追:五
二月二十日──あと少しで京へ入るという日の夜。
平助らが泊まっている宿に、一人の男が訪れた。
「山南敬助あるいは藤堂平助にお伺いしたい」
「──だそうですよ?」
総司が不思議そうな顔で二人を交互に見た。
長い長い旅路の途中わざわざ二人に会いに来る者など、予想がつかない。共通する知り合いなどは北辰一刀流の者くらいだが、来ている浪士たちの中は道場にすら通えぬ者もいるため、とても考えられない。
平助は山南に助けを求めるような表情を送ると、「さて。私が出てこよう」と山南は腰を上げた。昼に荷物を背負っていた右肩を回しながら「誰だろうねぇ」とのんびりぼやき、玄関へ顔を出す。
「山南殿か?」
髷を整え、黒っぽい羽織りをきちんと着こなした、小綺麗な男。
「そうですが」
警戒しながらの短い返事。
「私は、清河先生の使いでここへ参りました。先生がお二人に、これを、と……」
男は懐から小さく折り畳まれた紙を取り出し山南に手渡すと「二人で読むように、と仰せの事です」と言い残し、そそくさと去って行った。
「あっ、待ち……」
山南は呼び止めようとしたが、男の姿は夜の暗がりに消えている。
「山南さん」
後ろからの声は平助。心配そうな目で見つめ、すぐに山南へ駆け寄った。
「さっきのは……?」
「あぁ、清河先生の使者だったよ。二人で読めと、これを渡された」
厄介だねぇと溜め息をつき、小さな紙を開いた。
──今日の戌の刻、原乃屋にて待つ 清河八郎
「……いたずらですか?」
「さあどうかな。しかし、清河先生のような大物の名を騙る怖いもの知らずなんて、そうそういないさ。原乃屋は、この近くで見かけたような気がするなあ。私達がここにいることを知ってのことだろう」
再び溜め息ををついて山南は呟くように言った。
「……行きますか?」
「行かないわけにはいかない。もし本当に清河先生なら、しらばっくれるわけにはいかない」
「やっと布団に入れると思ったのに……」
むすっとする平助に山南は苦笑し、さて準備をしよう、と二人は部屋に戻った。
大小二本をきっちりと腰に差し、緊張した面持ちで座敷へ向かった。
「──やあ。待っていたよ」
いつもの厳格な表情を幾分崩し、風呂上がりなのか着流しで座っている清河が、二人を迎えた。平助は山南の右後ろについて座る。
「まずは一口」と酒を差し出され、山南は素直に受けると一気に飲み干した。
(いつもなら断るだろうに)
気が立っているような、何か焦っているような山南を心配しつつ、平助は杯を持ったまま動けずにいた。
「して、話とは?」
世間話や労いの言葉はおろか挨拶さえもせず、いつもより低い山南の声に清河のこめかみがぴくりと動く。
自分が警戒されているのは、目に見えてわかる。清河はなるべく落ち着いた声で、なだめるように話し始めた。
「驚かせてすまなかったね。疲れているとわかっていて呼び寄せてしまったのは心から詫びよう。まずは今日もご苦労。もう少しで京に着くから、それまでの辛抱だ」
「風呂で疲れは取れましたか」
山南は努めて柔らかく受け答えをした。清河との会話は山南に任せようと平助は決めている。
「いやあ、いい湯だったよ。おまけに湯上がりの酒も美味い。またここに泊まりたいと思うほどだ。日本が平和だという証拠だね」
その言葉に山南がぴくりと反応する。
「清河先生、我々に話があるのではないのですか」
緊張が混じった声である。
「そう急かすな。確かに、話をするために呼んだ。その本題に入る前に言っておこう、我々は北辰一刀流の門下生だ。この浪士組には数えるほどしかいない。だからこそ、二人に話したいんだということをわかって欲しい」
一呼吸置き、厳格な目つきになり、清河は声を落として言った。
「私は、尊皇攘夷の魁となる」
(尊皇……!)
思わず声を上げそうになったのは平助。山南から警告を受けていても、実際に本人の口から出る言葉には重みがある。
山南は、表情一つ変わらない。
「千葉一門の教えは勤皇だ。決して佐幕ではない。君たちも、そう教え込まれたはずだ。山南、藤堂。幕府は敵だよ」
語尾が下がらず疑問符の一つも無い、断定された短い言葉の一つ一つに、身震いが起きるようだった。
はりつめた空気。清河の射抜くような目と、山南のかすかな緊張。それらに囲まれた平助の肩は縮こまる。その場にいる誰もが、次の言葉が発せられるのを待っていた。
「……三月になる前に、江戸へ帰る」
静寂を破ったのは清河。
「本来の役目を全うせずに、ですか?」
「山南。殺気立っているぞ」
「将軍はまだ入洛していません。我らの目的は──」
「将軍の警護、とでも?」
にやり、と清河の口端が上がり、挑戦的な鋭い笑みを見せた。
「まさか──」
「警護だなんて、笑わせるな。私には、私の目的がある。つまりは尊皇攘夷。この浪士組に参加した者らは、ほとんどが支度金目当てだ。おまけに水戸の天狗党だった者もいる。人を集め、私の弁論を以て勤皇の志を持たせることなんて容易い。浪士組の者らは、言わば私の兵士たちだ。黒船の来航や桜田門──人々は、今や戦いがっているのだ」
ああ、この人は、自分以外をただの道具だと思っている……。
真っ白になった頭で、平助は思った。
膝の上で、まだ酒が入っている猪口が寂しく震える。悔しさと恐怖と緊張と、様々な感情が入り乱れる。勤勉で政治にも通じ、剣の腕も立つ師として今まで崇めてきた清河への信念が、みるみる崩れ去っていく。どうしてこうなってしまったのだろう。 いつだか山南の言った「何か企んでいる」という言葉が頭の中にこだました。
「あなたは……!」
掠れたような、息の詰まったような山南の声。
清河は、思考を巡らせる目の前の二人の表情を見てふいに笑う。
「私は、使える人材ならいくらでも使う。それを集めるために考えたのが、この浪士組だ。私のような一介の浪人が力を集めるにはこうするしかなかった。少なくとも、彼らは兵力になることは間違いない」
「だとしても!」山南が声を荒げる。「あなたを信じて、将軍の役に立てると信じて、私たちは加盟したのです。そのような者も、他にどれだけいると──」
「ただの愚か者だ」
今まで諭すような笑みを浮かべていた顔を一変させ、動きの無い顔で言い放った。
「清河先生。俺は、先生を師として尊敬していました。それなのに、どうしてそんなに、人を操ろうとするのです」
山南の奥で喚く平助。それに清河はきっぱりと告げる。
「言ったろう。使える者は使う。それだけだ」
光が入っていない清河の目に、平助は怯んだ。
「私の言うことに、基本的に間違いは無いはずだ。だから人は私についてくる。そしてそれが私の才能だと思っている。才能を生かせぬ人間は、ただの馬鹿だ。綺麗事を言うつもりもない。人間など、才能を生かせるか生かせないかで決まってくるものだ」
断定する、はっきりとした口調に、今までどれだけの人が騙されてきたのだろう。