始まりの色の空を見上げて
ねえ、海を観に行こうと君は僕に言った。
僕は知っていた。それが僕らの始まりであることを。
君は知っていた。僕がそれにどう答えるかを。
早朝の駅前は冷たい空気と人気のない寂しさでいつもの喧騒をすっかりと失くしていた。
二十四時間商売をしている自販機とか、誰かが忘れていった自転車とか、溝が黒くなったタイル張りの民家の壁とか、そういうありふれたものが目に映った。
その光景と雰囲気を僕はとても綺麗だとふと思った。
自転車に鍵をして、僕は君を待った。
少しして、君は一人で細く白い息を吐く僕を見つけ、柔らかく笑って手を振った。
駅から歩き出すと、薄い紫色の空が僕らを待っていた。
駅から海までの道を僕らはただ歩いた。
誰とも会わなかった。
まるで世界が僕らを拒むように、或いは僕らが世界を拒むように、僕らは孤独だった。
孤独で、二人で、それが世界の全てであるかのようだった。
どちらともなく繋いだ手が僕らを繋ぎ止めていた。
指先の冷たくつるりとした感触とか、ふわりと漂う君の髪の匂いとか、朝特有の肺を指すような酸素とか、五月蠅いくらいに高鳴る鼓動とか、そういう当たり前の全てが僕には愛おしく感じられた。
朝日が昇るまでに着けるかなと君は僕に弾んだ声を奏でた。
多分ねと僕は吐息と共に返事をして、僕らの絆がまた一つ編まれた。
大切な思い出はただ一つ一つが雪のように、或いは砂のように確実に降り積もっていく。
僕らはそうしてここに至っていた。
光あれと誰かが唱えた瞬間に世界が始まったように、僕らは僕らの世界を創っていく。
二人分の足音と足跡が僕らに刻まれていく。
一歩一歩を進むごとに確実に僕らは海へ、二人にとっての始まりの場所へと近づいて行く。
僕は知っていた。
君も知っていた。
それは大切な何かだった。
言葉に出来ない奇跡だった。
そこにあることがあまりに眩しいほどの希望だった。
ひび割れたアスファルトの道が、レンガ造りの遊歩道が、塩と砂まみれの防波堤が、見慣れたはずの街の景色が、ただそこにあって僕の胸を締めた。
海に着いた。
星も月もいない。太陽もまだ顔を出していない。でも、そこには藍色の空があって、刻一刻と表情を変えていた。
着いたねと君は子供の様に微笑んだ。
そうだねと僕も口元を緩ませた。
そこは大切な場所だった。
僕らはもうすぐ今以上に人生を一緒にすることを誓い合っていた。
今までの曖昧な関係が終わって、新しく僕らは関係を進めることになっていた。
来年は私名前が変わってるんだよねと君は海に向かって独り言を放った。
それは僕の心にすっと染み渡って、ただ受け入れるべき事実を確信させた。
二人で一緒に始めようと僕も海に向かって呟いた。
君が僕の横顔を見つめたのが分かった。
余りに暖かな沈黙が僕らを包んだ。
ふふふと君は泣いた。
はははと僕も泣いた。
その涙は凄く純粋で、最も美しい場所から生まれたものだった。堰を切った透明な雫が灰色の道にそっと落ちた。
僕らはその瞬間、新しく生まれた。
新しい自分になった。
世界が闇を否定して、薄く白い輝線を描いた。
僕は君を終わる世界から引き摺り出す様に手を引いた。
君もそれに合わせて僕に近づいた。
僕らの昨日が終わって、明日が今日になった。
終わる未来が今になって、今が過去になった。
生みの苦しみは無垢なものだった。
そこは僕ら二人が新たに生まれた場所だった。
僕らは一人から二人になった。
経験してきたはずの孤独は一瞬で消え失せて、ただこれからも続く二人の時間があった。
僕だけの時間が終わって、君との時間が僕の時間になって。
そうして、一日ずつ歩いて行けたらいい。
白い世界が終わって、淡い黄色と光を含んだ橙色の世界が僕らを包み込んでいた。
どこへでも行けると思った。
どこにも行っていなかった。
僕らの世界がここにあった。
長い間探していたものは存外近くにあって、でも今でも手の届かないほどの彼方にある。
薄色の紫、夜色の藍、淡色の黄、光色の橙、そして、暖色の白い世界。
僕らは誰かが創った幸福の世界に立っていた。
それは確かに祝福だった。
太陽が微笑んで、夜が眠る。
それは毎日必ず訪れる光景なのに、今この場ではまるで別のものに見えた。
僕は君を抱き締めた。
華奢で、柔らかくて、温かくて。それは僕が認識できる愛情の形だった。
幸せになろうねと君は言った。
そうだねと僕は返した。
それ以上の言葉は必要なかった。
多分僕らはずっとここに来るまで探していた。
何を探しているのかも分からないくらいに探し続けて、あるかどうかも分からないものを求めていた。
違っていた。
探し求めていたものは確かに在った。
それはきっと誰にでもある。
本気で探して、狂いながら求めればそれは誰にでも手に入る。
日光が数千の眩しさの欠片を放ち、広がりはじめていた。
新しい魔法が世界にかけられた。
始まりの魔法は今確かにそこにあった。
光が目の端っこに虹を描く。
それは余りにも幻想的で、安心感があって、涙が溢れるくらいに素敵だった。
始まりの色。
空が二人を観測者にして映した色彩。
僕と君はゆっくりとその空を見上げた。
それは心臓が止まりそうになるほど、脳の芯が痺れるほど、呼吸を忘れるほど――――――。