3.シュシュ・フラマン(婚約破棄編)
二人がいなくなって、呆然としてしまい、私はしばらく動けなかった。
ふとテーブルに目をやって気がついた。二人の前にあるお皿は、空っぽだった。わずかに残っているソースはきっとベリーソース。
一体いつからここにいたのだろう──。乾いた笑いが漏れた。
レックスとは三年近い付き合いだった。
首都大学で出会い、ともに研究し、いつしか恋仲になって……。穏やかなひだまりのような人だと思っていた。兄のように頼りになる人だとも。
私の実家には何度か来てもらっていたけれど、頑なにお義母さんには会わせてもらえなかったから、今日は本当に嬉しかったのに。
ようやく家族になれると思ったのに。
眼下にルナシップが到着したのが見えた。あの人たちは、あれに乗っていくのだろうか。その時間に合わせるために、こんな早くに帰ってしまったの? いや、違う。最初からその予定だったのだ。
私の目の前には、すべてのお皿が出揃っていた。
スープに前菜、メインのお肉やお魚、それからデザートまで。デザートのムースは、彼らの空っぽのお皿に残っているクリームと同じ、ピンク色。
スープをひと口含む。何を使っているのか想像もつかない。食べたことがないくらいおいしかったけれど、でも、すっかり冷めていた。
周りの客たちからちらちらと視線を向けられているのはわかっていたけれど、もうこの際どうでもいい。せっかくだから味わい尽くしてから帰ってやるんだ、と私は決意した。
「あの人、悪女チュチュの子孫らしいぞ」
「罪人の子孫だなんて……」
その声は、静かな店内にぽつりと落ちた。そして波紋のように、ひそひそ、ざわざわと声が広がっていく。
味わいつくす。そう決意したはずなのに、ほろりと涙がひとすじ流れた。
「お客様、大変失礼いたしました。お出しするコースを間違えていたようです。お取替えしますね」
ざわめく声を遮断するように、目の前に影が落ちた。給仕の男性がワゴンを押して来てくれた。
そこには、前菜からメイン、デザートまで、新しいものが、──それも彼らが食べていただろうものとは違うものが乗せられていた。デザートがピンク色のムースではなかったからだ。
どれも出来立てで湯気が出ていた。
すべて食べると、それまで感じていたお腹の底がしんと冷えるような嫌な感じや、手足の感覚がないような不安定な気分がなくなっていた。
「デザート二品目です」
すでにデザートはいただいたので困惑して顔を上げると、美しい顔立ちの男性が、奥の席を示した。そこには上品な老婦人が座っており、にこやかに微笑んでいる。
「あちらのお客様からです」
会釈をすると、老婦人は手を振ってくれた。
「あの、──お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」
給仕の男性に告げると、彼はぱちぱちと瞬いた。長いまつげがふるふると揺れた。
少しわかりにくいけれど、彼の瞳も自分と同じだと気がつく。
「いえ、お客様のせいでは……」
男性は憐れむように眉を下げた。それから少しいたずらっぽい顔をして、そっと私に耳打ちした。
「彼らは出禁リストに載ったかもしれませんね」
そうして、この店の姉妹店であるスイーツショップのチケットを一枚渡してくれた。
「甘いものを食べると、戦う気力が湧きますよ」
私にチケットを押し付けるようにして、男性は厨房へと戻っていった。
老婦人が私に贈ってくれたのは、細く巻きつくように絞り出されたクリームがのったケーキだった。
気づくと周りの喧騒も気にならなくなっていた。
お礼を言おうと窓側奥の席を見たけれど、もう先ほどの老婦人は居なかった。すぐに行くべきだった、気が回らなかったと後悔する。
そして、目の前に雑に置かれた"手切れ金"が目に入る。
今までは呆然としていたせいか、急に怒りがめらめらと燃え上がってきた。小さなバッグには入らなかったので、封筒を手に持ったまま立ち上がる。
このお金は返さない。研究所を辞めて、進学を諦めた上級大学に通おう。
*登場人物紹介*
◆シュシュ・フラマン(25)
国を滅ぼした悪女と呼ばれるチュチュ・コスメ―アの末裔。
髪色:淡いミントグリーン
目の色:桃色と"雨の色”のオッドアイ
◆レックス
シュシュの元婚約者。