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殺し屋と奏でるサーカス  作者: お菊
第一幕
6/14

第五番


 息が絶え絶えになり、足もおぼつかなくなってきているが、それでも全力で走りぬける二つの影が長く壁をつたっていた。

 月の出ていない真夜中。狭く入り組む都会の路地は迷路のようで、どこまでも終わりはない。

「母さん、まって……どこ、に――――――」

 息が切れてうまく話せない状態でも、必死で相手を呼び止めているのは、十歳にも満たないだろう少年だった。雪のような白銀の髪が、汗で額に張り付き視界を邪魔する。

「もう少しよ、もう少し――――――」

 少年の手を引き走るのは、少年の優しい母だった。

 少年は引かれる手を決して離すまいと、強く握り返す。

 白い手。

 冷たい手。


 少年は思った。

 なぜ走るのだろう。

 必死に、決して立ち止まることもなく。


 しかし少年は本能的に知っていた。

 逃げているのだ。

 追われているから逃げる。

 誰かに追われている。

 誰か――――――。

 獣でもない、幽霊でもない。

 この世に存在する最も恐ろしい生き物。

 ――――――ヒトに。


「まって、まって……母さんっ」

「がんばって、もう少しよ、もう少し」

 優しく励ます母親に、少年は必死でついていく。


「いたぞっ、弓削左だ!」

 追ってくる人間の足早に走る音が、路地の狭く迫る壁に反響する。


「がんばって、がんばって……」

 のどが熱くカラカラに渇き、鉄の味を呑み込みむ。額に汗をにじませて、少年にそれを拭き取る余裕はない。そんな少年の手を、母親は決して緩めない。

 しかしその抵抗もむなしく、目の前に黒いスーツに黒いネクタイ姿の男が頭上から勢いよく降り立った。片手には一振りの日本刀が抜き身の状態で、その細身の刀身を露にしていた。

「どこに行く気だ?」

 男は鋭い眼光を母親に向ける。

「……っ!」

 母親は無言で男から少年を守るかのように後を引く。

「逃げたって無駄だ。おとなしく言うことを聞くんだ」

「弓削、追い詰めたな」

 今度は背後から別の男が現れ、前後にしか道のない路地に挟まれる形になった。

「ああ。櫛笥、お前は手を出すなよ」

 隙のない男を前後に、逃げることなどできはしない。

「母さん、母さん」

 必死で少年は母に呼びかけるがその表情は険しい。

「その子は関係ない。こちらに渡すんだ」

 刀の男が冷たく言い放ち、空の手を前に差し出した。

「何言ってるの!この子は私の息子よ。誰が、誰がお前らなんかに!」

「その子は、君とは違う」

「うるさい!」

「……母さん」

「大丈夫よ。大丈夫……」

 少年は母親の腕に包み込まれ、胸の鼓動を聞いた。それは時計の秒針のように揺るぎのない音だった。

「さぁ……その子を渡しなさい」

 刀の男が一歩前へ出て促す。

「いやよ!絶対に渡すもんですか。絶対に……」

「いい加減にしろ。お前、今度はその子まで殺すきか」

 今度は背後の男が怒鳴る。母親は頑なに少年を抱く。

「違う違う違う違う……」

「違わないさ、君はその子の血や肉に魅了され、いずれ喰らう」

「ちがうちがうちがうちがう……!」

 母親の声はひどく悲しい響きで、泣いているかのように体が震えていた。

「母さん?」

「いい子ね。私のかわいい坊や。いい子ねいい子ね……」

 何度も己を呼ぶ少年に、母親は頭をなでる。優しく何度も。

「仕方がない、これも仕事だ」

 背後の男が近寄ってきた。

「許せよ」

 刀の男も同時に歩み寄る。

 母親は立ち上がり、自身等を壁際へ寄せる。

 少年は母親の背中に押しやられ、その腕の隙間から男が迫ってきているのを見つめた。

「いやよ、なんでなんで!」

「君は凛翔(りひと)を殺した。覚えているか?君の夫だ」

「私は……!」

「その子も同じように喰らうつもりなのか?そうでないのならその子をこちらに渡しなさい。その子はそちら側ではないのだよ」

 刀の男は母親の数メートル手前で足を止めた。もう一人の男もその一歩後ろで動きを止める。

「この子は私の息子よ、唯一私の大切な子……大切な……」

 母親の声が段々と悲鳴にも似た声色に変わっていき、次第にその変貌が変化し始めていった。皮膚が裂け、その下からは赤黒い別の皮膚が見える。

「おいっ変化が始まったぞ!」

「くそっ!」


 少年は知っていた。

 目の前にいるものが何なのか。


 目の前の化け物がゆっくりと少年を振り返った。

 紅い眼には白銀の髪をした少年が映っている。

 変貌した母親を見上げ、少年は希薄な表情を作った。


「いい子ね、私の、かわいい……悠――――――」



「おい弓削、聞いてるのか?」

 人気のない真夜中、櫛笥潤侍は高層ビルの一角で隣に佇む弓削千隼(ちはや)を少し荒げた声で呼んだ。玲瓏な男の姿はどこか陰りを混じらせて、夜の闇を寄せ付けている。

「ん、あぁ、何だって?」

 弓削は櫛笥の三度目の呼びかけでようやく気がついて、気だるそうに振り返った。

「ったく、せっかくこっちは気をきかせて来てやってるってのに、その態度はなんだ」

「悪い悪い、謝るよ。お前の“警察ごっこ”に現を抜かしてしまったんだ」

「警察ごっことは何だ?あいつらの後始末はかなり面倒なんだぞ。あの時は特にな。それも全部お前の影響だ」

 まったく話を聞いていない弓削に腹を立て、腕組みをする櫛笥は指をさして弓削に難癖付ける。

 そんな怒った櫛笥を慣れたように、弓削は笑って謝罪した。

 どこにでもいる仲のいい昔ながらの親友といったような雰囲気だ。

「それで?今回のクランケはどうだ?」

 顰蹙する櫛笥を横目に、弓削は彼が今回改めて自分のところへ来た目的のことについて問う。櫛笥も気を取り直し、弓削と肩を並べた。

「そんなに手こずることもないと思うが、今回は別の意味で厄介だ」

「別の意味?なんだ」

 櫛笥の意味深な答えに、弓削は眉をひそめた。

「新しくバイトを雇ったらしい」

 想像していたものより、楽観的な言葉に弓削は拍子抜けする。

「それのどこが厄介なんだ?人手が増えた方がやりやすいだろう」

「じゃぁこれならどうだ?そいつが一般人なら」

 弓削は“一般人”という櫛笥の言葉に、目を見開き驚いた。思ってもみなかった事態に体が強張る。

「能力者じゃないのか?」

「薄の報告ではそうらしい」

 櫛笥も訝しげに答えた。

「……」

 何かを考え込んでいるのか、弓削は黙り込み表情を曇らせる。

「それに、そろそろあの状態になる可能性がある」

「……」

「厄介だろ?」

「ああ、かなりな」

 黙っていた弓削は足元を見つめながら、独り言のように呟く。

「どうする」

 櫛笥も隣の美形がいつにもいなく考え込んでいる様子を窺う。

「結城はどうした、まだ完治しないのか?」

 弓削は何かを思い出したしたかのように、ふと顔を上げて櫛笥の顔を振り返り、一回り年下である青年の名前を口に出した。

「まだ少し時間が掛かるだろうな。何せ頚椎をやられた」

 険しい表情をしながら、弓削は頭をかく。

「おい、少しは落ち着け」

 櫛笥になだめられるが、弓削は足を速めたり、急に止まったりして不安定な動きを繰り返し始めた。目もあちこち泳いでいて、視点が定まらない。

「落ち着いている。だがあの子にこれ以上つらい思いはさせたくないんだ」

 と言いつつも、忙しなさは抜けない。手振りを大げさにして、櫛笥に今の気持ちを訴えた。

「気持ちはわかる。あいつの母親をやったのは半分俺だからな。だがな、今回お前は行くな」

 やや暗い表情を作った櫛笥だが、最後には真剣は眼差しを弓削に真正面から向けた。

 抜け目のないその瞳を弓削は疑うように見返す。

「なぜだ、なぜいけない」

 半分怒りを混じらせながら聞き返すが、櫛笥は顔を背ける。

 真っ向から受け止めるには、真剣で強すぎる弓削の訴えは、今の櫛笥にとってとてつもなく辛いことだった。

「その一般人だが、あいつがチェックなしで入れたらしい」

「どういうことだ?」

 櫛笥の言っていることの意味は、弓削にはわかっている。

 だがあまりにも漠然的なことに、それを完全に理解することを拒否していた。何しろ理解することこそ否定的なことだ。

「薄が言うには、その一般人にあいつが妙な思い入れをしているらしい」

 自分の考えもしないようなことを言われ、弓削は言葉につまって眉間にしわを寄せる。

「……思い入れ?」

 肩をすくめながら櫛笥も訳がわからないとでも言いたげに、うなずいて見せた。

「その一般人、何かあるのは確実だが……」

「何かってなんだ。はっきり言え」

 櫛笥のもったいぶるような言い方に、弓削は急かす。

「そこまではわからんが、あいつが能力もない普通の人間を、採用すること自体がおかしいだろ?」

「ああ、それは当り前だ。あの子がそんなことをするとは今でも信じがたい」

頷きながら弓削は、櫛笥の言った言葉にまだ疑う姿勢を見せる。

 雲ひとつない星のきれいな夜だったが、ビルの陰に隠れる二人の表情を、月明かりが照らし出すことはなかった。

「それでだ」

「まだ何かあるのか?」

 これ以上の面倒ごとは勘弁してくれと、櫛笥を睨み返し弓削はため息をついた。それをにやけた顔で返す櫛笥は、何か企んでいるような様子だ。いたずら事でも考えているのではないかと思わせるその表情は、四十を過ぎた男とは思えないほど子どもに見えた。

「ここからが本題なんだがな」

「早く言え」

 昔から何年も仕事を共にこなし、家族以上の付き合いをしてきた弓削には、櫛笥の行動パターンを把握するといったことなど容易だった。だが今の櫛笥は何を考えているのか、その弓削でさえ分からないほど状況が逡巡して膠着していた。

「悠があの状態に入れば、クランケどころじゃなくなる。つまり今回の仕事は、他のホームのやつらに仕事を回すわけだ。だがあいつはそれをしようとしない」

「もったいぶるな、なにが言いたい?」

 星のよく見える夜空を仰ぎ、櫛笥はビルの陰から逃れる。月明かりが満遍にその企みを含んだ表情を照らし出した。

「十年前のレクイエムさ」




「マラッド?」

 聞き覚えのない言葉に桜満は首を傾げた。

「そう普通の人は持ち合わせていない能力をもっている人間。それを僕たちの間ではマラッドと呼んでいるんだ。さっき優沙希が言っていたのを覚えてる?彼の能力はいいわゆるテレポート。瞬時に別の場所へ移動する能力だよ」

 桜満は自己紹介されたときに優沙希が言っていたこと思い出し、同時に屋上での戦闘が脳裏によみがえる。

 瞬きをする間に優沙希の姿形がぷつりと途絶え、次の瞬間にはまったく別の場所に移動していた。あれがその能力なのだろうと理解しながら、テレビアニメの女の子を優沙希に例える。

「見てみます?」

「いえっいいです」

 実際に目の前でやって見せようとする優沙希に、桜満はびくりと体を震わせて遠慮する。

 披露する場をなくして、残念そうに優沙希は座りなおした。

「凱は“声”穂波さんは“天眼”能力を持ってるよ」

「声に天眼?」

 単語だけ聞いてもどのような能力かまったく想像できない。

 テレポートだけでも桜満は腰を抜かしてしまいそうだというのに、それ以上の能力であったなら気絶してしまうのではないかと不安になった。

 それと同時に桜満は、ここに居合わせている自分以外の人間が、そんな驚くべき能力を持っていると思うと恐怖というより奇妙な感覚が生まれてきた。

 自分の知らない世界の人間と直接接しているのは、夢を見ているような感覚だ。

「簡単に言うと、凱は声で人を混乱させたり、操ったりすることができるんだ。穂波さんの天眼は、その手に触れるものを全て見透かして通り抜ける能力だよ」

 先ほどの優沙希が見せてみせようという申し出を桜満が断ったせいもあって、凱と穂波が能力を見せることはなかった。桜満も映画に出てくるような内容に言葉を無くし、唖然とするばかりだ。

「他にも炎を操ることのできる人や、動物の感情を理解できる人もいるよ」

 様々なマラッドと言われる人たちがいることに、桜満はさらに驚く。

「どう?分かったかな」

「……はい。大体は。えっと、悠さんの能力は何なんですか?」

 そう桜満が口にしたとたん、他のメンバーの気配が一変した。それに気づいて、聞いてはいけないことだったのかと桜満は戸惑うが、それをまったく気にしない風に悠は答える。

「僕は身体能力の全てが人より格段に上なんだ。視覚とか聴覚とかもそうだね」

 桜満は先ほどの戦闘を思い出し、あの人離れした動きを悠の能力だと理解した。

「僕たちの仕事は、クランケという人間が変異した異質体を処分することなんだ」

「クランケ……。さっき見たような化け物のことですか?」

「そう。クランケは人の肉と血を好んで欲望のままに喰らう生き物」

 喰らうという単語で、桜満は一瞬ぞくりと背筋を凍らせる。自分も喰われる側の人間になっているということを自覚しなければならない。

「最近の仕事だと……、この間男の死体が高校近くで発見された事件は知ってるよね?」

「えっあれってそうだったんですか?」

 高校の玄関前で、ホームの誰もが殺人事件に対して恐怖や関心すら見せなかったのを桜満は思い出した。当の本人たちが起こした事件、しかもクランケを処分するための仕事だったのだから、何も知らない桜満のように怯えることなどなかったというわけだ。

「辞めたきゃさっさと辞めるんだな」

 沈黙する桜満に全員が視線を向ける中、凱は婉曲せず心に秘めていた思いを素直に言った。誰でも化け物を相手にするような、生死を左右する戦いの仕事など、映画や物語を聞くだけで勝手に憧れたりはする。実際にそんな仕事をやりたいと言うものなどほとんどいない。それはマラッドと呼ばれる者たちでも同様だった。

「そういうわけにはいかないよ。凱も分かってるだろ」

 悠が言葉を遮ると、凱は拗ねたように態度を変える。

「どういうことですか?」

「クランケは一旦標的を決めると、そいつを喰らい尽くすまで狙い続けるんだ」

 警備員だと思っていたクランケに捕まり、その強烈な力に桜満はなす術もなく鋭利な牙で自分が食べられそうになっていたことがフラッシュバックする。悠の標的という言葉に頭の中が空っぽになった。

 あの時は悠や優沙希により、まったく傷を負うことなく助け出されたが、あと一歩遅ければその体はクランケの腹の中に納まってしまっていたことだろう。

 体の体温が一気に零度まで下がったような感覚に襲われ、桜満は息が止まる。

「ってことは……?」

「お兄さんを食べるまで諦めないってことじゃないですか?」

 聞きたくない答えが挨拶を交わすくらい簡単に、桜満の目の前にいる二重の可愛い優沙希の口から出た。

「う、そ――――――……」

 口から息が漏れ、桜満はそれ以上言葉を発することができなくなるくらい脱落する。

「ごめん。桜を巻き込むつもりはなかったんだ」

 下を向き陳謝する悠は寂しげで、ここにいる誰よりも孤独に包まれているような雰囲気を纏わせていた。そんな悠を桜満は、自分を危険な目にあわせた張本人であるはずなのに、責めることなど考えもしなかった。

「俺は、どうすればいいんですか?」

 桜満は途方にくれたように、悠へ助けを求める視線を向ける。それを決して裏切らないと、悠も桜満の迷う黒い瞳を見つめ返した。

「安心して。桜を絶対危険な目には会わせない。約束する。僕の命に代えてもね」

「……はい」

 桜満はただ返事をすることしかできなかった。その返事すら、何に対して言っているのか分からなくなるほどに、頭の中が真っ白になっていく。

「ここで暮らすのが嫌なら、家にもどって今まで通りに過ごしてもらってもかまわない」

 悠の言葉に暗い表情を作ったのは桜満だけではなかった。

「お兄さんは、ここは嫌ですか?」

 優沙希も同様暗い表情で、一層寂しそうな声で桜満に訊ねてきた。

「え?」

 しかしすぐさまその問いに答えたのは悠で、桜満に返答する隙を与えはしない。

「優沙希、桜を無理強いさせてはだめだよ」

「でもここにいれば一番安全だし、悠さんの負担も軽くなるし」

「僕はいいんだよ。これは桜が決めることなんだ。口出しは無用だよ」

 優沙希も珍しく、負けじと悠に食って掛ったが、それも強く拒まれた。

「わかりました」

 握る拳の力を抜き、優沙希は下を向く。前髪が顔を隠し、表情は窺い知れなかった。

 ホームの代表である悠の決定は誰も覆すことはできない。それを分かっているだけに、優沙希や他のメンバーも口を出すことはもう誰もできなかった。

「正直今回君がここまでクランケに狙われるとは考えもしなかったんだ。いつものように終わらせられると思ってた……。必要以上に巻き込んでしまって本当にごめん」

 悔しそうに拳を肘掛けに叩きつけたのは凱で、憤りを隠せないのは全員が同じだった。

「ここに留まって欲しいなんてお願いはしない。でも桜の身を守ることだけは僕にさせてほしい」

 桜満にとってメディカルホームで働く事以前の問題が発生しているのは本人にもわかっていた。

 けれどその問題をどう解決するかという思考そのものが働かない。

「……疲れただろうから、今日は朝までゆっくり休んで?」

 悠の優しい申し出に答えるのは、今の桜満にとってそれ以外の選択肢を見つけることができなかったからだ。何を言うでもなく、誰に聞くでもなく、その場に居合わせている誰にも目を向けることができず、桜満は席を立った。

「……すみません」



「俺、なにしてるんだろ……?」

 貸し出された自分の部屋のベッドに仰向けになって寝そべり、桜満は今自分の置かれている立場を改めて理解しようとした。

 クランケ。マラッド。今まで生きてきた中で一度は聞いたことのあるであろう言葉なのに、意味はまったく別で、世の中の裏側を知ってしまった今はもう後悔しても遅い。

 桜満はつい先日まで音大に通う、普通の暮らしをしてきた普通の人間だったのが走馬灯のように思い出される。

 たった半年足らずの音大生としての生活も、好きなピアノと共に過ごしてそれなりに充実していた。友達だって百人とまではいかないが、同じピアノ科や、他の指揮科などの生徒と一緒に出かけたりもした。何不自由なく過ごしていた日々が、夢のように思えてくる。

 それが今ではホラー映画の中に入り込んだような気分だった。信じられないと業を煮やしても、意味のないということが身にしみてきて、あきれ果てるほどだ。

 桜満はあれこれ考えるうちに、耳に残った優沙希の言葉を思い返す。

(嫌いかって聞かれも……でも皆いい人なんだよな、俺を命に代えても守るって……)

 ホームの全員が人と異なる能力を持っていること自体は、さして桜満にとって問題ではなかった。普段生活していく中で何ら問題ないことだと考え、むしろ能力があったほうが便利だろうと思うほどだ。

 しかし彼らを思えば能力があるからこそ、クランケと戦わなければならないという暗面と向き合っているのだから、そこが辛いというのが痛く染み渡る。

 桜満にとって一番問題なのは、そのクランケに喰われるかどうかだけだった。

 喰われると言う事は死を意味する。人間誰だって死にたくはないし、それが化け物に食されて命が尽きることなどもってのほかだ。

(残るのが、一番いいんだろうな……―――――)

 自分の生死が関わっていることだというのに、切羽詰った状態の体は疲れを見せ、瞼がだんだんと重くなっていく。意識は遠くなり、自分の息遣いのみが耳に届く。

 夜明けが近いのか、空には蝋燭の炎を思わせる赤が、水彩画のようにじわりと染み出ていた。




 桜満が目を覚ましたのは、日がだいぶ昇ってきてからだった。

 時計の短い秒針がすでに九を指している。窓からもれる明るい日差しに目を細め、朝のヒヤリとした空気が微かに残る部屋を、桜満はベッドの上から見渡した。

 桜満は自分がどこにいるかははっきりと分かったが、気分は一向に晴れないでいた。いつ寝てしまったのか定かではないが、思いっきり熟睡してしまったらしく、着ている衣服には乱れた様子がまるでなかった。

 桜満はしばらくして、部屋に備え付けてあるこれもまた豪華な洗面台で顔を洗い、ふと鏡に映る自分を見つめた。

未だに昨夜のことは夢だったのではないだろうかと、胸奥で願い思っていたことが、鏡の中の自分を見るなり現実に引き戻される。

首にくっきりと残る、締め付けられた異様な痕。黒っぽいその締め付けの痕は、クランケに捕らわれていた記憶を鮮明に思い出させた。

 桜満は自分の首にそっと触れてみるが、痛みはない。鏡の中の自分から目をそらす。

 重い足取りではあるが、桜満はラウンジに向かった。そこには穂波が一人テレビを見ているだけで、そのどこに安心したのか分からないが、桜満は軽く胸を撫で下ろす。

「おはようございます、悠さんは?」

 ラウンジを見渡すが、やはり穂波以外の姿は見当たらなかった。昨晩のこともあったので、悠には話をしなければならないと思っていたが、その悠の姿もない。

「おはよう。悠さんならまだ部屋で休んでるわ」

「そうですか」

 虚ろに息が漏れると、何をしたらいいのか分からなくなり、桜満はその場に立ち尽くす。

「急ぎ?」

 そんな桜満の漫ろな様子が気になったのか、穂波は伺うように聞いてきた。

「いえ」

 話さなければならないと桜満は思ってはいても、実際は何を話していいのか未だに整理できないでいた。昨晩は衝撃的な出来事の数々に頭の中はパンク状態で、十分な自分の納得のいく考えも出ないまま寝てしまっていたし、何を考えればいいのかさえ考えさせられているような状態だった。

「悠さんのことどう思う?」

 突然の穂波の言葉に、桜満は答えにつまった。

「え?」

「いい人だと思う?それとも悪い人?」

 穂波の質問は簡単なものなのだろうが、とても意味の深いことだと桜満は分かっていた。

 答えを出すのに戸惑うが、このまま無言でいることは桜満にはできなかったし、穂波もそうはさせなかっただろう。出会ってまだ一日と経っていないだろう人間のことを、どう思うかは人それぞれだが、今の桜満にとって穂波から出された質問の二択から選ぶ選択肢は、一つしかなかった。

「いい人だと思います」

 いたって真剣に、それでいて冷静に答えを出した桜満は、まっすぐに穂波を見返した。それを聞いた穂波の表情も真剣で、女性のどこか凄みを感じさせる。

「凱みたいなこと言うかもしれないけど、これだけは言っておくわ。私たちはクランケから関係ない人たちを助けるためにこの仕事をしているけど、本当は人間なんてどうだっていいって思ってる。感謝もされず、知らない人間のために命を張って助けようなんて、マラッドの中でもほんの一握りしかいない。だからあなたには悪いけど、私はあなたがどうなったって構わないと思ってるの」

「はい……」

 それは桜満も考えていたことだった。悠は命に代えても守ると言ってくれたが、その他のメンバーが同様とは限らない。桜満が逆の立場だったなら、恐らく穂波と同じことを思っていただろう。知らない人間のために命を張って戦って、何の為になるかと問われれば、桜満にそれを答えることはできない。

「でもね、悠さんは本気であなたのためなら何があっても命を投げ出して助けるわ。それが何故なのかはわからないけれど……。私たちは悠さんを信頼してる。心の底からね。だから、そんな私たちの信頼する悠さんを、裏切るようなことだけは絶対にしないで欲しいの」

 穂波の婉曲に言わないまっすぐな言葉は、恐らくホームのメンバー全員が考えていることなのだろうと、桜満は分かっていた。それだけに、穂波の言葉は桜満の心に重くのしかかる。

「悠さんが何で俺なんかのためにそこまでしてくれるのか分かりません」

 仕事とはいえ初めて会った桜満に、命に代えても守ると言い切っていた。そんなこと桜満には信じがたい話だったし、そこまでしてもらう理由さえ見つけることができない。

しかし桜満の脳裏に浮かぶのは、気絶してベッドに眠っている間ずっと握っていてくれた悠の手の感触だった。その悠のぬくもりが目覚めてからもずっと残っていて、それをまた欲している自分がいると言う事実。

「でも俺は、よくはわからないですけど、悠さんを信じます」

「それ本当か?」

 話を聞いていたのだろう、凱が真剣な面持ちでラウンジに顔を出した。

「皆さんが俺のことどう思っていても関係ないです。俺は最後まで悠さんを信じます。信じて、それで満足するだけじゃなくて、えーっと……俺のやるべきことを、やるだけです」

 頭の中に浮かんできたことを、そのまま一気にただ言ってしまった桜満だったが、自分の気持ちを口に出せただけでも、目の前の見えない線を一歩踏み出せた気分だった。

 そんな桜満の凛とした黒い瞳は、しっかりと前を見据え、迷いは消えいるように見えた。


誤字脱字があったらすみません。

見つけ次第なおします。気づかないことが多いので指摘したくださると助かります。


話の中で矛盾してるところがありますが、のちのちストーリーの中で解決していくと思います!

この辺りの話はなんかめちゃくちゃですみません。

読んでいただきありがとうございました。

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