幼:四
日も高くなり、平助は暑さで汗だくだ。あらかじめ作ってきた握り飯を食べるため、近くの土手に腰を下ろす。
夏の日射しは川面を輝かせ、細かく光るのを見ているうちに眠くなってきた。
(そういや、寝てなかったもんなあ……)
平助は、荷物を枕にして眠ってしまった。
目を覚ました時には空が茜色に染まっていた。一人で土手で寝るなんて新鮮だと感慨深くなりながら、行く宛の無い道を歩こうと体を起こす。起こしてすぐ、目の前にしゃがんでいる青年に驚き後退りした。
端正な顔立ちをした青年はにこにこと平助を見ている。
「ひどいなあ。そんなに私の顔はおかしかったかい?いつ起きるかと思って見てただけなのに」
「………」
「でもまあ、暗くなる前に起きてくれて良かった。可愛い寝顔を見させて頂いたよ」
「はあ……そういえば、この辺に剣術の道場はありますか?」
「道場か、通いたいのかい?私のよく知る所があるから連れて行ってあげよう。暗くなるし、危ないからね」
「本当ですか、 ありがとうございます!」
警戒心が解けたのか、一気に明るくなった平助の顔を見て青年はふっと笑い、平助を連れて歩き出した。
昼に比べて幾分湿気の取れた夕方の風が二人の髪を撫でていく。
「私は伊東大蔵という。お前は?」
「……平助……」
名字を名乗るのに抵抗を感じ、未だに気にしている自分に苛立ち顔をしかめる。
「平助か。平らに助けると書くのかな? ありふれているが、呼びやすく良い意味の名だ。愛情込めて付けた名なのだろうね」
「そうならいいんですが」
と平助は苦笑した。
「聞いてはいけないことだったかな」
伊東は落ち着いた表情で問う。
「いいえ、気になさらないで下さい」
家の事を笑って話すのにはまだ時がいる。
渋い顔の平助を見て思うところはあったが、伊東は話題を変えようとした。
「そりゃそうと、その荷物は、家出かな?」
「まあ、家出です。でも、行く所も無いので道場に入り浸る事を考えていました」
「ははは成る程、だから道場か。そりゃまた、何故に家出を?」
それを言うには、今までの経緯を全て話さないとわからないかもしれない。平助は「また後で話します」とだけ言った。
「平助には秘密が多いようだね。そんなんじゃ誰かと親密になるのは難しいぞ?」
いいんです。と小さく笑った平助に伊東はやはり違和感を覚えたが、深入りはしまいと遠くを見た。そして周りの風景を見て言う。
「向こうの建物が見えるかい? あそこだよ」
威勢のいい掛け声が門外まで聞こえてくる。それに鳥肌が立ち、平助は荷物を抱きしめた。
「驚いたのかい? 最初は皆そうさ。……逃げるなよ?」
「逃げませんっ!」
門前で立ち止まっていたことをからかわれて顔を真っ赤にし、ずんずんと伊東の後をついて行く。
玄関に入ってすぐ、向こうから歩いてくる人がいた。
「おや、伊東さん。お帰りなさい」
耳の奥に残る聞き慣れた声に、平助は顔を上げて目を見開く。
「長さん……?」
平助の目に映ったのは、あの優しい顔立ちの長介そっくりの男だった。月代は無く総髪だが、何より声が同じだ。
「おっ、どうした……」
その人は平助に顔を合わせるようにして屈み、いつの間にか流れていた涙を拭ってやる。
平助は声も出せず、その優しい手つきに甘えた。
そんな二人を見て、伊東は驚く。
「……何だい二人とも。知り合いだったのかい?」
「いえ、私は何も……伊東さん、この子は?」
「も、申し訳ありません! 亡くした恩人にそっくりで……」
「ははは、その恩人とやらと余程似ているようですね、山南さん」
山南と呼ばれたその人は、困ったような顔をして微笑んだ。
平助も困った顔で見上げる。
「さんなん?」
「そうだよ、平助。この人はこの道場に出入りしているんだ」
「平助ってのかい? 私は山南敬助。残念ながら長さんではないけど、気軽に話しかけてくれて構わないよ」
優しい笑顔は長介そのもの。懐かしさの中に切なさを感じた。
「さあ平助、道場を見せてやろう」
伊東は平助を促し、道場の方へと進んで行った。道場の入り口に立つと、先ほど以上の気迫に圧倒される。
「どうだい、平助?」
「…速いし、勢いあるし、かっこいい……」
「お前も、こんな風になりたいかい?」
「はい!」
「ははは、良い返事だ」
平助の頭を一撫ですると、「稽古、やめ!」と声を響かせた。端正な顔立ちからは想像できない声に平助は驚き、伊東に声をかける。
「えっ……伊東さん、まさか道場主ですか?」
「そうさ。黙っていて悪かったね」
さっきまでの温和な声に戻り、集まってきた者らに平助を紹介する。
「今日から入る平助だ。いろいろ事情はあるようだが、よろしく頼む」
「よろしくお願いします……」
さっきの良い返事はどこへやら。伊東の正体と自分が突然入門することになったことに驚いてしまった。
「声が小さいぞ平助!」
「はい!よろしくお願いします!」