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平助  作者: とむ
2/19

幼:一

「ははうえ!」

 江戸にある薄暗い長屋の奥で、幼い男の子の悲痛な叫び声が響いた。


 一八五二年(嘉永五年)秋。

 時代の波に日本が巻き込まれようとしている中に、この少年も生きていた。

 それとは対象的に、彼の母親は死んだ。冷たくなってきた風と共に、体温も命も奪われていった。


 少年の手には、一本の刀。

「お前の父様と私が、生きていた証だよ」

  死ぬ間際に、母は力無い腕で差し出してきたのだ。彼はそれを握り締め、母の眠る布団の上に涙の円を作った。


  刀は一見簡素な、武士ならば誰でも持てるような見た目だ。しかし、刀の銘は上総介兼重(かずさのすけかねしげ)。津藩御抱えの刀鍛冶の銘だ。もちろん、長屋などに住むような者が持てるものではない。

 この少年の父は津藩主である藤堂高猷(たかゆき)。母は津藩邸の近くにある花屋の娘。


──少年は、藤堂家の落胤というわけだ。

 そのことを公にしてはいけない。少年は平助と名付けられ、藤堂家とは何の関係も無いかのようにその名を呼ばれていた。

  平助を身籠ったとわかった時、母は実家の花屋を出て、この長屋で暮らし始めた。


  母が最後に高猷に会ったのは、平助が生まれて二年ほどたった頃だった。

  帰り際に金子を差し出して、「いつか、また」──。いつか三人で暮らせる可能性がほんの少しでもあるのを、その言葉の奥に高猷は秘めたのだろうか。


  その『いつか』を信じ、母は待っていた。『いつか』のためにと思い、母は平助に礼儀作法を教えこんだ。

  平助が成長し、遊びたいという年頃になっても、近所の子ども達の輪に入れてやることはしなかった。万が一世間に知られたらと、母は愛する高猷と平助を案じていたのだ。

  平助にとって、母がすべてだった。


  八つになった一年前、平助は父のこの話を母から聞かされた。

「捨てられたなんて言わないで。父様は、あなたに会いに来てくれたの」

 母と自分を置き去りにしてどこかへ行ってしまった高猷に対し、平助はぶつけようのない怒りのような、悔しさのような何かを感じた。


  それまで「遊びたい」と喚いていたのをやめた。母上を困らせてはいけない、自分が父の代わりになろう。と幼心にも思ったのだろうか。



  しかし、その母もいなくなってしまった。

  孤独と絶望の中心に一人取り残された平助は、ただ泣きじゃくることしかできなかった。


 道行く人は平助のことなど知らず、泣き声を不審に思いながらも長屋の玄関の前を小走りで去っていく。


 しばらくして、一人の男が立ち止まった。

  一年前にもここを通り、「遊びたい」と子どもが泣いているのを母親がなだめているのを聞いたことを思い出した。それが今、「母上」という泣き声に変わっている。まさか、と思い、中を覗いてみた。


  薄っぺらな布団の上に横たわった女。その隣では刀を持った子どもが布団に突っ伏して泣いている。


「坊、坊。どうしたんだ」と優しい声で話しかけた。

  それに安心したのか、平助はぐちゃぐちゃの顔を上げて応える。

「ははうえが! ははうえが!」

 男は彼女の顔にかかる髪の毛を払い、額に手を当てる。

「もう冷たくなっている……てェ事は、わかるな? 坊」

  平助は素直に頷く。

「偉いな、お前は。一人でよく頑張った。……坊、他に親戚は?」

  親戚になど会ったことがない。平助が生まれてすぐ、母は親戚と縁を絶ってしまったのだから。

「──知らない…いない…ははうえ……」

「坊にとって唯一の身内かい。そりゃあ困った…」

  男は顎をさすって暫し考え、口を開いた。「──俺の家に、来るか?」



 ■■■



 平助はこの男に連れられ、明るく賑やかな所に来た。

  男の名は長介という。垂れ気味の目と平行で薄い眉が印象的な男だ。彼は呉服屋を営んでおり、人々からは「呉服屋長さん」と親しまれている。やわらかな笑顔と親切さ、気前の良さで、近所の人気を寄せている。


「俺ん家はでっかい呉服屋だ。親父が店を大きくして、俺に遺して下さったんだ。そろそろ寒くなる頃だから、最近は冬物がたくさん売れてきて結構忙しくてな。さっき、仕入れに行って来て、その帰りにお前を見つけたんだ」


  平助の少ない荷物を半分持ち、手をつないで明るく話す。それでも平助は暗い顔をしてうつむき、虚空を見つめるだけだ。そんな平助を見て、長介は黙り込んでしまった。


 平助の暮らしはどんなものだったのだろう

 なぜ母しか身内がいないのだろう

 自分がいなかったらどうしていただろう


  長介は呆然と考えていた。


  ──からん、がしゃん

  木と金属のぶつかる乾いた音によって、長介は現実に引き戻された。

  平助が持つと引きずりそうだから、と長介が持っていた刀が手から落ちてしまった音だった。気づいた時には平助が刀を抱いて「ははうえ……」と泣いていた。

「平助……悪ぃ。ちょっと、ぼけっとしていた……」

 長介は平助の目線に合わせてしゃがんで宥めるが、平助は泣き続ける。今日、どれだけの涙を流しただろう。


 そういえば、平助は「母上」としか言っていないことに気が付き、思いきって尋ねてみる。

「平助、お前の父様はどうしたんだ?」

 平助は一瞬はっと顔を上げて困った顔をしたが、うつむいて小さく話した。高猷のこと、母のこと、刀のこと──。


 とんでもないことを聞いた、と長介は思った。──俺は大名の落胤である子を引き取ったというのか。他に知れればどうなっちまうんだ。……きっと、津藩の者が平助を──。


「平助。藩に帰る気は無いのか?」

「え……」

「少なくともお前は津藩の子だろう。きっと、今よりいい暮らしが──」

「嫌です」

 張り詰めた声で、しかしはっきりと平助は言った。

「父上は俺と母上を置いていったのです。側にいれば、きっと邪魔になるのでしょう。周りに知られないようにと、俺も母上も、人とは関わりませんでした。……俺が、もっと大人だったら、母上も──」


 もっと笑って暮らせたのに。平助は涙声になり、語尾が小さくなっていった。

 長介は何も言えず、ただ「そうか……」としか言えなかった。


 平助が丸まっていた背をゆっくりと伸ばして歩き始めようとしたので、長介も歩き始めた。


 さっきの平助の言葉を聞いてから長介は気になっていた。平助は、九つの割には随分大人びた話し方をする。決して癖とは言えないようなそれは、長介をより考えさせた。


『人とは関わりませんでした』

『俺がもっと大人だったら』

 ──そうか。子どもの自分は受け入れられないと思っているのか。子どもらしく遊んだことがないのだから、子どもらしく振る舞うことを知らないのか。母の小さな背中しか見てこなかったのか……。


「なあ平助。俺の家には、勇介って子がいるんだ。ちょうどお前と同い年だから、気が合うかもしれんなぁ。仲良くしてやってくれ」

 少し暗い二人の雰囲気を和らげ、平助の顔にも安心と期待の笑みが浮かんだ。


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