ビッグ・ケンネルの話
ケンネルとは、犬小屋の事である。言われてみればなるほどな、となるが、言われてみなければ、なんのこっちゃだ。ビッグ・ケンネルとは、国道沿いにある大きなペットショップの事だ。ビッグの名に恥じない大きさのペットショップで、入り組んだ二階建ての作りになっている。
ペットショップというと、ショッピングセンターなどにあるワンちゃんやネコちゃんを可愛らしく見せることに注力した店というイメージが先行する。しかし、この店はそうではない。外の店頭には鳩や九官鳥やインコや、カナリア少女、オウム少年が所狭しに並ぶ。この鳥たちは、買い手がつくまで、国道の排ガスをガンガン吸う羽目になるから哀れだ。申し訳程度の隙間のような入り口を見つけると、やっとのことで店内に入れる。
店内に入ると真っ先に感じるのは、獣の臭い。様々な種が混じりあう体臭と、糞尿と、餌の生臭さだ。清掃は流石にされているが、乱雑でタイル張りの床は常に湿っている。私でもヒールとスカートで、この店に訪れるのは嫌だ。外光の殆ど差し込まない店内は薄暗く、店頭の南国のような気だるさの鳥たちのお気楽な雰囲気はない。煌々とした蛍光灯に照らされる人金魚やアロワナ、カミツキガメは妙に不健康で、不自然に感じるほど体の色が鮮やかだ。申し訳程度の仄暗い蛍光灯に照らされた水槽には、魚口密度がかなり高めの小魚たちの水槽が置かれている。水槽の上には「餌用金魚 一匹30円」と書かれており、上の金のアロワナの1000/1以下の値段だ。
小動物やら、餌のネズミやら、本当に店内を走り回るドブネズミなのか逃げ出したペットなのか、小動物コーナーに至っては、もはやカオスだ。というより、何かの条約に違反していそうな獣達を眺めているうちに、小動物などに気を取られなくなる。その奥を抜けると、世にも珍しい宇宙人ではなくて、鮮やかなブルーちょんまげ髭面オヤジがレジに陣取っているのだ。しかも、至って真剣に業務に打ち込んでいる。生真面目なことに、口周りの髭までブルーではないか。この店は店長すらこんな風体だ。
「あっ、いらっしゃいませ」
愛想よく笑顔で挨拶をされるので、軽く会釈すると「2階にオオカミが居るんで見てってください」とやたら良い笑顔で返してきた。オオカミ、余りに非日常な響きと、この店ならまぁ居そうだよなという複雑な心境に動きが止まる。店主は「右行った方の小屋にいますよ」と2階の方を指さすと、また事務作業に戻った。
2階に行くには、猛禽類のいるコーナーを抜けていかなければならない。店内が薄暗いからなのか、蛍光灯の光で体内時計が狂ってしまっているのか、ここの鳥達はいつ来ても目が変にぎらついている気がして落ち着かない気分になる。檻に入れられているワシやフクロウなどはまだ良い。私が苦手に思うのは、メンフクロウだ。コイツはどうして檻にも入れられず頼りない鎖だけで繋がれているのだろう。また、引っ切り無しに首を哺乳類には不可能な角度に曲げている。子供のとき、初めて祖父に連れられてこの店に来た時、コイツの妙な迫力に面食らい、動けなくなってしまった。メンフクロウも苦手だったが、もっと苦手なものが最近この店に登場してしまった。救いはその怪鳥がメンフクロウの更に奥に居て、檻に入っていることだ。私は、どうしても人面鷲、店長曰くハーピィという種らしいがどうしてもこの化物が好きになれない。感情の読めない瞳は、得体が知れなくて苦手だ。メンフクロウの奥から更に視線を感じたが、あまり気にしないように階段を上がる。
2階と言っても爬虫類のいる温室は見ずに、ほとんど外と言っても差し支えない掘っ立て小屋を見に行く。
小屋は二つに区切られ、それぞれに灰色の獣が一匹ずつ囚われている。仕切りの片方の獣は私の気配を感じるや否や、敵意の瞳を向け、唸り声を上げ始めた。素早く踵を返すと、狭い小屋の端まで走り、バンッと音を立てて檻を蹴った。大型犬の特有のどっしりとした前脚と後ろ脚の動きは、明らかに猛獣の筋肉の付き方だ。檻が無かったら一たまりも無いな、などと暢気な感想と共に観察をしていると、完全なオオカミではなく半獣だ。上半身にかけては、毛がうっすらとしており、人間そっくりの乳首が少なくとも4つはある。性器のある下半身にかけては、乳首が小さいのか毛に覆われていて確認ができない。もっとよく観察しようと、檻の近くまで行って覗き込んでもお構いなしに檻を蹴り上げてくる。その振動は、檻越しにも感じられた。流石に半獣だけあって賢く、1、2分もジッと観察すると私が動じないのを理解したと見えて、唸り声を上げて睨みつけてきた。こうしてみると、中々の面構えだ。人間よりは間延びした顔にむき出しになった犬歯がよく似合う。怒りに満ち溢れた、人間を信用していない表情をしながら、それはまさに般若にも似た人間の怒りや憎しみや疑いに溢れた顔だ。凶暴で手が付けられないのか、頭部の髪は伸びっぱなしになっている。しかし、それがなんとも正気じゃないような野性味あふれたこのオオカミによく似あう。バラバラの長さの髪は、まさに文字通りのウルフカットだとでも言いたげな趣だ。股間を見ると、立派な睾丸がぶらりとぶら下がっていた。つまりは結構な男前だ。確かに人間だったのなら、若武者という雰囲気すらある。実に雄々しくていい事じゃないかと笑ってしまう。
さて、隣のオオカミは如何なものかと視線を向ける。流石にさっきの若武者オオカミよりは手入れされているのか、毛並みに艶があり、飼育されている動物だ。こちらの方はおどおどとした視線をこちらに向けるばかりで、小屋の隅っこで私を伺っている。僅かに見える顔立ちは、繊細で柔和そうな顔立ちだ。さっきの若武者オオカミの殺気に怖じ気づいているのか、威嚇でもされているのか、負け犬の哀れさすら感じる。遠慮がちにこちらに体を向けて様子を伺う。オオカミの体には僅かな膨らみがある。女の乳房が人間にはありえない数が付いていた。毛皮に隠された体つきは曲線を描き、柔らかな印象を抱く。一糸まとわぬ姿でありながら、乳房が毛皮から薄っすらと見えるのは、着乱れた服を思わせた。この雌オオカミのおどおどした様子も、恥じらう風にも見える。
もっとよく雌オオカミを見ようと檻に近づくと、隣の若武者オオカミがぎゃんぎゃんとうるさく暴れまわった。コイツが抱くのは、獣特有の獣性とか、独占欲だろうか。それとも、恋慕とか嫉妬心とか思慕とかという、人間じみた感情だろうか。性にもなく、そんな物思いに耽りそうになったが、たかが半獣に何を考えているのだろう。若武者オオカミの怒りの形相が、ずっと前に別れてしまった恋人と喧嘩したときの表情を思い出してしまい、急に興が削がれてしまった。こっちのことなどお構いなしに威嚇は続き、雌オオカミは委縮し、実物よりもずっと小さく哀れだ。今までちっとも思い出しもせずに普通に暮らせていたのに、思い出したくもないことをこれ以上ここにいると思い出してしまう確信に、私は踵を返した。私の姿が見えなくなったはずなのに、威嚇の声は止まない。私はあの威嚇から逃げられるけれど、あの雌オオカミは逃げられないことはなるべく考えないようにした。
「ありやとした~」そう言っているとしか聞こえない「ありがとうございました」を背に私は店を出る。私の意識は既に昼食の方に向いていた。久しぶりに、この近くにあるつけ麺が上手いラーメン屋にでも行ってみるかと、そっちの方に足を向けた。
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