序章 ある”侯爵”の書いた本
リコリスは、バルコニーで外を眺めていた。
ぼつぼつと鈍い音を立てて、雨粒が落ちている。暗くて暗くて、そして寒い夜だ。
豊かに波打つ真っ赤な髪の毛の美しさは、宵闇にまぎれて今はわからない。
「カーマイン嬢」
後ろから、硬い声色が投げかけられる。ぶるりと震えが走る。リコリスは誰にも見えていないはずだとわかっていながらも、自然と扇で口元を覆っていた。
「……カーマイン嬢っ」
リグレットが痺れを切らしたように、やや乱雑な口調で言った。いつでも品行方正な彼からは考えられない焦りが滲んでいた。
リコリスは観念して、けだるげにそちらへ視線をやった。
緑色の目にじいっと見据えられた二人は肩を揺らした。
吊り目がちなこともあいまって、まるで夜に溶け込んだ猫のように容赦なく光って見えたからだ。
「なんでしょうか、殿下」
リコリスは口の端を吊り上げた。
ぽってりとした艷やかなくちびるが弧を描く。リコリスの視界の端にピンク色が映った。
豪奢な金色のドレスを身にまとい、堂々とした雰囲気のリコリスとは対象的に、少女はリグレットの腕に寄り添うようにして震えている。
くすんだ薔薇の花びらのような瞳は、こぼれ落ちんばかりに見開かれていて、目尻が赤くなり、ぷっくりと涙の粒が浮かんでいた。
リコリスはそれを見て、不快げに目を細めた。
「……君との婚約を、白紙にさせてもらう。直に兵が来るだろう。大人しく牢で沙汰を待つがいい」
吐き捨てるようにそう言ったリグレットは、リコリスの婚約者である。
公爵令嬢の彼女と、王太子であるリグレットとの政略結婚は、彼女が生まれたときに取り決められたもの。
そこに愛はなかったが、ここ一年ほどは、学園で出会った身分の低い、男爵家出身の少女にリグレットは夢中になっていた。その名をチュチュ・コスメーアという。
二人とも衣服が乱れており、婚約者殿のいつもはしっかり撫で付けられている髪の毛も整えられていないことから、二人の間にどんなことがあったのかは誰の目にも明らかだった。
「……君には本当に失望した」
リグレットがこぼした。彼はくちびるをくっと噛み、リコリスに侮蔑のこもった視線を投げつけてきた。
「君はチュチュに、いや、──私に何をしたのか、わかっているのか?」
リグレットの穏やかな湖のような青い瞳は、今は怒りに燃えていた。
一方、チュチュの顔は青ざめており、歯の根がかちかちとなっている。伏せたまぶたを長いまつげが縁取っているのだが、その一本一本まで髪色と同じ桃色なのだと、どうでもいいことに、リコリスは初めて気がついた。
「まあ、殿下。浮気相手のことを名前で呼んだこと、お気づきでしょうか?」
「なっ……」
「そもそも、非難されるべきはあなたではなくて? わたくし、何度も学園内で注意しましたのよ。そちらのコスメーアさんに。婚約者のいる殿方との距離にはお気をつけなさいと」
「それは……っ」
チュチュが涙ぐみながら言いかけたが、リコリスは「目撃者ならたくさんいますわ」と封殺した。
「とにかく、君との婚約は白紙にさせてもらおう。罪は償ってもらう」
そのとき、バルコニーに兵たちがにじり寄ってきているのに気がついた。リグレットは心なしかほっとしたように表情を崩す。
「まあ! わたくしが罪を?」
リコリスは口元を扇で隠したまま、声のトーンを上げた。
「なにも証拠がないのによく言えたものですわね。……婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「なっ」
予想外の返答だったのか、リグレットは呆然としている。チュチュは目を伏せたままだが、ぶつぶつと男の名前を呟いていた。
「ちょうどよかった。君たち、彼女を牢へ」
リグレットは意を決したように、後ろの兵たちに告げた。しかし、兵たちは、困惑した雰囲気はあるものの、それ命令には従わなかった。
「──捕らえられるのは、兄上だ」
兵たちの列が波を割るように左右に分かれ、堂々とした様子で歩を進めてきたのは、第二王子であるサーティスだった。
「サーティス……?」
「殿下……!」
リコリスは耳の端を赤く染め、いつもより柔らかい声色で言った。サーティスは兄とその恋人の横を通り抜けると、リコリスを守るように背に庇った。
リグレットは驚きながらも、チュチュを守るように庇っている。サーティスは、虫を見るような視線を彼女に投げかけた。
「その女も捕らえろ。そっちは地下牢でいい。兄上、リグレット・ルヴィ・プリュイレーン。あなたはもう王太子ではない」
「サーティス、貴様……」
「兄上、その毒婦に唆されたとはいえ、僕に毒を盛るなんて……。父上も大変お怒りだ。……残念です」
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──おわりに──
これは、遺された手記をなるべく忠実に物語にしたものである。
さて、物語の、その後の話をしよう。
婚約破棄騒動の後、サーティス第二王子と公爵令嬢リコリスが婚姻を結んだ。それと同時にサーティスが王位を継いだ。
王太子リグレットは十年ほど幽閉されたのち、病死。
一方、リグレットをそそのかして第二王子に毒を盛った悪女チュチュ・コスメーアはどこかで生き延びている。処刑されるよりも前、秘密裏に逃されたのだ。
悪女の系譜はまだどこかで脈々と続いているのかもしれない──。
なぜ彼女が悪女なのか? それは、国を滅ぼしたからだ。
サーティス王とリコリス妃の間には子ができなかった。チュチュ・コスメーアが盛った毒のせいだと言われている。結果的に遠縁であった少年を養子にすることとなり、正当な血筋は途絶えたのである。
そして、その少年は成長後、解放王と呼ばれることになる。
彼は王国を解体し、隣接する二国と合わせて大陸を統一した。王も貴族もいない。このような世界になってもう百年近くが経った。
あなたは、「もしまだ王制があれば」と思ったことはないだろうか? それならばきっと、あなたの人生はもっと違うものであったはずなのだ。
『プリュイレーン王国滅亡史 (ラスロ・バジュー:旧プリュイレーン王国侯爵の末裔)』