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第一幕への前奏曲

 薄暗く小雨の降る夕刻に、赤く回るライトが冷たくなったそれを照らし出した。

 冷たいそれは微動だにせず、周りに野次馬と化した観客を呼び寄せて黒のビニールに包まれていく。

「今回もまた派手にやったものだ」

 醜い異物の様にも見えるその死体を、横目で追いながらつぶやく初老の男、櫛笥潤侍(くしげじゅんじ)は騒ぐ観客の群れを一瞥する。

 群衆の蠢く路地は日中でも日の差さない湿った場所で、普段は人通りが全くない。

 しかし規制線が張られ、白黒の警察車両が多く止まる現在は人集で波をつくっていた。

 雨もさることながら、その見苦しい状態に櫛笥は嫌気がさしていた。

 夏も終わりに近いこの季節、人の群れほど暑いものはない。

「警部、どうやらあまり証拠となるようなものは見つからないようです」

 現場検視にあたっていた刑事の一人が、櫛笥を警部と呼んで走り寄ってきた。

(あってたまるかよ)

 年若い刑事から資料を手渡されるが、櫛笥は目を通す素振りをするだけで気だるい面貌をみせる。

 マスコミも騒ぐであろう今後は、関わる誰もがそう感じさせられるだろう。殺人事件ほど世間を湧かせる事件はない。しかもそれが奇妙であれば奇妙であるほど。

 騒ぎの元凶であるのは男の死体で、誰が見ても普通ではない有様だった。

 普通ではないというより、とても不気味で残酷な人の形をした代物だったかもしれない。

 胸部から腹部まで直線で深い傷の線に結ばれて、線は肉を深く抉りながら、中に埋まる骨までも白く浮きあがらせていた。

 大量の流血は明らかで、現場に零れた血の溜りを赤い海のように見せた。

 ほとんどは時間の経過に基づき乾いて黒い固まりになってしまっていたが、まだ液体として残っているものは、どろりと鉄臭い異臭を放っている。

 死体を見もしない観衆たちはその状態をどのように想像しただろう。

 運悪く通りかかってしまった者は、それを発見してしまったことに後悔する。

 それは事件を目の当たりにする警察さえも、目を背けて漂う異臭に足が止まる。

「まぁ、気楽にな」

 現場の異様な空気に酔う刑事に検視資料を返し、櫛笥はその顔色を伺った。

 まだ死人を前にするには日が浅いのだろう。森で梟に狙われ怯えるネズミのように身を堅くしているのがわかる。

 普通とは言えない死に方をした人間を前にするのは、経験のある刑事でもそう多くないことであり、それは他の者も同様だった。呼び出された関係者は、全員異物と化したものには視線を向けることすらできずにいる。

「気楽にって、そうもいきませんよ。“あれ”どういうことなのでしょうね」

 年若い刑事が目をそらしたまま、黒いビニールに包まれて運ばれていく異物に指をさす。

「胸から腹まで一刀両断、一般に出回っている刃物の切断面とはわけが違うな」

 櫛笥にはわざと恐怖をあおるかの様な言い方をしてその反応を見ている。

 見えない恐怖に逡巡する刑事は頬にあたる滴にひやりとさせられ、微量ながらも雨が降っていたことを思い出す。

「仕事が増えるわけですね」

 警察の仕事。

 即ち犯人逮捕の特別捜査本部が置かれるだろう以外にも、現場周辺の集中パトロールや、近隣の公共施設への警備。殺人事件となれば、犯人が捕まるまでは市民同様気の抜けない日が続くだろう。

「こんな異常な事件はうんざりですよ。休暇明けだって言うのに」

 検視官が作業しているのを見やり、刑事はため息をつく。

 しかしあの死体を嫌でも思い出してしまう今は、誰もが安堵することはできなかった。

 死体の男は表情が苦痛に歪み、悶えたであろう様子は想像できない。

 そんな誰もが考える恐怖や嫌悪感などといったことを気にもしない櫛笥は、緊張感のかけらもなくあくびをしてしまうほどに退屈していた。

 暑さ対策と世間では多様な方法が用いられているが、櫛笥もその方法の一つであるネクタイをしないスーツ姿で白いYシャツを片手で扇ぐ。

 背中には汗でシャツが張り付き、空気が通るのを邪魔する。薄手の夏用スーツであっても、暑いものはあついのだ。

 櫛笥は視線を現場より遠ざけながら、その先にはまだやまない観衆の奥に立つ廃ビルの屋上を黙視する。

 屋上はそこだけが浮き彫りになったかのように、雨の視界を避けて嫋々と振舞っていた。

 それは更に櫛笥の機嫌をかんばしくない状態にさせる原因となり、苛立ったかのように舌打ちをする。

(あいつらあんなところで見物しているのか)

 屋上には凡そ人間の目では確認できないほどの人陰が数人分。フェンス越しに事件現場を見据えて検分しているようだった。

 人陰は三人で、そのうち一人が櫛笥と目線を結ぶ。

 距離は直線で数百メートル。離れている現場と屋上とでは、そのようなことは誰もが知っていて、誰もが認識していることではあるが、一般的な、もしくは普通の人間には到底無理なことである。だが櫛笥と屋上の一人はそれをしていた。

「いい加減こんなやり方はやめてくれないか?」

 唐突に言う櫛笥に、子声ではあるがそれをはっきりと聞き取った年若い刑事は振り返る。

「なんですか?」

 独り言にはいささかおかしいその言葉に聞き返す刑事だが、一方の櫛笥は目線を屋上から逸らし、差していた傘で黒い壁を作った。

「いや、なんでない」





「やっぱり、潤侍さん怒っているみたいだ」

 雪のような白銀の髪が印象的な青年が、廃ビルの屋上で一声漏らした。

 屋上は涼しい風が通り抜け、青年の雪と同じ白銀を揺らす。

「あのやり方だから、あの人が怒るのは当然ですね」

 青年同様、屋上の一人である二十代前半であろう鋼色の髪を肩まで伸ばした女性が大きく息を吐いた。風でうねる癖毛を抑え、不気味で残酷な死体が発見された現場を目送する。

「これも全部あんたのせいよ、(がい)

 そう言って癖毛の女性は屋上のもう一人へ冷やかに言い放つ。

 白銀の青年が立つすぐ横でフェンスに背中をもたれさせていた、燃えるような赤い髪の男がそれに反応して眉を片方吊り上げる仕草をする。

 黒いスーツ姿で、白銀の青年と並んでいる様は、おめでたい紅白のお祝いを連想させる。

「俺かよ!?けど仕方ねぇだろあの場合」

 弁明を求めるかのように赤毛の男は二人に向き直り、現場をあごで指す。

「また言い訳する気なの?」

「仕方ないだろ不本意だ、俺だって命張ってんの!」

 緊迫感もなく、赤毛の男は両手をお手上げ状態にして肩をすくめてみせた。

「命ねぇ、張ってるのはほとんど(はるか)さんでしょ」

 癖毛の女性は白銀の青年を指差し、赤毛の男をねめつけた。

「その言いぐさ、まるで俺が何もしてないみてぇじゃねぇか」

 腕組みをし、今度は赤毛が癖毛をねめつける。

 呆れたように、癖毛の女性はため息をついて顔を背けた。

 赤毛の男は気に食わぬ思いに口を開きかけたが、ようやく白銀の青年の言葉によりそれを阻まれた。

「今回は何かすっきりしないんだ」

「すっきりって、今回のクランケか?」

 頷く青年を横目に、ガシャリとフェンスを両手でつかんで赤毛の男は目を細くしながら現場を凝視する。

「俺にはまったくいつも通りの様に感じたけどな」

「悠さんは何か引っかかるようなことでも?」

「いや、特にそういったことはないのだけど」

 そう否定の意を記す青年だが、表情は暗い。

「なんだなんだ、由々しいことでもあるのかね、悠君?」

 悪ふざけをするかのように、赤毛の男は白銀の青年の肩に腕を回して、顔を近づけながら頬に己の唇が触れてしまうくらい接近する。

 吐息がかかるほどまで近づく男を嫌悪するでもなく、青年は軽く相手の胸を押して距離を取った。

「あったら困るだろ」

「まぁな、今回は結構面倒だったし、もうあんなのはごめんだね」

 慣れた様子で赤毛の男は青年から離れ、全身で風と雨を浴びる。

 さして風も強くもないが、雲の動きは早く、雨はすでに止みそうだった。

「今回は厄介な相手だったし、後でクランケの状態に何か変化がないか、櫛笥さんに聞いておくわ」

 癖毛の女性は年季の入った黒革の手帳に走り書きをする。

「ありがとう」

「いえ、私の仕事ですから気になさらないで下さい」

「そうそう仕事なんだから気にしないの」

 再度男は青年の肩に手を置き、顔を近づけてにやりと笑う。癖毛の女性は頬を膨らませ、男の態度に難癖を付けながら睥睨した。青年も今度は拒否しなかった。

「それより凱、お願いがあるんだ」

 首をかしげるような仕草で赤毛の男を上目遣いで青年は見つめる。

「はいはい、何なりと?」

 嬉しそうに笑みを作りながら赤毛の男は向き直って、胸の前に右手を置き、まるで僕のように挨拶の会釈をするのだった。




 気がつくと雨は止み、黒い雲の隙間から淡い夏の夕日がのぞく。

 事件現場を取り囲む観衆は先程とは入れ替わり、また新たな観衆が沸く。

 このところ殺人事件がニュースや新聞で耳にすることが多くなりつつある。

 実際事件そのものを客視することはごく限られたものにしかできないが、今回の事件に対してもその限られたものになるために、現場の客となり、人々は少しでもよく視ようと前へ出る。死体はすでに運ばれて現場にはいないのに、それを見ようとする。それを見れば恐怖しないではいられないのに、見なければ満足しない。人間の欲求は果てしなく、人はその果てしない欲求を満足させるために何かで満たそうとする。それは人それぞれで違っている。

「いいかげん、嫌になるよ」

 雨のやんだ空を仰ぎ、櫛笥は黒い壁を壊し再び人陰のある屋上へと視線を向ける。

 その言葉に答えたのは、屋上の人陰と隣に佇む刑事だった。

「えぇそうですね、聞き込みの方も進まないみたいですし、本当嫌になります」

 櫛笥の耳に入ってくるのは刑事の声だけで、答えたもう一つの声は聞こえない。

 夕日が刻一刻と西のビルに沈んでいくが、現場は空と対峙していた。

「警部どうします、そろそろ戻りますか?」

 あまり長話をしない櫛笥に、刑事は気分でも悪いのかと勘ぐり署に戻るか伺う。

 先ほどからそうであったが、刑事が話題をふるたびに会話が成立せず、櫛笥との対話にいささか着心地の悪さを感じていた。上司と部下という関係が、まだ一日とたっていない現状では、時間という解決法が融資されることはまだなかった。

「――――――あ?ああ、そうだな……」

「はい、じゃぁ車持ってきます」

 少々小走りで路肩に停めておいた車を取りに行く刑事。それを見送るでもなく、櫛笥は広くなった視界の先にある屋上から視線をはずさない。

 しかしすでにそこには着視していた人陰は見当たりはしなかった。

 夕日が沈んでいけば、人工的な明かりの届かない屋上には闇しかない。誰もが素の場所を知ることはなく、ほとんどの光がビルの向こう側へと消えてしまう今も、誰もが着目していなかった。

「今度はこっちか」

 下を向き、櫛笥は苦い顔をする。

『そんな言い方しないでくださいよ』

 いきなり声が響く。それは観衆の中からだ。

 しかしその声は“音”と認識した方がいいだろう。

 その音は櫛笥のみの耳に入って、理解されていた。

「その声で話すな、混乱する」

 櫛笥のみに理解される音に、普段と変わらない空気を振動させて出す声で返す。

『すみません、こうでもしないと話せないもんで―-――――――』

 表情を歪ませる櫛笥を見ると、面白そうにくすくすと音は笑う。

 それを察した櫛笥の方は苛立つように舌を打った。

「何か用か」

 眉間にしわをよせ観衆の中に目を通す。

 規制線の向こう側にやけに目立つ、燃えるような赤い髪をもった男が顔に笑みを含め、現場の観客となっていた。

 普段なら誰でも振り返り、目に入れてしまうほど鮮やかな赤い髪の男を、今は誰も興味を持っていない。

『ちょっとお手伝いを?』

 観客である赤毛の男は片目をつぶる仕草をして、櫛笥に会釈した。

 そんなふざけた仕草になどまったく反応せず、櫛笥は男の言葉に耳を傾ける。その言葉は櫛笥の興味を引く単語が含まれており、今最も求めていたものだったからだ。

「悠に頼まれたのか、ならさっさとやれ」

 現場に居合わせている誰もが二人の会話には気づかない。

 気づけない。

 気づこうとしない。

 人間は己の興味のあるものにしか、意識を向けない。それは固定され、どんな意味でも翻されない。

『じゃぁ早速、耳ふさいでてくださいよ』

 指示された櫛笥は両手で耳を覆う。聞こえるのは自分の血液の流れる音。

 耳をふさぐのを確かめた赤毛の男は一呼吸おき、群衆の真ん中で静かに口を開いた。


『皆、そろそろ家に帰ろうか?』


 ぐらり――――――・・・


 空気が揺れた。

 人が揺れる。

 ヒトがヒトを観る。

 赤毛の男はニヤリと笑う。

 事件現場に存在するすべての人間が、同じ行動をとる。

 意識は現場より離れ、皆いっせいに回れ右をする。観衆も、警察も。誰もが現場より立ち退いていく。

 そして同時に赤毛の男もその場から姿を消した。



「今回も派手にやったものだな」

 黒いスーツ姿の年齢不詳の男がガードレールに腰掛けて、櫛笥に笑いかける。

「昔のお前に似ているよ」

 ズボンのポケットに両手を突っ込んで、櫛笥も男と同じ笑みを皮肉を交えながら返す。

「それは嬉しいことなのかな」

 本当は櫛笥の言ったことが嬉しいくせに、男はそれを隠すような素振りをするが、まったく持って無意味な行動だった。男の顔は嬉しさのあまり綻んでいる。

「今のうちに喜んでおけ、お前のその能天気なところを嫌われる前にな」

 呆れた様子で櫛笥は嫌味を言う。

「それは、ご忠告どうも」

「ちょっと、ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ!」

 男がガードレールから立ち上がるのと、警察の覆面車が徐行してきたのは同時だった。

 運転席から顔を出して注意する年若い刑事は、車を櫛笥の前に止めて運転席から走り出る。

「困りますよ。一般の方は規制線の中には入らないで下さい」

 刑事は櫛笥へ睨むような視線を向けて線の外側へと促した。

「はいはい、スミマセン」

「本当困りますから……?」

 しかし刑事もすぐに現場の異様さに気がついた。

 そこには自分と規制線の中に入り込んだ初老の男以外誰もいないのだ。同僚の姿も、野次馬も、マスコミも。全て人間が消え失せていた。

弓削(ゆげ)のやつ逃げたな」

 櫛笥は年若い刑事に追い出されて、ぼやきながらその場を離れた。

 その後ろ姿を見ていた刑事はびくりと体を震わせて、その場に立ち尽くす。

「ああ、そうだ」

 いきなり何かを思い出したように目を見開いて呟き始める。

「帰らないと」


 どこへ?

 家に――――――――――――。


 そう繰り返される音を聞く。

 あたりは寂然とした路地裏で、血生臭い空気だけがそこには残った。

主人公は次から登場です。

アクションは苦手ですががんばります。

近日中に続きをアップします。

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