1.母 リリ・フラマン(1)
《母》リリ・フラマン
幼少時に母の幼馴染であるリーザ・ブランの養女となる。
実の娘のように育てられたが、義母リーザの死後、義姉ロージーの婚約者を誘惑し、出奔。シュシュを出産している。
義姉・婚約者・義父の三人は、シュシュが出奔した直後にトラブルになったと見られ、全員亡くなっている。
のちに現夫である資産家のフラマン氏と再婚し、一男一女をもうける。
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「リリばっかり抱っこしてずるい!」
義姉のロージーは、いつも癇癪を起こしていた。床に寝そべり、両手と両足をバタバタと叩きつけるようにして暴れた。
義母は、困ったように眉を下げる。
「リリ、ちょっと待っていてね」
リリの額にキスを落とすと、柔らかいぬくもりが離れていく。
寝そべったロージーを義母が抱き上げるのを、リリはじっと見ていた。
ロージーは、ひっくひっくとしゃくりあげるふりをしながら、義母の背中越しに笑って見せた。
初めは悲しいばかりだったが、やがてリリは、それは仕方のないことなのだと思うようになっていく。
リリには母がいない。
生まれたときには、ここ、ブラン家の玄関先に捨てられていたのだという。
義母はリリが養女であることを隠していたのだが、親類から聞いてきたらしいロージーが、勝ち誇ったように言った。
「あんたはね、いやしい女の子どもなのですって」
ある寒い日の朝、ブラン家の玄関先にリリは捨てられていたのだという。
小さなかごの中で粗末な産着だけを身に着けていた。リリの胸の上には、汚い字で書かれた手紙が置かれていた。
ロージーはそれを家の中から発掘してくると、リリに声を出して読むように言った。拒否したらひどくつねられたので、目尻に涙を滲ませながらリリは読み上げた。
『リーザへ。なまえはリリ。ククより』
たったそれだけが書かれていた。
リリはあまり感情の動かない子どもであったが、さすがにこの手紙は堪えた。
母は、どうして自分を捨てたのだろう。たった三文だけの短い手紙からは、愛情といったものの類いは感じられなかった。
それからしばらく何も食べられなくなり、夜も寝付けなくなってしまった。
ブラン家は裕福な家だ。義父は月光高速船の開発に携わっている。実用化まであと一歩というところだ。
これまでの移動手段といえば、月の光を動力源とした月光機関車だけであったが、ルナシップはその何倍も早く移動することができる。
義父は彼の職業を誇りに思っているようだった。毎朝、一番遅くに起きてきて、新聞をばさりと広げくつろいでいる。
義母は、誰よりも早く起きて、にこにこしながらおいしいごはんをつくり、家をきれいに磨き上げる。子どもたちの世話をし、勉強を教え、義姉ロージーが散らかしたものを片づけて、誰よりも遅くにふとんに入る。
ブラン家には十分な広さの子ども部屋があった。リリはそのひと部屋をまるまる与えられていた。
「どうしておまえなんかのために使っているのかしらね。ここはきっと、あたしの弟か妹が使うはずだったのよ」
ロージーはそう言うと、リリの部屋から小さなものをよく持ち出していくのだった。それは母が選んでくれた苺の髪飾りだったり、小鳥のブローチだったりした。
どうしても眠れずにごろごろと寝返りを打っていたけれど、どうにもやるせない気持ちになり、リリは天蓋付きのベッドから降り、冷たい床をひたひたと歩いた。
窓辺には小さなヌックがある。両脇には絵本がぎっしりと詰まっている。
リリは、白い寝間着を引きずってヌックに寝転び、ぼんやりと空を眺めた。
真っ暗な空に、宝石のように輝く星。それから二つの月。二つの月があるからこそ、ルナランは動くことができる。でも、地面ではなく空を船が行き来するようになるなんて、にわかには信じられない。
今夜も眠気はやってこず、すっかり暗闇に慣れた目で星をつなぐばかりだ。
そのとき、扉が開いた。
「──リリ?」
義母だった。義姉の寝かしつけを終えたのだろう。義姉は八歳になった今でも、義母がそばにいないと癇癪を起こして眠らない。
リリはほっとした。義姉と同じ金色の波打つ髪を下ろし、裾の長い寝間着を着て、肩に柔らかいショールを羽織っている。細い金縁の眼鏡の奥の瞳は、柔らかく笑んでいる。
「眠れないの?」
「うん」
「今からキッチンに降りるけれど、いっしょに来る?」
「……うん」