追:一
文久二(1862)年の暮れ。
「──伊東先生、清河先生が動きますよ」
門弟である内海が伊東の部屋の前に来るや否や、色白のすっきりした顔を向けて伊東に声をかけた。
まだ寒さが厳しい真冬。
伊東は煙管を置き、読んでいた書面から端正な顔を上げた。
「そうか」
ふぅ、と軽く溜め息をつき、外へ目を向ける。所々に雪が見えるが、はしゃぐ子どもたちの声が、真冬の重い空気を明るくしてくれているようだ。
伊東は目を細めてわずかに口角を上げ、再び書面へと視線を落として言った。
「この手紙にも書いてあることかな」
「京へ、行くらしいと……」
内海は改まり、膝を折ってその場に座す。
「知っていたのか。これにもそう書いている。清河先生の行動力は尊敬すれど、些か過激な所もあるように見える」
「伊東先生のように、じっくりと事を進める方もいるのですから、それでちょうどいいのではないかと」
内海はいつになく冗談めかして言った。つられて伊東も柔らかく笑う。
「……けれども、派手な事をする輩がのさばって、私達の出る幕も塞がれてしまうね」
「まぁ、確かに」
二人は笑い、堅くなっていた雰囲気をやわらげるようにして話をしていた。
──清河八郎
天保元年(1830)、庄内藩で醸造業を営む、名字帯刀を許された家に生まれた。幼い頃から勉学に励み、江戸に出て古学と北辰一刀流を学んだ。三十歳で神田に清河塾を開設。学問と剣を一人で教えるというこの塾は、江戸市内では清河塾のみだった。
同門である伊東は清河と面識があり、平助や山南もまたそうだった。
■■■
伊東と内海がそんな事を話している頃、試衛館では──。
「きょお?」
「そう、京です」
「京、って……そりゃあ……」
大きな口をあんぐりとより大きく開け、近藤はまばたきした。
「将軍様が京へ行く時の警護として、人を募るそうだよ。来年二月の上洛に合わせて京に行くんだ。こちらへ戻ってくるのは五月頃かな」
どこから仕入れてきた情報なのか、興奮する皆に山南は落ち着いて話している。
「こんな機会めったに無いじゃろ!」
単純に行きたいと言うかのような左之助。
「将軍様をお守りするたぁ、そりゃあ光栄な事だ」
近藤は信じられないと言いたげな顔で言う。
「近藤さん、いいのかい?」
心配そうな顔で言うのは井上だ。
「あ………む……」
その途端、近藤は口ごもってしまった。
「……道場のことですか?」
横から言ったのは、そんな近藤の表情を見逃さない宗次郎。
「いや……義父上に話してみよう」
四代目宗家となった近藤が半年も道場を空けなければならないとなると、さすがに大きな話だ。皆が喜びとも不安ともつかない顔をしている中、近藤は立ち上がって部屋を出て行った。
近藤の義父──三代目宗家近藤周助の承諾はすぐに出た。剣を修めたからこそ、周助にも#滾__たぎ__#る思いがあるのだろう、行きたいのなら京へ行き一旗揚げよとのことだった。
尊皇攘夷の言葉が流行りだし、京では辻斬りが横行している。今も昔も、京を中心に時代が進んでいる。今や江戸でさえも新しい考えの波に飲まれ始めている。剣で身を立てるなら京だ、とは口にせずとも誰もが思っていることだ。
「──山南さん」
その日の夜、縁側で一人座って刀の手入れをする山南を見かけ、平助は声をかけた。
「おや、まだ寝ていなかったのか」
手入れを中断し、心が穏やかになるようないつもの暖かい返事をくれる。
「山南さんも京へ行くの?」
昼の話を確認するかのように聞いた。情報を持って来た本人なのに、あの部屋で唯一落ち着いて聞いていた山南の心境が、平助には読めなかった。
山南は手を止め、微笑んだままだ。
「……行かないの?」
「行かない、と言ったらどうする?」
「俺も行きません」
山南は、困ったなぁと刀の手入れを再開した。
「私は行くよ。 平助も行くのかい?」
「山南さんが行くのなら」
ちょこん、と山南の隣に腰掛ける。
ぶらぶらと地につかない足を揺らし、どこか嬉しい顔をする平助に、山南もつられて笑ってしまう。
「何が嬉しいんだ?」
「みんな一緒なんだなって。試衛館ってすごいね」
「試衛館の力というより、近藤さんの力だろう。近藤さんのそばにいる人は、みんなそうさ」
「そうかもしれないな」
「聞いたことはあるかな? 私がここに来た理由」
いいえ、と平助は首を横に振る。
「近藤さんにね、他流試合を申し込んだんだ。そしたら見事に負けてしまってね。平助も知っている通り、それは力強い、逞しい剣だったよ。──話をするうちに、私は近藤さんの人柄に惹かれていったんだ。近藤さんは文武両道を目指していると言っていたけど、部屋にはものすごい量の本が積まれているだろう? 近藤さんは有言実行だ。芯が強く決して曲げないけど、間違っていると指摘されれば教えを請う。頑固さと純粋さが上手く混じったような人柄だ。近藤さんの人柄には人を惹き付ける力がある。それに私も惹き付けられたんだ。それに、どんな人でも受け入れられる広い心を持っている。そんな近藤さんだから、私は彼について行きたいと思う」
平助はうなずきながら聞いていた。
「本当に、いい人ですよね。山南さんも。山南さんにとっての近藤先生が、俺にとっての山南さんだよ」
その言葉に山南は照れ笑いを隠せない。
「だから、山南さんが近藤先生について行くなら、俺もついて行く」
「そりゃ、嬉しいね」
「俺のことをそう思ってくれる人がいればなあ」
へへへ、と思う事を素直に言葉にする平助が、山南には羨ましく感じた。
山南は手入れを終えた刀を鞘に納め、平助の方を向くと小声で言った。
「──この募集は清河八郎によるものだよ」
「清河先生?」
「ああ、覚えているだろう? 伊東道場にも出入りしていた。頭が切れる賢い人だけど、結構、過激でね。今日清河に会ってきた。そこで浪士組の詳しい話を聞いた」
「そうですか……」
平助は残念な表情で言う。
山南はさらに追い打ちをかけるように言った。
「詳しい話を求めても、あくまで将軍警護と言い張る。しかし少なくとも、何か企んでいるのは確かだろう。良い方に転ぶとは限らないから、期待はするな」
言い終わり、何も言えずに瞬きを繰り返す平助に「内緒だぞ」と一言言うと、寝室へと戻っていった。
平助の頭は何も考えられなかった。
この時代の人々の思想は流派が作る。平助や山南と同門の者が考えることは、何となく想像できる。しかし常人の想像を越えた発想をするのが清河だ。
半日前にはわくわくしていた気持ちが、山南の言葉によって冷やされていった。