黒い服の男
じーわ、じーわと、唸るような蝉の声が大合唱している。
特急の止まらないこの小さな駅は、1メートル✕3メートルほどの待ち合いスペースしかない。そのくせ、後ろの低いフェンスから身を乗り出すようにして伸びる枝と葉っぱの勢いは荒々しいほどの生命力に満ちている。
天然の屋根といえば聞こえは良いけれど、伸びすぎていて正直、邪魔だ。雨の日は傘を差しても水滴が袖を濡らす。うっとうしいことこの上ない。
それでも、この木の陰に入れば風は涼しく、焼け焦げるような日差しから逃れることができる。
朝の七時。まばゆい晴れ空。
ほんの少し湿った首筋を撫でる風の涼と、プリーツスカートの足元から感じる蒸し上がるような熱。
夏、真っ盛り。自由が呼んでいる。
それなのに私は、受験と言う名の品評会に向けて点数の底上げをしに学校なんかへ行かなくちゃいけない。夏期講習二日目の今日は、よりによって苦手な数学と化学だ。
憂鬱な気分で電車を待つ私は、とうとうスマホの画面をスクロールするのにも飽きてきていた。違和感に気づいたのはきっと偶然。
「……なに?」
向かいのホームに浮かぶ黒。
人影?
視線を上げたら、そこには、この暑さに不似合いな黒ずくめの若い男がいた。
思わず息を呑む。
なぜなら、彼はまるで冬の風を纏っているかのように冷え冷えとした顔色で、長袖の黒いシャツに黒いネクタイ、暗い色のスラックスに黒い革靴という姿だったから。
――幽霊
私は咄嗟に見えていないフリをした。
何でもないように取り繕って、取り落しそうになったスマートフォンの画面に集中する。
それでも、彼の視線を感じた。
嫌な汗が吹き出す。周りの温度がサーッと下がった気がする。
ヤバい。ヤバい、ヤバい!
こっち見てる!
そのとき、手の中のスマホが鳴り出した。私は慌ててスマホを操作しようと体の向きを変えた。駅のホームのスピーカーからけたたましい音がする。駅を通過する特急列車がものすごい勢いで迫ってきた。
「あっ」
マズイ、と思ったときには、ぶつかった枝に押される形で線路の方へ向かって倒れていた。
ぶつかっ…………………… …… …
※ ※ ※ ※
じーわ、じーわと、唸るような蝉の声が大合唱している。
狭い駅のホームに乗り出すように枝を広げている木の陰で、真っ青な空を見上げながら、「今日も暑くなるんだろうな」と私は少しウンザリした気分になった。
せっかくの夏休みだっていうのに、朝の七時から制服を着てこんな場所にいるのは、夏期講習のためだ。今日が二日目。これが三日、四日、五日と続く。
親も先生も誰もかれも、受験受験ってそればっかり。『早めの対策が合格の鍵』だなんて聞き飽きた。
私たちはまるで品評会に出される家畜の群れ。
どうしてそこまでして良い点を取らなきゃいけないんだろう。そんなことしても、人生が上手くいく保証もないのに……。
そうは言っても、行かないわけにはいかない。だって、夏期講習のお金は払っちゃってるんだもん。私の意思に関係なく。
手持無沙汰にスマホを弄びながら、電車が来るのを待つ。じりじり這い上ってくる熱にため息が出る。
ベンチすらない田舎の小さな駅なので、緑のつる草に覆われていないフェンスの一部に背中をもたせかけるだけで精一杯。枝のせいで居場所がなくて、それが本当にうっとうしい。
そんな中、ふっと視線を感じた。
おかしいな、今日は、誰もいないと思ったけど……。
チラリと横を見てギョッとする。
こんな真夏に黒の長袖だなんて!
まるで影が人型になったみたいな、黒ずくめの若い男だった。生気のない白い顔に見覚えはない。
彼はこっちに近づいてくる素振りもなく、ただ改札を通り過ぎた場所で立ち止まっていた。
まさか……幽霊?
現実感のなさに戸惑う。
さっきまで暑いくらいだったのに、今は何だか肌寒い。いつの間にか、蝉の声が止んでいた。
背中に冷たいものが走る。
いけない……見たらいけない!
私は男を無視しようとした。
視界の端っこに、ぼんやりと立っている。
怖い……どうしよう!
そのとき、手の中のスマホが鳴り始めて私は飛び上がった。
慌てて画面を確かめようとして、もたついてしまう。駅のホームのスピーカーからけたたましい音がして、駅を通過する特急列車の接近を告げていた。
下がらなくちゃ!
「あっ」
私は枝にぶつかっていた。こんもりと茂った若葉が顔にチクチクと刺さる。
押しかえされる感覚。こんなところで転んじゃったら……私……!
……………… …… …
※ ※ ※ ※
じーわ、じーわと、唸るような蝉の声が大合唱している。
まだ朝の七時になったばっかりだというのに、元気なことだ。まあ、虫たちにとっては関係ないことなんだろう。彼らはただ、彼らの生を謳歌しているんだ。
私はと言えば、自由なはずの夏休みだというのにこうして一人、電車を待っている。
夏期講習なんかのために。座る場所も、屋根すらない狭い狭い駅のホームで。
……しかも次に来る電車は特急で、ここには止まることはない。
私は陽射しから逃げるように木陰に身を寄せた。
ホームの背後はまるでジャングルで、桜の木や名前も知らない植物が生い茂っている。そんな野生の世界と人間の世界を遮ってくれるはずの境界線は、あまり役に立たない低いフェンスで、事実、この木の枝々はいつだって剪定の手から逃れて私たちの世界に侵入してくる。
でも、その枝葉は陽射しや不意の通り雨から守ってくれる屋根でもあるのだ。
こうして木陰にいると、朝の風はとても快適で、時間を忘れそうになる。
まるで、日常から切り取られた異空間に閉じ込められているみたい。
このまま逃げられたらいいのに。
なんて。
今日でまだ二日目なのに。
ああ、でも、よりによって数学と化学か。
ため息が出る。
変な考えから逃げるようにしてスマホの画面を見る。返信はなし。
がっかりしながらスクロールを繰り返す。
そんなとき。
人の気配を感じた。
ギョッとする。
誰か、改札を抜けてきた気配があった?
視界の端に立つ黒い服の男。
私は確かめずにはいられなくて、コッソリ様子をうかがった。
真夏だと言うのに、長袖の黒いシャツに黒いネクタイ、暗い色のスラックスに黒い革靴。まるで影がそのまま人間になったよう。長めの黒い髪が生気のない顔にかかっている。
あまりにも、白い顔。
いつの間にか、蝉の声が止んでいた。あんなにいっぱい、鳴いていたのに。
足元を焦がしていたコンクリートの熱も感じない。空は色褪せ、冷たい風が吹いていた。
怖い……。
何が起こってるの?
どうしよう。あれは人じゃない。
あんな異質なものは人じゃない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう……。
こっちを見ている。だんだん、近づいている気がする。
あれは幽霊? それとも……
そのとき、私の手の中でスマホが鳴り始めた。着信……誰? 駅のホームのスピーカーからけたたましい音がして、特急列車の接近を告げている。猛スピードで近づいてくる。
うるさくてこれじゃあ声が聞き取れない。私は電車に背を向けながらスマホの画面に映る緑のタブを上へスライドさせようとして、
「あっ」
私はぶつかった。張り出した枝がちょうど、顔の位置にあった。ぶつかった勢いのままに跳ね返されて、私の体は線路の方へ投げ出される。
ぶつかるっ……… …… …
「あれ……?」
私は倒れていなかった。
私の腕を掴んで、支えてくれる手があった。
「狭い場所で、いきなり動くのは危ないですよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
「いいえ。何度も何度も、いたましい場面が繰り返されるのは、見ていてあまり気分のいいものではありませんから」
「え…………?」
言っている意味がわからない。
ちょっと、頭のおかしい人なんだろうか……。
助けてもらっておいて失礼なことだとは思うけれど、そんなことを考えてしまった。
若い男の人は続けて言った。
「同じ日、同じ時間を繰り返している貴女は、ここに囚われたままどこにも行けないでいる。貴女は覚えていないのかもしれませんが。だからもう、終わりにしましょう。僕はそのために来たんです」
「ちょっと、何言ってんの? 離してよ……!」
「気づきませんか? 今はもう、冬なんですよ」
「!」
色褪せた世界。
曇り空。吹き抜ける冷たい風。枯れて落ちた葉。萎れた雑草。
蝉の声は、聞こえない。
「わ、たし……」
そうか。
私は事故にあったんだ。
本物の私は、さっきの電車にはねられて……。
私……私は……死んでしまった……!
涙があふれてくる。
幽霊だったのは、私の方だったんだ。
黒い服の男は、改めて私に白い手を差し出してきた。その表情からは、何を考えているのか、まったく読み取れない。彼は首を傾げる私に言った。
「貴女には、行くべき場所があります。さぁ、手を。僕が連れていきますから」
「……お願い、します」
手を伸ばす。
わずかに温かい彼の手に触れると、そこから光があふれてきて私を包み込んだ。