36.俺さ――
外はザァザァと土砂降りの大雨が音を立てている。
しかし防音がしっかりとしたこのマンションでは、ゴゥンゴゥンという乾燥機の音ばかりがよく響く。
それが隣接されている風呂場にも、その重低音が良く聞こえてきていた。
「何やってんだ、俺は……」
この呟きも、その音に掻き消されていく。
隼人は湯船につかりながら、自己嫌悪に陥っていた。
先ほどの自分の行為を思い出しては、顔を赤くして湯船に沈みこむ。
吐き出すため息は、ぶくぶくと泡になって、浮かんでは消える。
(ああ、くそっ!)
先ほどのことを思い出すだけで、どんどんと顔が熱くなっていくのを自覚してしまう。
思えば随分と大胆な行動だった。
『ええぇぇっ!! ボ、ボクを泊めたいって、すごく大胆なことを言うね?! あれかな、エロいことされちゃうやつ?!』
『っ?! ち、違っ、その、この雨だしせっかくの服も濡れるというか、風邪になったらいけないというか、アレだよアレ!』
『アレって何かな?! んんん~っ、それだけボクと一緒に居たいってことなのかな? かな?!』
『そうだよ、くそ! だから今日は泊まってけ、戻るぞ!』
『え、ちょ、本気?! ボクたちはそんな関係じゃないというか、まだ早いというか、心の準備というかひめちゃんも居るっていうか!』
『あぁ、姫子も喜ぶな。なんていうかその――』
当然、そのことに気付いてしまえば、お互い大騒ぎだ。
慌てて茶化して火消しに走ろうとするが、それでも隼人にはどうしても譲れないことがあった。
『――今日の春希は、あの家に帰したくないんだ』
『……ぁ。うん……そっか、うん……』
それはただの隼人の我儘だった。昼間に見せたあの寂しそうな春希の顔が、どうしてもチラついてしまっての行動だった。
こうやって冷静になって考えると、随分とアレな発言である。
春希を連れて戻った時、姫子は随分と驚いたものの『お泊り会だ!』と喜んでくれたことが幸いか。
「あー暑ぃ、上がるか」
そんなことをずっと考え込んでいたものだから、随分と長風呂をしてしまっていた。春希と姫子は既に済ませた後なので、文句を言う人は居ない。
隼人はのぼせた頭を冷やそうと、冷たいシャワーを軽く浴びてから風呂を出る。
ささっと全身の水けをふき取り、髪は湿ったままの状態で、ハンドタオルを首に掛ける。
急遽泊まることになった春希の寝床をどうしようかと考えながら、自分の部屋へと戻った。
「あ、おかえりー。色々借りてるよー」
「……」
そこに居たのは、どこまでもいつも通りの春希の姿だった。
真夜中に異性の部屋にいるにもかかわらず、隼人のベッドの上で枕を抱いてうつ伏せになり、漫画を読みながらパタパタと足を小さく動かしている。
着ているのはぶかぶかの隼人のTシャツ1枚で、流石に下は見えはしないようにとタオルケットで覆っていた。また髪型も風呂上がりで寝る前だからなのか、左右におさげにして垂らしており、隼人の目には新鮮に映る。
そんなリラックスした姿を見せられると、なんだか自意識過剰だったんじゃと、妙に気恥ずかしくなってしまった。バリバリと濡れた頭をハンドタオルで拭きながらため息を吐く。
「エロ本探したけど無かったんだよね。パソコンの中かな?」
「アホ言え……それよりも、そのシャツ俺のか? 姫子に借りなかったのか?」
「あー……」
隼人の言葉に、春希は急に真顔になって、ベッドの上で正座して向き直る。ちなみにキッチリと下半身はタオルケットで隠したままだ。
「そのですね、ボクとひめちゃんだと、ひめちゃんの方が少しだけ背が高いくらいでほぼほぼ同じなのです」
「うん? だから姫子ので問題ないんじゃ?」
「ええっと借りたのですけどね、胸がキツイと言ってしまったら無言で隼人のシャツを投げつけられてしまって……」
「……」
「……」
「……ぶふっ! は、春希それは……って、くくっ、姫子もそういうの気にしてるんだな……ははっ」
「ど、ど、どうしよう?! ひめちゃんすんごく拗ねちゃっててさ、何を言ったら……もぅ、隼人! 笑ってないでさ、お兄ちゃんなんだから何かひめちゃんのアドバイスちょうだいよ!」
「痛っ、痛っ、背中叩くなって! 甘いものでもやれば機嫌直すって!」
「うわ、なげやりっ?!」
春希としては大真面目に相談したにもかかわらず、話を聞くなり吹き出してしまった隼人。
ぷくりと頬を膨らませた春希は、抗議のつもりでバシバシと背中を叩き出す。
どうやら春希は、姫子の地雷をぺったんと踏み抜いてしまったようだった。
隼人は姫子がそれをコンプレックスにしていることは、日々牛乳と格闘をしているので、よく知っている。
なるほど、姫子が拗ねるのも無理はない。
「……ひめちゃんも胸の大きさとか気にするようになっちゃっててさ、ほんと、女の子になっちゃってるんだなぁ」
「春希?」
ふと、春希がしんみりとした声を出して、それまで叩いていた背中のシャツを、ぎゅっと握りしめた。そしてペタペタと何かを確かめるかのように背中をまさぐり始める。
「大きいね。昔はボクとそんなに変わらなかったハズなのに、随分と差が付いちゃった。ひめちゃんにも背は抜かされるし、隼人は料理の手際とかすごいしさ……あの頃のままじゃないんだよね……」
「……まぁな、俺も色々あったし」
「そっかぁ……」
春希が力なく呟く。普段通りを装っているように見えて、やはり昼間の件を引きずっているのだろう。
――1人にしなくてよかった。
隼人はそう思うがしかし、事情を知らないが故にこれ以上話しかける言葉を持っていない。これ以上踏み込むには、あまりにもお互い知らないことが増え過ぎてしまっていて、躊躇われてしまう。これは空白の7年が作り出した隼人と春希の間にある、遠慮という壁だ。
他にもいろいろと変わってしまっている。
声の高さも違うし、がっしりとした隼人の肩幅と丸みを帯びた撫で肩の春希、それぞれに身に付いた習慣に特技。そして、お互いの取り巻く環境。いくら願えども、何も知らずにただ笑って遊んでいた頃には、もう戻りはしない。
だけど、それでも隼人には、あの頃と変わらないと言える気持ちが胸の内にあった。
「今日さ、楽しかった」
「……え?」
「なんかさ、色々あるんだろうけどさ、今日は春希と一緒に遊んでて、その、楽しかったんだ」
「…………ぁ」
隼人の顔は真っ赤になっていた。風呂場での赤さの再現だった。
きっとこれは場に呑まれた勢いで言ってるだけで、明日の朝に起きたときには恥ずかしくなって悶えてしまうのは分かっている。
それでも、今の春希に対して、どうしても言わずにはいられなかった。
「俺さ、春希が居なくなってから寂しかったんだ。他に同世代の友達もいなくてさ。今日だけじゃなくて、こっちにきてからは昔のように毎日が楽しくて……だから再会できて、凄く嬉しかったんだ」
「隼、人……」
わざわざ口に出すことでもないかもしれない。きっとお互い何となくわかっていた事でもある。
だけど今、そのことをはっきりと口に出すことに意味があるのだと、言葉にして伝えなきゃいけないのだと、そんな確信と使命感にも似た何かがあった。
「あのさ、春希に何があったか知らない。俺に出来る事なんてたかが知れてるかもしれない。だけど、それでも傍に寄り添うことくらいはできるから。昔と違ってさ、スマホもあるし、駆けつけることくらいは――春希?」
「……………………え?」
照れ臭さから俯きガリガリと掻いていた頭を上げたときのことだった。
隼人の目には、ボロボロと大粒の滂沱の涙を流す春希が映る。
本人は気付いていなかったのか、隼人の驚く顔を見て初めて、自分が泣いていることに気付く。
「ボク、どうして……あれ、何で……あは、おかしいな……」
もはや感情をコントロールできないのか、いくら涙を拭っても収まる気配はなく、その顔はぐちゃぐちゃだ。
お互い、どうしてこうなっているかなんてわからない。
ただ、今の顔は見られたくないだろうと、隼人はそっと背中を向ける。
「これ、貸すよ」
「ん……貸されとく」
ポスン、と背中に額を押し付けられる感覚が伝わる。そしてやがて、隼人の背中から嗚咽が漏れてきた。
切っ掛けはどの言葉かはわからない。
だけど一度堰を切って流れ出した春希の涙は、止まることを知らなかった。
そしてこれは、7年の間に我慢してきたものの発露でもあった。
いずれこのまま抱え込みすぎてしまっていたら、彼女は壊れてしまっていたかもしれない。
――だから、今は存分に泣けばいい。
本当はそんな顔なんてさせたくないくせに、隼人は背中に広がる熱いものを感じながら、自分の手を痛いほどに握りしめていた。その胸にあるのは、ただただ無力感と自分への怒りに似た想いだった。
(俺、は……)
様々な過去が、何も出来なかったかつてのことが蘇る。それは――
「おにぃ、いる? そのちょっと、はるちゃんに嫌な態度とっちゃって、どうし――」
「…………あ」
「……ひめちゃん?」
ガチャリと、返事を待たず無遠慮に扉が開けられ、どこかしおらしい表情の姫子が部屋に入ってきた。
だが隼人と春希の――眉間に皺を作り難しい顔をしている兄と、泣きはらしている幼馴染の姿を見とめると、みるみるとその表情を赤く変えていく。
「なっ、なっ、なっ、なにやらかしたのよ?!」
「待て姫子、俺は何もしていない!」
「じゃあ何ではるちゃんが泣いてるのさ?!」
「ボク、隼人に泣かされちゃった……」
「っておい、春希!」
「おにぃー!」
傍から見れば、姫子の勘違いも致し方ない状況だ。
姫子は何か兄が無体なことをやらかしたのかと思い、足元にあったリモコンや雑誌などを手あたり次第に投げつけていく。
「あはは!」
「春希、笑ってないで姫子を宥めてくれ!」
興奮した姫子に責め立てられ、困った顔をする隼人を見て、チロリとピンクの舌先を見せる春希。
変わり身の早さに、さっきのは何だったんだと思ってしまう。
しかしそれは、いつも通りの彼女の姿でもあり、もう大丈夫だよというサインでもあった。
「(ありがと)」
ため息をつく隼人に向けて、春希の唇がそう動いていた。




















