がしたかったの。レックスとの未来があると思ってたから、彼と一緒に就職するのを選んだだ……」
「いいぞ」
最後まで言い切る前に義父が大声で言った。
「奴らの手切れ金で足りない分はもちろん出すから心配いらん! あと、いつも仕送りしてくれるけどな、いいんだよ。シュシュは女の子なんだ。好きなもん、かわいいもんを買いな!」
「ろ、ロベルトさん。今はそういう考えはよくないって言われてるの」
昔とは違う。身分差や性別差をなくしていこうという風潮だ。
「ふふ、いいの、母さん。ありがとう義父さん。私がかわいいもの好きなの、よく知ってたね。また働き出すまではお言葉に甘えさせてもらうね。キキとササにもよろしくね」
電話の向こうから、おねえちゃん、おねえちゃんと小さなかわいい声が聞こえてほおが緩んだ。
「あの、シュシュ……。よかったら今から実家に帰ってこない?」
「ありがとう母さん。でも私、いろいろ清算したくてさ。家を引き払ったり、研究所を辞めたりしたら、入学までそっちで過ごしたいな」
「わかったわ。──いつでもいいのよ。待ってるからね」
「うん」
声がうるんでしまって、私は慌てて電話を切った。