寝ているセフレにキスをして
僕に背を向け、ブラを付ける彼女。
つい先程まで肌を重ね合わせていたのに、布団から出ると同時にその身体を隠そうとする。数えきれない程繰り返している事なのに、未だに恥じらうその姿に僕は少しだけ嬉しくなる。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、若さを感じさせる背中を、こちらに向けたままの彼女が「もし」と言った。
何も言わず続きを待ってた僕の耳に届いた言葉。
想定外のその言葉に少しだけ驚いた。
「私が死にたいって言ったらどうする?」
一瞬だけ振り返り、小さく笑った彼女の本心はどこにあるのか。
遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声が、僕に焦燥感を募らせた。だから、だろうか。彼女が死にたいと言った、その意味を考えるより先に、僕の口から言葉がこぼれた。
「一緒に死ぬよ」
出て来た言葉に自分で驚き、同時に納得した。
ほんの少しの沈黙の後で、彼女は振り返り「そこは頑張って止めてよ」と笑いながら、僕の靴下を投げて寄越した。
彼女と出会ってから今まで。随分と長い時間を共に過ごして来た。
しかし、その中で好きとか愛してるなんて言葉が交わされた事は一度もないし、付き合うなんて約束をした覚えもない。それでも尚、だらだらと続く僕らの関係。食事や映画、遊園地に水族館と様々な場所に二人で出掛けた。歩く時には手を繋ぎ、ムードが高まればキスをして、身体を重ねた回数も数えきれない。
だけど僕達は、恋人未満。
俗に言うセフレだ。
「さっきの言葉は本気?」
服を着終わった彼女が、髪を整えながら僕に問いかけた。栗色の髪に付けるバレッタは、白い花で彩られている。随分と昔、彼女の誕生日に僕が贈った物だった。再び後ろを向いてしまった彼女は今、どんな表情をしているのだろうか。
「本気だよ」
「バカじゃないの……」
その声は酷く小さかった。でも不思議と狭い部屋の中によく響いた。レースのカーテンからこぼれるオレンジ色の光の粒子が彼女に降りかかり、身体の半分に影が差していた。
何か言おうとして、言葉に詰まった。間違った言葉を口に出した瞬間に、この関係が終わりを迎えてしまうような気がしたから。何十年という、決して短くはない期間を共に過ごしていながら、僕らの関係はあまりにも曖昧で脆弱だった。
結局口から出たのは、酷く中途半端な言葉。それはまるで僕らの関係のようだった。
「そうだね。僕はバカだから、他に方法が分からないんだ」
自分の耳に響いたその言葉は、とても頼りなく聞こえた。辛いはずの彼女に答えを求めてしまう僕は最低なのだろう。
「ずるいな……」
それだけ言って窓の方へと身体を向けた彼女は、穏やかな光を全身で受け止めるように、大きく伸びをした。その姿は酷く儚げで、そのまま光の中に吸い込まれて行ってしまうのではないかと、僕に錯覚させた。
気付けば後ろから抱きしめていた。
どこにも行くな。
そんな事を考えながら、口から出たのは別の言葉だった。
「死にたいの?」
僕の言葉に、腕の中の彼女の肩がビクリと震えた。
「――うん。ちょっとだけ」
「そうか」
頷きながら彼女の細い首を指で撫でた。皺が増えてゴツゴツとした僕の指は、瑞々しい彼女の肌とはまるで正反対のように思えた。
「殺してくれるの?」
振り返り、こちらを見上げた彼女。潤んだ瞳に見つめられて、僕の心臓が大きく跳ねた。
「良いけど、殺した後で僕も死ぬから」
「それはダメ……」
再び外へと視線を向けた彼女の手は、首元にある僕の手へと重ねられた。いつの間にか日の光は弱まり、薄暗くなった部屋の中。エアコンの駆動音だけが静かに響いていた。
彼女との出会いは高校生の頃。初めてのアルバイトで、僕に仕事を教えてくれたのが彼女だった。僕より七つも年上だった彼女が、やけに達観しているように見えたのを覚えている。その姿に、まだまだ子供だった当時の僕は、妙に惹きつけられたのだ。
勇気を出して誘った初めてのデート。
誘いに乗ってくれたはずの彼女が、先手を打つように放った言葉が胸に突き刺さった。
『絶対に私の事を好きになっちゃダメだよ。私は誰とも付き合う気なんて、ないんだから』
唖然とした僕に言い聞かせるように彼女は言葉を続けた。
『ごめんね。私病気なんだ。だから……』
周期性長期過眠症。
彼女が患っているその病気は、まるで冬眠するクマのように周期的に長い眠りに陥ってしまう奇病だった。理由は分からないが、女性にしか症例が見られない事から『眠り姫病』とも言われている。
周期や眠りの期間には個人差があるようだが、彼女の場合は目覚めてから一年から二年程で次の睡眠が訪れる。睡眠の期間は症状が進むにつれて長くなり、初期は数週間だったそれが、現在では数年単位にまでなってしまっていた。
以前、彼女は言っていた。
『あなたにとっては数年でも、私にとってはたったの一晩なの』
妙に心に残っているその言葉の通り、彼女はまるで一晩しか眠っていないかのように、若々しいままなのだ。症例数が少な過ぎて理由が解明されていないが、彼女の病気はまるでSF作品に出て来るコールドスリープのように、眠っている間の老化がほとんど見られない。
眠りから目覚める度に周りの時間が進んでいるというのは、どういった感覚なのだろうか。残念ながら僕には分からない。ただ起きた時に、知っている人が近くにいないかもしれないという恐怖は、少しだけ分かる気がした。
『絶対に好きだなんて言わないでね。せっかく告白されて舞い上がっても、次に起きた時に独りぼっちになっていたら、きっと立ち直れないから』
ずっと昔、告白しようとした僕の口を、手で塞いだ彼女が言った言葉。その言葉が、鎖のように僕の心を幾重にも縛り付け、この歳になった今でも決して離さない。
このまま一度も気持ちを伝える事無く、僕らの関係は終わってしまうのだろうか。
そんな考えが頭を過り、無性に悲しくなった。
「痛い……」
「ごめん」
知らず知らずのうちに、彼女を抱き締める腕に力が入ってしまっていたようだ。力を抜いて、優しく抱きしめ直す。
「うん、だいじょうぶ」
僕の手に重ねられたままの彼女の手が、子供をあやすようにゆっくりと動く。優しく撫でられる手の感触に思わず涙が零れそうになってしまう。
後何度、こうして彼女に触れて貰えるのだろうか。
後何度、美しい彼女の声を聞く事が出来るのだろうか。
後何度、彼女の笑顔を見る事が出来るのだろうか。
後何度……。
こんなにも近くにいるのに、僕らが歩んでいる時間は全く違う。共に歩んで行きたいのに、僕だけが老いていく。僕の方が年下のはずなのに、今ではもう父娘ほどに僕らの外見には開きがあった。
「ねぇ、聞いて」
いやだ、聞きたくない。
そう言いたかったけれど、腕の中で震える彼女に気付いて、僕は本音を隠した。
「なに?」
弱々しく、酷く掠れた声だった。
彼女もそれに気付いたのだろう。安心させるように僕の側に体重をかけてきた。
「昨日、全く眠れなかったの……」
それは長期間の眠りに入る前に必ず起こる前兆だった。それまで何不自由なく過ごしていても、必ずそれはやってくる。突然訪れる不眠の症状、二日程眠れない日が続いた後に、まるで魔法にでもかかったかのように深い眠りに陥ってしまうのだ。
「――そうか」
予想した通りの彼女の言葉に、胸が張り裂けそうになる。
「うん。たぶん、明日か明後日辺りがそうだと思う」
「――わかった」
かける言葉が見つからない。目覚めた時に、誰もいない事を恐れる彼女は、未来を約束する事を望まない。気持ちを伝える事を望まない。
ただただ、事実として受け入れて欲しいというのが、彼女の望みだ。
そして。
その言葉通り、次の日の夜に彼女は深い眠りについた。前回は八年近く眠っていた彼女。次に目覚めるのは果たして何年後になるのだろうか。穏やかな寝顔を見つめながら、僕は溜息を吐き出した。とっくに還暦を過ぎたはずの彼女の顔は、三十歳前後にしか見えなかった。
それに引き換え僕は……。
病院のベッドの横。窓ガラスに映った男の顔には年相応に深い皺が刻まれていた。
僕は後何回、彼女の目覚めに立ち会う事が出来るのだろうか。皺だらけの顔に触れ、小さく息を吐き出した。
きっと、次は大丈夫だろう。
でも、その次は分からない……。
曖昧な僕らの関係。
恋人未満。俗に言うセフレという関係は、後どれだけ続ける事が出来るのだろうか。
願わくば、少しでも長く彼女と共に過ごせますように。
目が覚めるその瞬間を願い、僕は今日も待ち続ける。
眠り姫にかけられた、魔法がとけるその時を。
永遠に伝える事のない、想いを胸に、秘めたままで。
寝ているセフレにキスをして。
本作はフィクションです。
眠り姫病は実在しません。