落ちこぼれの私と居なくなった姉と、そしてヴァンパイア
各作品を修正しながら、これもいつか直そうと思っていたヴァンパイアもの。
やーっと直しました。
雨の降る夜は好きだ。雨雲から出来た分厚い闇が何もかもを覆い尽くして、そして流してくれる。そんな気がするから。地面や窓に叩きつけるような勢いで降る雨、風が運んでくる雨の匂い、喧騒を掻き消そうとする雨音。
「随分と長雨ねぇ」
日中だけ降る雨は嫌い。前日から降り続いている雨は好き。夕立も好き。濡れたアスファルトの匂いが何とも言えない。あれは本当に堪らん。マニアックだって言われがちだけど、これは案外好きな人はいると思う。ペトリコールって言うんだっけ、たしか。
「…そろそろ洗濯物が溜まってきたんだけどなあ」
ひとりごちて、常磐螢は、ため息をついた。今年20才になったばかりの社会人2年目である。ちなみに大学に行かず、高卒で就職した。あまりにも家が嫌すぎて、逃げるために高卒での就職を選んだ。結果、家を出ることに成功して一人暮らしを満喫している。最初はお金のやり繰りに苦労したけど、慣れてしまえば毎日が平和だ。上司はクソ野郎だと思うこともあるけれど、それは今までに生きてきたことのなかでは些細なことだった。
今日は華の金曜日。と言っても、螢は誰かと飲みに行くこともせず、何をするにも決まってないただの金曜日の夜を過ごすのがいつものルーティングだ。仕事上がりで何かしたいなあとか思うも、それは思うだけで終わる。
明日と明後日が休みだから夜更かししても支障はない。螢はサブスクで契約した配信サービスで映画を選んでいると、ふとお酒が飲みたいと冷蔵庫を開けるも空っぽで、コンビニに行くために家を出た。最近、疲れていて自炊もしていないから、そういえば食べるものが入っていない。
傘に当たる雨の音を聞きながら、人気の少ないコンビニへの夜道を歩いていた。雨音をものともしない慌ただしい足音が聞こえてきて、螢は大きく息を吐いた。
「やだなあ」
雨音に消される螢の声。しかし、螢の研ぎ澄まされた意識は、複数の足音と息遣いを拾う。その荒い息遣いは、螢の真横でポッカリと口を開けた闇—--もとい裏路地の入り口から聞こえていて、複数の足音はいろんな場所から聞こえてくる。
意識すればするほど聞こえてきた。探せと言う怒号。殺せと言う叫び。物騒だなあ。街灯の下で螢はそう思いながら、ふと足元を見下ろせば流れる水が赤く色づいているのに気付いた。
この裏路地に隠れている何かの血だってことぐらい、わかるさ。その何かは、探されてて、見つかれば殺されるってことぐらい。相手は人か人ならざるものか。この暴風雨のなか、走り回る奴等はどっちだろう。この世界には、人間とそれ以外が存在している。極道やマフィアなんかを裏世界と例えるなら、彼ら人外は闇世界と例えるべきか。まあ、それはどっちでもいい。
私は気付いてしまった。ならば、仕方ない。人だと信じて助けるか。戦うことはできないけど、逃げることは出来るんだもの。傘を畳み、私は雨に濡れる。DVDを借りなくて良かったなぁ、なんて思いながら頬や体にへばりつく背中まである自分の黒髪を結い、気合いを入れた。
大丈夫、私は逃げ足が速いんだから。何も残さず、逃げ切ってやろうじゃないか。
そう意気込んで踏み込んだ裏路地。雨に消されながらも、漂う濃厚な血の匂い。そしてゴミに埋もれるように身を潜めた男の姿。息も絶え絶えの、オジサン。暗闇でも煌めく髪ってなんだよ。どこでそんなキューティクル手に入れたんだよ。暗闇でもわかるその精悍な顔立ちに、私は顔を顰めた。
「うっわ、右脇腹にナイフ刺さってる。とんだ災難ね、あなた」
だらだらと流れる血。ナイフを抜いたら、どっか余計に内臓を傷つけるかもしれないし、余計に出血するだろう。ただえさえ、血を流しているようだし、これ以上の出血は禁物だろうなぁ。
素人目でも見りゃわかる。触れれば雨と出血のせいで冷えきった体。夏だと言うのに、ここまで冷たくなるなんてヤバイだろ。胸は上下している。生きているうちに逃げないと。
ナイフはそのままに、私は気合いで男の腕を取り肩にかけた。何処に行く?家ではまずい。足がつく。足がつかない場所なんて、この辺にあったっけ。
考えろ、何処に逃げればいい。何処に行けばーーーってオジサン、携帯ぐらい持ってるでしょ。ナイフが刺さったままとは言え、移動距離を増やすのは得策とは言えない。家かその辺の情報を得れればいい。サクサク情報を見せてもらおう。
「痴女じゃない。痴女じゃないから、携帯貸してくださいよ。うわ、えげつないぐらい着信入ってる。気持ち悪いな…」
不在着信57件。どれも数分おきに掛かって来ていて、あ、また掛かってきた。とんでもねぇな。
何なんだこの國永とやら。ずっと掛けてきてるし、なに奥さん?いやでも、まあ良いか。別にやましいことはないし。濡れた画面に指を走らせ、電話を取る。一拍もおかないまま、息を吸い込む音がした。
『終夜、てめぇ、何処で何してやがる!!』
「……っ、」
あまりの声量に耳がキーンってなった。慌てて周りを確認するが、足音がこちらに向いてくる様子はない。どうやら雨音がかき消してくれたらしい。雨音万歳。
「うっるさ。ちょっと声のボリューム落としてください」
『…誰だお前』
「あー、通行人Aです。丁度良かった。この人、ナイフ刺さってるし、病院には連れて行ったら不味そうなんですけど、何処に連れて行けばいいですかね?」
『通行人A?そいつ、ナイフ刺さってるってどういうことだ?』
「たまたま見つけたんで知りませんが、…っと」
國永って人は訝しげに私の言葉を反復する。私にも、知らないことを教えろと言われても無理だ。
雨で滑りそうになる携帯に力を入れ直して、様子をうかがっていれば雨音でも掻き消せない程のバタバタと走り回っていた複数の足音が、私たちの色裏路地の前で止まった。
やべ、これ見つかったな。私は終夜って人を担いだままし、どうする。どうすればいい。
『おい、どうした?』
「この人を探してる奴等に見つかってしまったみたいです。さっきから探せだの殺せだの言ってたので、多分そうだと思います。物騒ですねえ、ほんと」
ちっ。
私の舌打ちと電話越しの舌打ちが重なった。國永さんも不味い状況だと悟ってくれたんだろう。逃げ切ってやると決めたばかりだから、逃げ切ってやる。私は決めたことは貫き通す主義だ。
「何処に行けば良いんですか?目印教えて下さい」
『は?目印?何を言ってるんだ、通行人Aちゃん』
「何って逃げ切るんです。ちゃんと足がつかないようにするんで、早く!!」
『…うちの終夜を殺してくれるなよ』
「ちょっと保証は出来ませんが。マ、殺してしまうぐらいなら最初から助けませんよ。ほら、つべこべ言わずに場所」
足音が近付いてきた。何人いる。ひぃ、ふぅ、みぃ、よ…。相手にするだけ無駄骨で、恐らくまだ隠れている可能性もある。ならば、どうやっても逃げるしかない。
『ーーユグドラシルって名前の喫茶バーを知ってるか?櫻木公園の』
「あぁ、知ってます。そこで大丈夫ですか?」
『待ってる』
必ず生きている終夜を連れてこい、と國永さんは言って電話を切った。もちろん。
私たちは、逃げ切るのだから生きて連れて行く。にしても櫻木公園の近くか、此処から10㎞も距離はないし、案外近場だな。場所が分かれば早いものだ。
「居たぞ!!殺せ!!」
「あ、丁寧に電話終わるの待っててくれたんだ。ありがとぉ」
命令の叫びは雨音と発砲音に消された。でもねぇ銃弾が届く前に、私は消えるんだよ。
爪先で地面を叩く。スルスルと影が寄ってきて口を開けた。
幸いに今は夜。闇は何処にでも存在する。私たちが消えた後、銃弾は壁に穴を開けたことだろう。
足もつかないとは言ったが、鼻が利く奴がいたら時間の問題だ。なにせ、終夜さんとやらの血は垂れ流し状態なのだから。
ただ、その気配はなくて。私は完璧に、完全に逃げ切ったことを悟る。すごいな、この解放感って言うの。やり切ったぜっていう達成感と相まって、アドレナリンどっかどっか出てるわ。
「すいません、通行人Aですけど」
昼は喫茶店、夜はbarという小洒落た店は、知る人ぞ知る隠れ家である。櫻木公園の近くなのは近くだが、これまた裏路地の奥に建っているものだから、知っていても昼間しか行かない人が多いだろう。この街の裏路地ほど治安の悪い場所はない。
ユグドラシル――世界樹の名を冠した、そのお店は一見お断りの雰囲気を漂わせていたが、私は臆さずにチリンと涼しい鈴の音をたてるドアを開けた。
「早っ!」
「速さだけが取り柄で」
一番先に目に入って来たのは、肩を貸している終夜って人と似たような体格の人とバーカウンターでグラスを磨いている人。私を見て目を見開き、近寄ってきたのは恐らく國永さんであろう。多分。
ほの暗いライトが照らすゆるりとくくった長めの白髪に金色の目。あ、人ならざる者の方でしたか。まあ、うん。どっちにせよ、人助けってことにしても良いだろう。人の形をしているんだから。
「これ、銀製か」
「…抜きましょうか?」
「なんだ、抜いてくれるのか?」
「ド素人の腕前で良ければ」
終夜さんとやらを、バスタオルを敷いた床に寝転がした國永さんは、脇腹に刺さったナイフを見て顔をしかめた。銀製が駄目っつうことは、この人たちヴァンパイアなんですね。なるほど。結構近くに居たもんだな。
「肝の据わった嬢ちゃんだな。ど素人でも構わん、抜いてくれ。内臓に傷が入っても治るから」
「じゃあ一思いにいかせていただきます」
ナイフの柄を握り、私は一思いに抜いた。うめき声をあげることなく。なんだろうな、さっきから。この大役を果たした気分は。抜いたナイフは、受け取ったおしぼりに包んで渡した。ポタポタと顎を伝い流れる水滴が、終夜さんとやらの身体を濡らす。
暴風雨だったし、寒いし、こりゃ風邪引くな。そうなる前に帰ってお風呂にしよう。流石に服は血塗れだから捨てねばならんか。
「ん、良かったら使って」
「すみません、ありがとうございます」
暫定:國永さんとは違う人がバスタオルをくれた。ついでにとココアも。温まることは温まるけど、やっぱり下着まで濡れてるから寒いもんだわ。早々と退散せねば。
「通行人Aちゃん、名前聞いても良いか?」
「あー…はい。常磐螢と申します」
「は、常磐ってあの常磐?」
「間違いなくこの街に一軒しかない常磐ですけど、もう勘当されたので関係ないですね。私は一般人の常磐です」
「勘当?血を重視するあの家がか?つか、一般人にはぜってぇ見えん」
「私は、落ちこぼれなんです。間違いなく一般人ですよ」
「常磐の落ちこぼれって聞いたことある。退魔の力を持たなかったんだよね?」
「そうです。でも兄姉や妹たちがデキるので、問題なく私は用なしで居られるんです」
この世界には、人と人ならざるものがいる。妖だったり、魔物だったり、ヴァンパイアだとかいったものたちだ。そのなかにも悪さをする奴等もいるわけで。それから人を守るのが常磐家の役目なわけだ。
まあ、私はその力がなかったから早々に見放されていた。それもあったから、私は早く家を出たかったのだ。高校を卒業して、改めて勘当を言い渡され、今に至る。今の生活が、私は1番人間らしく生きれていると思う。
「そう…」
「ま、そういう訳なんで、私はこれで帰りますね」
私はココアを飲み干したコップをカウンターに置いた。もしかしたら、常磐から連絡もしくは遣いを寄越して来る可能性があるが、それは適当にあしらうとしよう。どうにかなる。
「…いや、風呂に入って帰れ。こっちで服は用意する」
「え、いや、帰るぅ…」
「迷惑かけた礼が出来てねぇし、女をそんな格好で帰せるわけねぇだろうが」
「礼なんてとんでもないですよ、帰してくれるだけでありがたいですし」
「朧、風呂の準備しろ」
「うん。服の準備もしとく」
朧と呼ばれた、ココアとバスタオルをくれた男はトットットとカウンター裏から出て行った。待って。私を置いて話を進めないで。なぜ、ここで、お風呂に入らなきゃならない?ん?
「これも何かの縁だ」
「…何かの縁だと言いますけど、一応、貴方方が嫌う常磐ですよ?」
「勘当されてるんだろ。ならお前が言った通り関係ねぇな」
ニヤリと笑った口から鋭く尖った犬歯が覗く。ヴァンパイアなんだよなあ。雑魚は何回か遭遇したことがあるけど、こういう、純血種のようなヴァンパイアは初めて見た。
「もう少ししたら終夜が起きるだろうし、終夜の話とお前の話を擦り合わせたい」
「…わかりました。別に擦り合わせることもないと思うけどなぁ。このまま床に転がしてても良いんですか?」
「別にかまわん」
逃がさねぇと金色の目が雄弁に語っているのを、読み取ってしまえば、もう帰る気が失せた。失せさされた?とりあえずお風呂に入らせてもらおう。
「準備できたよ。おいで、案内してあげる」
「すいません、お借りします」
雨が降る。風が吹く。雷が轟く。
薔薇が浮かんだお風呂って匂いがキツいイメージあったけど、そうでもなかった。というか、別に薔薇風呂じゃなくても良いんだけど、ヴァンパイアって赴き大事にするのかな。猫足のバスタブだし。
ボディソープとかも一式借りて、ほくほくになってお風呂から上がれば、下着も一式揃ってて、その上有名ブランドのワンピースってどういうこっちゃ。ほくほくだった気分が、少し冷めたような気がする。なぜ下着や服のサイズが分かったのか。怖い。
「あの、お風呂ありがとうございました」
「服のサイズ、大丈夫そうだな。温まったか?」
「え、えぇ」
戻ってきた店内。ほの暗いなかで、國永さんはお酒を煽っていた。床に転がってた終夜さんの姿が見えず首をかしげると、朧さんがお風呂だよと笑った。
そう言えば、朧さんは青年っぽいけど、國永さんや終夜さんはどうみても中年っぽいし、どういう関係なんだろうか。歳を取っていても美形は美形なんだよなあ。
國永さんは白髪に金色の目。朧さんは黒髪に金色の目。落ちこぼれだった私は、人ならざるものについて何も知らない。知っているのはそういう種族がいるという、大まかで大雑把な知識だけだ。
「螢は、どこまで知ってるんだ?」
「何にも知らないんです。ただ、そういう種族としか知らないんですよね」
「常磐なのに?」
「落ちこぼれでしたから。私ほどの落ちこぼれは、常磐家が始まってから初めてのことだそうで、教育するにも値しないと」
「ふぅん。螢ちゃん、苦労したんだね」
「苦労した、と言うんでしょうか?人並みに生活出来たので、特にそう思いませんでしたよ」
退魔の仕事もなかったから、普通に学生して、バイトしたりしてたぐらいだ。退魔の力がなくても、別に生きていけるしな、ってある種の悟りを開いたから気にも病まなかったんだろう。私の言葉に、朧さんは優しく笑っていた。
「その女か、危ないところを助けてくれたのは」
低い、腹の底に響くテノールボイス。心地好い響きを放つのは、私が助けたオジサンーー終夜さんだった。國永さんのように綺麗な白銀の髪をサイドでゆるりと束ね、私たちを見る目は琥珀のような黄金の目。絶対的な存在感。ヴァンパイアでも高貴な方なんだろう、脳の片隅で思った。
「終夜」
「…ケ、イ?」
カウンターに座っていた私の横に来て、私の顔を見て、ケイ。その名前を綺麗な唇にのせる。微動だにしなくなったオジサンを見て、私はゆるりと目を細めた。
「私の顔を見てその名前が出てくるなんて。どこでお知りになられたんですか?」
「どこでって、10年ぐらい前に会っただろ」
10年前ってことは私たちが10歳の時。良くしてくれた姉さんの助言で、私たちは常磐家の別荘で暮らしていた時期だ。森のなかにある、小さな別荘。太陽に照らされてキラキラ光る湖畔があった。もう、その別荘はないけど。
私の胸で淡く光る赤い石が着いたネックレスを服の上から握りしめる。どうやら、これを返すときが来たらしい。目を閉じて、過去を振り返りながら深呼吸をする。
蛍の言う“王子さま”はどう見たってワイルドなオジサンで。いや、当時からしたら若かっただろうし、蛍から見れば、彼は“王子さま”に見えたんだろう。蛍の感性は独特だったから。
『螢ちゃん、あたしね、“王子さま”と知り合ったんだよ!』
「——ケイ、だろ?」
『“王子さま”が、また会おうってこれをくれたの!また会ったら螢ちゃんを紹介する約束もしたの』
「——けーちゃん、蛍は10年前に亡くなりました」
「は?じゃあ、お前は誰だよ?」
「私は、双子の妹の螢って言うんです」
蛍が死んでから、ずっと持っていた。いつか、蛍の言っていた王子さまとやらに会ったら、このネックレスを渡そうって。返そうって。王子さまが贈った、蛍の宝物であり唯一の形見だ。
「と言うことは、あれか。終夜が大事に想ってたケイって子はもうこの世に居なくて、その妹が螢?」
「そうです。あの時既に蛍は病に蝕まれていました。静養を兼ねてあの別荘に居たんです。最期の、療養で」
「…死んだ、のか」
「國永さんの仰る通り、私たちは何かしらの縁があったんですね」
蛍は、“王子さま”に会って元気になった。けれど病の進行は止まることは終ぞなかった。けど心が元気になったのだ。元気だった時のように、蛍はよく笑った。螢ちゃん、螢ちゃん、って何をするにも後をついてきた。
「これ、貴方が蛍に贈ったんですよね?貴方に、渡そうと思って」
「…あぁ、」
彼の手のひらに渡るネックレス。なんかもう、見るに耐えないぐらい落ち込んだオジサンに、私は國永さんと朧さんと顔を見合わせた。これじゃあ、話が出来る状態ではなさそうだ。
「私、今日はこれで帰ります」
「おう、それが良いわ。悪いな、あの時に帰したら良かったかもしれん」
「いえ。お風呂を貸していただいたので、大丈夫です」
「螢ちゃん、家まで送ろうか?」
「大丈夫です。一人で帰れます」
「駄目だよ、ここ裏路地だから治安悪いし」
「大丈夫ですって。じゃあ、目の前で帰ります。んで明日、同じ時間にまた此処に来ます」
「へ?目の前で…って」
此処へもう一度来なければならない。蛍の“王子さま”に話すこと、まだ残っているのだから。
トンと爪先で床を叩くと、するりと影が寄ってきて口を開けた。座標は決まってるし、大丈夫。手元の狂いもなく帰れる。
「螢、おまっ、それ、」
「おやすみなさい」
手をヒラリと振って、私は影に身を委ねた。ああ、これも返さなきゃならない。そもそも私の力ではないものだ。
落ちこぼれに、何も出来ない。
思いの外疲れきっていた体は、睡眠を欲したのだろう。目を覚まして時計を見れば短針が12を超えていた。どうやら昼過ぎまで眠っていたようで。カーテンを開ければその眩しさに、頭がクラリとした。昨夜までの大雨はいずこへ行ったのか、太陽が真上に昇っている。
清々しいほどの青空はとても眩しかった。
「そうだ。洗濯しなきゃ」
溜まった洗濯物を消化せねばなるまい。風も吹いているし、この分だと夕方までには乾いてしまうだろう。さっさと干してしまおうか。洗濯したら、軽く掃除をして、買い物に行こう。冷蔵庫から朝昼兼用の食パンを出しながら予定を練る。ユグドラシルは、昨日と同じ時間。まだ、余裕はあった。
「…ねぇ。蛍、アンタの“王子さま”とやらはオジサンになってたわよ」
写真の向こうで笑う私と彼女。同じ顔をして、同じ血肉を分けた唯一無二の対。病知らずだった私と病弱だった彼女。一体、何が駄目だったんだろう。落ちこぼれの烙印を捺された私たち。一体、何が悪かったんだろう。
「でも、蛍のなかでは“王子さま”のままなんだろうねぇ。あの人四十路ぐらいのオジサンだったから、もう王様みたいなもんよ」
返事はない。もう首から下げていたネックレスもない。蛍の形見はあれだけだった。写真もこれ一枚だけ。常磐家は蛍が死しても尚、存在を残すことを是としなかった。だから、常磐家には何も残っていない。私の記憶しか残ってない。彼には語ることしか出来ないのが、少し心苦しい。聞いてくれるだろうか、他愛のない話を。あの小さな別荘で過ごしていた短い時間の話を。
最期、蛍は私の向こう側にあの人を見ていた。大好きよ、って言った言葉も私を通り越していて。別に良いんだ。ただ、それを聞かせてあげることが出来ないことが悲しかった。何も持たなかった私たち。愛だってろくに知らなかったのに。
少し焦げてしまった食パンのほろ苦さに、私は顔を顰めながら食べ進めた。この感情も食べてしまえれば。消化してしまえば、なくなるんだろうか。
―――昨日と同じ時間帯、私はユグドラシルに居た。臨時休業の掛札のかかった扉を押し開けると、私が来ることを分かってたかのように朧さんが手を振った。
「こんばんは、朧さん」
「いらっしゃい、螢ちゃん。そのワンピースも可愛いね」
「ありがとうございます。昨日お借りしたお洋服なんですけど…」
「僕からのプレゼントとして受け取ってよ」
柔らかく笑う朧さん。さらさらの黒髪が揺れた。なんか可愛いよね、朧さんって。近所に居る黒猫のような。顔も良けりゃ、醸し出す雰囲気も良いってか。まあ、当然かなりの年上なんだろうけど。
「知り合ったばかりで、プレゼントを貰うわけには…」
「じゃあ、終夜さんを助けてくれたお礼。昨日のワンピース似合ってたんだから、そのまま貰ってよ」
「でも…」
「——良いじゃねえか、受け取れよ。返されたって、朧は着れねえし捨てるだけだぞ」
「くっ、にながさん、こんばんは」
「なんだよ、くっにながさんって」
お店の奥から出て来た國永さんはケタケタと笑う。昨日より柔らかくなった気がするのは、これで会うのが二回目になるからだろうか。警戒はされていないようだった。ありがたいような、なぜか寂しいような。
「ふふ。ということで、螢ちゃんが貰ってね」
「…はい、ありがとうございます」
「よし。朧、終夜は?」
「終夜さんは、まだ寝てると思うよ。ほら、やけ酒してたし」
「もう夜の九時ですよね?まだ、寝てる?」
「螢ちゃんが帰ってからも暫く此処で飲んでたんだけど、部屋に帰ってからも飲んでたと思うよ。いくら僕らがワクでも度を越したアルコールには酔うしね」
なるほど。やけ酒か。10年前に数回だけ会っただけなのに、蛍の存在って大きかったんだなあ。ロリコンとは言わないでやろうと思っている。10歳そこそこの子供によくもまあ、そこまで情が持てたものだ。蛍にとっても、彼の存在は大きかったようだけれど。会えてよかったと笑っていたからこそ、私は目を瞑り続けた。
「――ケイもなんであの人を、“王子さま”って呼んだんだろう」
「王子様?」
「アイツか?」
「蛍は“王子さま”と会ったんだって、喜んでたんです。10年前、私たちは蛍の静養のために別荘に移り住みました。私は健康体だったけど、蛍は酷く病弱だったんです。退魔の力もないから、親たちは私と蛍を見ることはありませんでしたが、2番目の姉が私たちを可愛がってくれていたので、姉の手配で別荘に行きつくことが出来たんです。落ちこぼれだから家に居ても居なくても何も変わらないし、上には3人兄姉が居ましたし、下にも1人弟が居たので」
「今時、6人兄弟とは…」
「僕たちでも、そんなに子ども出来ないよ」
「6人子が居ても落ちこぼれが2人居ましたからねぇ。私と蛍、2人っきりの別荘は2人だけの世界でした。訪ねて来る人も居ないし、老夫婦が私たちの世話を見てくれていて。ただ、蛍の命の灯が消えるのを私は傍で見てました」
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、年が明け、春になり、私たちの誕生日が来る前に蛍は眠りについた。春の温かな日差しに包まれたハンモックのなかで、安らかな顔をしていた。常磐から、病から、彼女はようやく解放されたのだ。
それでいいと思った。|この私≪片割れ≫を置いて逝く、寂しさを押し込んで。来世では幸せになれるようにと祈った。
「最初に教えてくれたのは満天の星空、春風が心地好い夜でした。丁度朔の夜だったので、星明かりだけが私と蛍を照らしていて、まるで内緒話をするように蛍から“王子さま”と知り合ったと聞かされました。白い頬を薄紅に染めて、とても嬉しそうに話を聞かせてくれたんです」
「王子さま…。やっぱり、その王子さまって終夜さんで間違いないの?」
「何処から来たのかも分からないその人に、よくもまぁそこまで恋焦がれることが出来るなあ、なんて私は思っていたぐらいに到底理解が出来ないことでした。でも蛍からすれば、あの人は“王子さま”だったんでしょう。私たちは、愛された記憶がありません。唯一優しくしてくれた姉さんも、私たちと他人として見た上での優しさでしたから」
あきれ顔の二人に私は肩を竦めた。
「それで、その王子さまは何回も来たの?」
「らしいですよ。何度来たのか私は知りません。体調の良い日は1人で、と言ってた蛍の願いもあって私は家の奥に居たんです。なので、私が知る“王子さま”は螢から聞く情報のみ」
蛍は、唯一を見つけた。私は、何者かも知らない分からない人だったけれどその人と出会ったことにより、蛍がもっと生きたいと足掻くことが嬉しかった。だから、私は蛍の願いを叶えた。
物陰にしゃがみこんでいる王子さまに気付きながら、私は語り続ける。それを知っているからだろう。朧さんも國永さんも止めなかった。
「――まあ、こんな感じですかね」
「螢ちゃんは、ちゃんと泣いた?蛍ちゃんが亡くなって、独りになっちゃったんでしょ?」
「朧、超直球だな」
「蛍が居なくなったからと言って、私は独りぼっちじゃありませんでしたよ。蛍が遺してくれた、影があったから」
「影って、昨日のだよね」
「そうです、ってこれが聞きたかったんでしょう、朧さんは。蛍が居なくなった時に私の影に潜り込んできたんです。得体の知れない何かだったけれど、私に移り住んだってことは器として、この影に必要とされているからだろうって、推測はしてたんです。飼い主のもとに返そうって思いながら、早10年が経過しちゃったんですけど」
けらりけらり。私は笑って、差し出してくれたお冷やを飲み干した。朧さん、柔らかな見た目と反して、案外曲者だったりするんだろうか。國永さんは、まんま曲者っぽいけど。年かさのヴァンパイアだもんね、腹黒くならなきゃやってられない所もあるんだろう。
「その影って終夜さんのだよね」
「多分、そうでしょうね。蛍の“王子さま”のものだっていうのは、蛍が居なくなった時に気付いてました。馬鹿じゃないつもりなんで。今日は、これを返すつもりで来たんです。やっと、返すことが出来る」
蛍のことと昨日のことを話して、影を返して、そしてさようならをする予定で此処に来た。縁があったけど、それは私との縁じゃなくて、蛍との縁だと思うから。私の縁に結び付けることはしたくなかった。
「返すんだ、それ。結構使い慣らしてたじゃん」
「いや、私のものじゃないんですもん。ネックレスも、この影も、蛍からの借り物で返す物ですから。ネックレスも影も、ただの人間が持っていて良いものじゃないっていうのは分かってるんで」
「螢には、ケイとの形見とかあるわけ?」
「この体を作る血肉、ですかね。私たちは双子なんです。母の胎内で血肉を分けあって生まれてきた。これ以上の形見はないでしょう?」
「うわ、悪いけどちょっと引く…」
「あ、写真があるんで大丈夫です」
げぇと顔をしかめた朧さんと國永さん。失礼だなあ。人外向けのベストアンサーだと思ったんだけど、駄目だったか。冗談言うのって難しいな。
「寂しいね、螢って」
「そうですかねぇ。寂しくなんかないですし、まぁ捻くれてるのもあるんで」
「そういう茶化しかたとか、別にしなくても良いんじゃね?寂しいなら、寂しいって言えよ。オジサンだけど構ってやるぜ?」
「僕も構ってあげる。螢ちゃんのこと、なんか気に入っちゃったし。さっさと終夜さんに影を返したら?僕の影をあげるよ?」
「よし、俺の影も一緒に住まわせろ」
「いや、要らないんですけど。別に要らないんですけど!」
何、影ってそんな役目とかあんの?いや、そもそもコイツ等何言ってんだよ。誰が寂しいって言った?
勝手に言い合いを始めた二人を、呆れながら見ていたら物陰から終夜さんが出てきた。ちょっとやつれている。1日でそんなにやつれるもん?めちゃくちゃお酒臭いし。
「名前は」
「螢。火が二つ付いた蛍」
「ほたる、影はそのままで良い。ネックレスもお前にやる」
どんなに落ち込んでいても、琥珀のような黄金の目は煌々と輝いていた。私を一瞥して、他にも何か言いたそうに口を動かすも、言葉にならなかったのか黙ってしまったけど。蛍の言ってた通り、口下手らしい。
黙り込んだその人を見ていると、予備動作なく私の頭を無造作に撫でて、低い声で『手ぇ出せ』とまるで呟くように言った。大きくてかさついた手のひらは熱くて、優しくて。
そっと出した手のひらに落ちて来る、昨日返した筈の私の手に馴染んだネックレス。なんだ、もう返ってきちゃったか、お前。
「俺は終夜。終わる夜と書いて、しゅうや」
「しゅうや、さん」
「昨日は助かった」
終夜さんはまた頭を一撫でしてから、朧さんや國永さんに目を向けることもなくユグドラシルから出て行った。バーカウンターを挟んで言い合いをしている二人は、気付いているのかいないのか。これ、いつまで続けるんだろうな。
「――螢」
この日から私は、このヴァンパイアたちと過ごすようになる。青年っぽい朧さんが、実は國永さんや終夜さんとさほど年齢が変わらなかったり、國永さんと終夜さんが従兄弟だったり、たくさん知ることになる。
そして、私は離れがたいほど彼らを愛するようになる。