10.シュシュ・フラマン(求婚編)
──一年後。
つい先日までうだるような暑さだったかと思えば、いつのまにか涼しい風が吹き抜ける季節になっていた。
その日、私たちは首都郊外の森で、ピクニックを楽しんでいた。
ミリア会長によってグリハルトさんと引き合わされ、彼と過ごすようになって何度目の休日だろう。毎回、次こそは断ろうと思うのだけれど、別れる前に彼から次の約束を提案されると、つい、頷いてしまう。
それまでは、この広い首都の中で学校と職場、図書館、中央公園くらいしか知らなかったのだけれど、美術館、洒落たカフェ、できたばかりの遊園地など、初めてじゃない場所がどんどん増えていった。
お金のかかるデートばかりではなく、ただ海辺に座って夕日が海に溶けていくのを眺めたり、月光機関車の一日乗車券を買って、その範囲内で何をできるか探してみたりといったこともした。
彼が一人で暮らす部屋に招かれたこともあったのだが、手が触れただけでも硬直してしまう私を見て、少しだけ寂しそうに笑うと、おすすめの幻影物語板や曲を流してくれた。そして、いろいろな手料理を振る舞ってくれた。
私は相反する思いに見を引き裂かれそうになっていた。それは幸せと後悔だ。
グリハルトさんと過ごす時間は、初めこそ彼の見目の美しさに緊張していたけれど、今では隣にいないと落ち着かないというくらい、しっくりとくる感じがあった。
でも、そのときに思い出すのは自分自身の生まれのことだ。
一年前まで、私はこの先誰とも恋をしたり結婚したりするつもりがなかった。でも、もしするとしても、グリハルトとだけは結ばれてはいけないのだ。
「ここは豊穣の森と呼ばれていてね。ひと昔前は神域として扱われていたそうだよ」
「神域……ですか?」
「ああ。世にも美しい、金髪の女神と銀髪の男神が住んでいたとね」
神域だと聞いて納得する。
首都郊外にあるこの森は、地図上で見たものよりずいぶん広大に感じられた。しかも、森に入る前、グリハルトさんはなぜだか大木の根本にしゃがみこんでいた。木の実を複雑な形に並び替えていたのだ。
まるで、古代魔法の時代にあった「魔法陣」のように、なにか秘められたものがあるのだろうと推察した。
「ここは秘密が多すぎて、他に出せなかったんだよ。今は俺が森番を引き継いでいる」
グリハルトさんはなんてことのないようにそう言い、木陰に敷物を広げた。私はバスケットからスープジャーとサンドイッチを取り出し、紙製の皿を並べていく。
敷物の上に、さわさわと揺れる木の葉が影を落として、とても美しい。
「デザートにさ、甘いのも作ってきたんだ」
近年では、身分差だけではなく性差による違いをなくしていこうという風潮だ。でも、実態はまだまだ変化がないと言えるだろう。
王制・貴族制がなくなってから、徐々に"女性の仕事”となっていった家のこと全般は、現代でもほとんど女性の仕事のままだからだ。
社長としてのきびきびとしていた彼を見ていたし、彼の美貌は中性的というよりも、精悍で鋭い男性らしさがある。だから意外だったのだけれど、グリハルトさんはとても料理が上手だ。
簡単なものだけじゃなく、レストランで出てくるような本格的なものまで作ってくれる。
彼と休日を過ごすようになってずいぶん経ったけれど、家に招かれたときに、十時間ほどかけて仕込んだごちそうを振る舞ってくれることもあった。
普段はシンプルなインテリアの彼の部屋が、その日はレストランのように様変わりしていた。ダイニングには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、中央には花とキャンドル。花は彼が活けたもので、なんとキャンドルはミリア会長と作ったものだという。
「ばあちゃんにはさ、家事全般だけじゃなくて、刺繍とか生け花まで仕込まれたんだよ。いつか路頭に迷ったときどうするの!何もできない足手まといは邪魔です!って、魔物みたいに三角の目をしてさ」
そのとき、少し照れたように笑ったグリハルトさんを見て、私はかわいい、と思ってしまった。
そして、私は料理はきらいじゃないけれど、シンプルで簡単なものが多いから気後れするな、と感じた。
「俺はさ、いろいろ仕込まれたけど、割とこういうのが好きなんだと思う。一人でやるんでもいいけど、シュシュもやってもいいなって思うなら、結婚したら一緒にキッチンに立とうよ」
ええ、と言いかけて、ぶわりと頬が熱くなった。
「結婚は、しません」
「そろそろ頷いてほしいんだけど」
「……」
私がうつむくと、グリハルトさんはおずおずと手を伸ばしてきて、私の頭に触れた。さらりと髪の毛を撫でる。恥ずかしくて、でも嬉しくて、彼の顔を見ることができなかった。