ぼくは歩く
額から流れる汗が目に入りそうになるのを寸前で拭う。今日も朝から休みなしで歩いているからか、足裏がじんじんと痛い。まるで足が休んでくれと悲鳴を上げているようだ。
その声にどう応えようか考え出したところで、ちょうどラーメン屋さんが視界に入った。お腹も空いたので立ち寄ることにした。上京した当時はひとりで外食なんて恥ずかしかったけれど、もうすっかり慣れたものだ。
思いのほかラーメンは早く出て来て、すぐに食べ終わった。会計を済ませると、店員さんは元気良く「まいど!」と声を掛けてくれた。そしてこんな髪もぼさぼさ、身なりも全然整っていないぼくに微笑みまでくれたので、思わず「おいしかったです」と返してしまった。ぼくはのれんをくぐりながら心の中で反省した。また、やってしまった。
お店を出て空を見上げる。雲ひとつない青空。その中心にどかっと陣取っている太陽。まるで悩みなんてないと言わんばかりに勢い良く地上へ光を注ぐ太陽にはきっと、うそだってどこにもないんだろうなとふと思った。
足元に目を移すと、空き缶が転がっている。無意識に手を伸ばそうとしたが、ピタリと止まり、首を動かさず目の届く範囲だけ見渡す。少し遠くに人の気配を感じて、ぼくは空き缶に背を向け歩き出した。
ぼくはうそつきだ。頭の中でこの一言がぐるぐる回る。歩いても歩いても、このぐにゃっとした感じは消えてくれない。
ラーメンは、正直なところあんまりおいしくなかった。道に落ちているゴミは拾ってゴミ箱に捨てるべきなのは分かり切っているのに、単に恥ずかしいから、人の目を気にしたから出来なかった。こういうところがうそつきなんだ。
ぼくの背後、遥か彼方から、何日か前に飛び出した街がじっとこちらを見ている気がする。お前は変われない。低い声でそう言っているような気がする。
就職活動の波に流されるまま東京にやって来て、上司の目を、同僚の目を気にして自分のない行動ばかり。明らかに容量オーバーの仕事だと分かっているのに安請け合い。結果、苦しむのは自分。自分で出来ると言ったのにこなせなくて潰れて、逃げるように去っていくのか。お前はうそつきで負け犬だ。大きなビルが横一列に並んで赤い目を光らせて、笑っている。
流されようが何だろうが、自分で決めて東京に出て来たことには変わりない。なのに胸が苦しくて吐きそうになった。たまらず歩道脇の大木にもたれて腰掛ける。涼しい風が通り抜ける。木陰から空を見上げると、だんだん気分が落ち着いて来た。
辺りを見回すと、知らない景色が広がっていた。どれくらい歩いたんだろう。恐る恐る、来た道を振り返る。さっきまで見られている気がした東京の街は、ここからでは既に見えなかった。
この旅には、確かに意味がある。ぼくは直感的にそう思った。歩いて歩いて歩き通す。汗まみれになって、うそで塗り固めた自分のメッキを剥がす。そうして綺麗になれたなら、今度はきっと心に正直に生きる。ぼくが歩き始めた理由。
「もしもし、すみません」
不意に、声を掛けられた。反射的に立ち上がる。目の前には、おしゃれなハットを目深に被って白髭をたくわえた、感じの良いおじいさんが立っている。手にした杖で、まるで感覚を確かめるように一定のテンポで歩道の点字をついている。
「近くに図書館があるはずなのですが、どこにあるか知りませんかね」
ぼくは反射的に、周りに視線がないか気を配った。
違う、そうじゃない。性懲りもなく人の目を気にするんじゃない。ぼくは大袈裟に首を横に振った。何をすべきかは一目瞭然だ。この辺りの土地勘なんてないけれど、スマホを使えばそれくらいのことは調べられる。幸い電池もまだ充分にある。急いで指を走らせ、おじいさんに言われた場所を見つけ出した。
「分かりました。こっちです」
ぼくはそっとおじいさんの手を取り、出来るだけゆっくり歩いた。恥ずかしいとか知らない。これで良い。
やがて、一つの大きな建物に辿り着いた。出来て間もないくらいにぴかぴかだ。点字の通路も備えつけられていた。
「どうもありがとう」
おじいさんはにこやかに一礼して、点字に杖を沿わせてゆっくりと入口に向かった。
去っていく後ろ姿を見ながら、随分と立派になった顎髭を左手でそっと撫でる。おじいさんはこんなとんでもない顔だと知っても声を掛けてくれただろうか。もしそうなら、いや、そうなれるように歩こう。まだ髭は伸びていくだろうな。