第2話 慕わしい人の名は
別れは突然やってきた。
特に事件とかもなく、田舎で平穏に暮らし、ゲームのことも忘れかけていたある日、お偉いさん達がこの村に来た。皆、何事かと大騒ぎになった。どうやら、詳しい話は分からないけどゾルガー家に用事があったらしい。あらぬ噂も飛び交ったりと、普段は刺激に乏しいだけに村中その噂でもちきりだ。
私は妙な胸騒ぎを覚えた。何か、嫌な予感がする。でもそれが何かは分からない。とにかく不安だった。
そしてその不安は的中した。
「レーネに大事な話がある」
私はいつになく真剣な表情をしたウーヴェに呼び出された。
「何?」
「実は、魔法都市にある魔法学園に通うことになった。どうやら僕には珍しい魔力があるらしくて、奨学金を貰う代わりに強制的に行くことになってしまった。入学したら寮で暮らすから、しばらくこの村には戻ってこれない。」
ついにきたか、と思った。そうだ、ここは乙女ゲームの世界。分かってたじゃない、彼は登場人物で、ゲームの始まりとともに村を出て行ってしまうと。分かっていたのに、分かっていなかった。心がざわつく。本当に、彼は行ってしまうんだ。そして、おそらくもう二度と戻ってこない。だって彼は、向こうでヒロインと出会って、彼女と結ばれるかどうかはわからないけど、とにかく偉大な魔法使いになる。原作関係なしに考えても、彼のような天才を国が放っておくはずはない。彼は、私と違ってこんな田舎で一生を終えていい人間じゃない。
ついに、お別れの日が来てしまった。
「そう。それで、出発はいつなの?」
私は冷静を装った。ここで泣いたりなんかしたら、彼が行きづらくなってしまう。
「まだ準備とかあるからすぐには行かないけど、だいたい一ヶ月後くらいかな」
「そう。元気でね、さようなら」
私はそれだけ言うと立ち去ろうとした。一人になりたかった。こんなに辛い現実を受け止められない。
「待って、まだ話は終わってない」
「話すことなんてないわ」
「レーネ、僕は魔法都市に行って必ず立派な魔法使いになって帰ってくるから、それまでこの村で待っていて」
彼が意味していることは、まあ、結婚だろう。しかし、ヒロインのことが頭をよぎる。いや、ヒロインに限らず都市部に行けば、私なんかが叶わない美女はたくさんいるだろう。それに、彼は顔がいいので選り取り見取りなはずだ。
「冗談じゃないわ。帰ってくるかどうかも分からない人を待ち続けるなんて絶対無理よ」
「信じてほしい。絶対に帰ってきて、君を幸せにすると誓う」
「そんなの言葉だけよ。向こうに行ったら私のことなんて忘れるくせに」
「絶対に忘れない。」
「いいえ、忘れるわ。あなたが出発したら、もう私たちは他人同士よ」
「ひどい。レーネの方こそ僕が行ってしまったら僕のことなんて忘れて別の男と結婚するんじゃないの?」
「ええ、そうよ」
そんなの当たり前じゃない。私は、書類も何もないただの口約束だけで貴重な若い時を浪費するつもりはなかった。まだ決まってないけど、いずれ私も村の男の人と結婚する時が遠からず来るだろう。そしてそれは、ウーヴェではない。私は、少し胸が痛むのを感じた。
「まさか本気?」
彼はかなり驚いている。
「ええ。別に私が誰と結婚したってあなたには関係ないでしょう」
「関係ある」
彼は怒ったような低い声で言った。でも、私も引けない。
「もう私のことは放っておいて。あなたが帰ってこないことくらい、私は分かってるわ。だってあなたは向こうで恋をするから」
私は胸が張り裂けそうになるのを感じた。
「レーネ、愛してる。君のことで頭がいっぱいで他の人を見る余裕なんてないよ」
私は目を見開いた。なんとなく彼から好意を向けられているのは分かっていたが、こうしてはっきりと聞いたのは初めてだ。私の胸が喜びで満たされていく。でも、感情に流されてはいけない。彼の、ただの一時の気の迷いかもしれない。それに、彼の想いを受け止めてしまえば、彼が行った後に辛くなる。だから、耐えないと。いや、もう耐えられない。
「嘘よ! もう私、帰るわ!」
今度こそ立ち去ろうとしたが、彼は私の手を掴んで強引に引き止めた。
そして、そのまま私を引き寄せると唇にキスをした。私は驚いて逃げ出そうとするも、彼の手が私の頭をがっちりホールドしていて逃げられない。数秒が永遠に感じられた。ようやく解放された時には、息が上がっていた。
「し、信じられない」
私はひとことそう言い残すと、脱兎の如く走り去った。
---
あれから私はウーヴェを避け続けた。彼が出没しそうなところには極力近付かないようにし、彼の姿を見かけたら真っ先に逃げ出した。
寝ても覚めても考えるのは彼のことばかり。彼のことを忘れるために避けているのに、かえって彼のことを意識してしまう。彼の姿を少し垣間見ただけで心臓が跳ね上がる。その度に彼から離れたりと、彼を避け続けているうちにも別れの時は刻々と近づいていった。
ある夜、私はなかなか寝付けずにいた。頭に浮かぶのは彼のこと。このまま、何もせず、沈黙を守ったまま彼は行ってしまうのだろうか。おそらく、彼がこの村を出て行ってしまったら、もう二度と帰ってこない。ゲームでは確か長期休暇の間もイベントがあった。つまり、もう二度と彼に会えなくなる。私は頰に涙が伝うのを感じた。分かっていたはずなのに、一度出てきた涙は止まることを知らない。どうして、こんなに辛くて苦しいんだろう。心が悲鳴をあげている。心が、彼と離れたくないと叫んでいる。
もう、認めないわけにはいかなかった。私、マグダレーネは、ウーヴェに恋をしている。それも昨日今日始まったばかりの恋ではない。もっとずっと昔から狂おしいほど彼のことを愛していた。
そうよ、私はウーヴェが好き。今まではどうせ彼は行ってしまうからと、自分の心に蓋をしようとした。でも、もう溢れ出る想いを止めることはできない。
どうか、満開に咲き誇った愛の花が枯れないうちに、彼にこの想いを伝えないと。確かに、彼は行ってしまうかもしれない。でも、だからこそ、最後に彼にこの想いを伝えたかった。
私は居ても立っても居られず、ガバッとベッドから起き上がると、自分の身を隠せるマントとフードを被った。かなり夜も更けていたが、明日では遅すぎる。どうせ寝られないならと、私は彼への迷惑も考えずに自分の家を飛び出して彼の家に向かった。
その時私は、夜中に男性の家に行くことの意味を深く考えてはいなかった。
窓の向こうからそっと彼の部屋の中の様子を伺ってみる。もし彼が寝ていたら出直そうと思っていたが、彼は起きてなにやら作業をしていた。私はコツコツと控えめに窓を叩いた。彼はすぐに気付き、私の姿を見ると驚いて窓を開けてくれた。私は窓から彼の部屋に入った。
「こんな夜中にどうしたの」
「ごめんなさい。でも、どうしてもあなたに伝えたいことがあって」
「分かった。とりあえず、何か飲む?」
「コーヒーを飲みたいわ」
「分かった」
彼は頷くと部屋から出て行った。私は彼のベッドの上に座って待った。
彼の、いい匂いがする。
ドアが開いて質素なマグカップを持った彼が戻ってきた。
彼からコーヒーが入ったマグカップを受け取る。
「…ありがとう」
私は緊張を紛らわすようにコーヒーに口をつけた。彼が私の隣に腰を下ろす。しばらく沈黙が流れたのち、私は覚悟を決めて語った。
「ウーヴェ、私はあなたが行ってしまう前に、どうしてもあなたに伝えないといけないことがあるの。多分、今言わないと一生後悔する。」
彼の美しい緑の目を見つめながら言葉を紡ぐ。子供の頃から彼は綺麗だったけど、最近さらに大人っぽくなって色気が増したような気がする。彼は、どんどんかっこよくなっている。
「私、マグダレーネ・フレーゲは、ウーヴェ・ゾルガーをお慕いしています」
心臓がばくばくと鼓動を打っているのを感じる。でも、言った。言ってしまった。これで後悔することもないだろう。
私の告白を聞いた彼は目を見開いた。そして、彼の瞳には確かに情熱の炎が揺らめいていた。
「僕もマグダレーネを愛してる」
彼の言葉を聞いた途端、私はかつてないほどの幸福に包まれた。
「いつから?」
「子供の時からずっと。多分きっかけは、昔レオンにいじめられた時に君が庇ってくれたから。それからずっと、ずっとレーネだけを見てきた。君が他の男と話してる時は嫉妬で気が狂いそうだったよ。」
そんなの、初めて聞いた。ウーヴェがまさかそんな昔から私のことを好きだなんて思っていなかった。
「そうだったのね。私は、特にきっかけとかはなかったけど、でも、ずっとウーヴェのことが好きだったよ」
「好きだった?」
「ううん、今もずっと好き。愛してる」
私は彼に向かって微笑んだ。気がつくと彼に抱きしめられ、唇を奪われていた。今度は抵抗もせずに受け入れる。彼は何度も啄ばむようにキスをした。
ちょっと長過ぎないか。最初は触れ合うだけのキスだったのに、だんだんとディープになってきた。
「んん!」
私は流石に異変を察して抗議の声をあげようとしたが、彼は気にもとめず、むしろ更に深く口付けられた。私は抵抗しようと彼の体を押しのけようとしたが、逆に両手を頭の上で縫い付けられてしまった。
「レーネ、大人しくして」
「だめ、そういうことはしちゃいけないと思う」
「どうして?」
「だって、ちゃんとしてからじゃないと…」
「うん、そうだね。でも、先に誘ってきたのはレーネじゃん」
「違う、私、誘ってなんかないわ。そんなつもりじゃなかったの。」
「じゃあ、レーネはこんな夜中に男の部屋に来て無事に帰れるとでも思ってたの?」
「うん」
男女の営みについては知っていた。もちろん実践したことなどはなかったが。そもそもゲームで散々見てきた。しかし、それはゲームの中だからこそ許される行為であり、実際に未婚のままやったら大変なことになる。特に田舎では。だから、別に彼と行為をするために来たわけじゃないし、多少のスキンシップは良くても行為そのものは結婚するまで断るつもりだった。
「君は男について何も知らない。こんなに美味しそうな食事を前にして何も手を出さずにいられるわけがない。」
私はぶるりと震えた。なぜか彼の目が獲物を狙う肉食獣のように見え、瞬時に食べられる、と思ったから。でも、彼に食べられるなら後悔はない。
「前から思ってたけど、レーネは警戒心が無さすぎる。まさか他の男のところにも行ってるの?」
「行ってないわ、ウーヴェだけよ」
私は少しムっとしながら反駁した。彼にそんな風に思われるなんて、心外だ。
「よかった。もしイエスと答えてたら、
レーネがどこにも行かないように足を鎖で繋いでどこかに監禁するところだった」
私は流石に背筋が凍った。まって、彼ってこんなキャラだったっけ。ゲームには彼がヤンデレ化するルートなんてなかったし、こんな風にヤンデレっぽい発言をすることすらなかった、健全な方のキャラだった。
「それは困るわ」
「だったら、絶対に他の男のところに行かないで。あと、二人きりで男と話すのも避けてほしい。」
「…わかったわ」
まさか彼がこんなに執着してくるとは思わなかった。
彼が私の髪の毛を一房とって弄ぶ。
「レーネは僕のもの」
「ええ、私はウーヴェのものよ。」
私の言葉に彼は嬉しそうに微笑み、私の体を抱きしめた。
若くてまだ何も知らなかった私たちは、自分たちがしていることが後にどんな結果を生み、周囲にどんな影響を及ぼすかなど考えていなかった。ただ、恋に溺れていた。だから、婚前で責任も取れないうちに性交渉してしまった。
---
真っ暗な世界の中で私は目を覚ました。隣を見るとウーヴェはまだ寝ていた。寝顔すらも美しい。私は彼を起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、服を来て帰る準備を始めた。マントとフードを被り、昨日の情事の名残が残るその部屋を出ようと窓を開こうとしたが、鍵がかかっていたのか開かない。
「レーネ、何してるの」
背後からウーヴェの声がして私はギクっとした。
「私、もう帰るわ。」
「まって」
急に背後から彼に抱きつかれる。
「レーネ、どこにも行かないで」
「行くのはあなたじゃない」
「そうだけど、なんだかレーネが遠くに行ってしまってもう二度と会えない気がするんだ。」
「ここに帰ってくればいつでも会えるわ」
この時、私は結果的に嘘を吐いた。だって、このあと私も村を出て彼が帰ってくる頃にはもうすでにいなかったから。
「それもそうだね。」
私はウーヴェの腕から逃れると彼に別れの言葉を告げた。
「ウーヴェ、さようなら。あなたと出会えて私は幸せだったわ。」
彼の額にキスをする。
「あなたを愛してます」
私は目から零れ落ちそうになる涙をなんとか引っ込めて、彼の唇にそっと自分の唇を重ね合わせた。驚き固まってるウーヴェをそのままにして、私は今度こそ窓から脱出した。
もう空は白み始めていた。
---
あれからすぐに彼は旅立って行った。彼は準備に忙しくてあまり話す時間はなかった。というか、あれから二人きりで会うこともなかった。
次に彼と再会したのは、3年もあとのことだった。