ヒロインは辞退します
静かな礼拝堂で祈りをささげる一人の少女は、突然聞こえた声にびくりと身を震わせた。あたりを見回しても誰一人いない。
今のは何?
そう思っていると頭の中で何かが一気にはじけた。
そして、それは天啓とも言えなくはないが、正直うんざりするような出来事だった。
十歳のマリエラは、深いため息とともに礼拝堂を後にした。
その日から毎日のように悪夢にうなされる。
その悪夢は、これから現実になっていくことをマリエラは確信していた。なぜなら、すでに運命の輪は動き始めている。とある伯爵が彼女を養女にと申し出ているのだ。
どうやら、自分は<乙女ゲーム>のヒロインらしい。そして、現在二つ年上である皇太子の婚約者となることが最終的な結末といったところだ。
だが、マリエラは喜ぶどころかうんざりしていた。
これから、令嬢としてのたしなみを叩き込まれ、いわれのない嫉妬にさいなまれる人生のどこに幸福があるのかと。だが、抵抗むなしく、マリエラはクラウン伯爵の令嬢として養女に出されたのであった。
(ああ、なんて窮屈なんだろう)
十五になったマリエラは、趣味の刺繍をしながら深いため息をつく。明日はとうとう夜会デビュー。この五年間、令嬢としての立ち居振る舞い、ダンスのレッスン、勉強ときどき刺繍の日々。それだけでも、マリエラはうんざりしていた。養父のクラウン伯爵は、会うたびにその美しさで皇太子の心を射止めよと言う。マリエラ自身は自分の容姿にそれほどの自信はない。黒曜石のような黒髪と月夜を溶かしたような深い青い瞳は気に入っていたけれど。
にわか仕込みの令嬢が、本物に勝てるわけがないのだ。それに、いまでこそ、窮屈に感じている生活だ。皇太子の婚約者になんかなったら、もっと大変なことになるに決まっている。
(前世の私って乙女ゲーム楽しめない派だったのよね)
だから、余計に嫌なのだ。それにこの五年、伯爵家で生活してわかったことがある。それは、伯爵家が経済的に傾いてきているということだ。領地の管理を怠り、ただ税金だけをとる。そんなことを続けていれば、領地の経営は悪化するに決まっている。産業や観光資源を創出してこそ、家の体面も保たれるというものなのに、皇太子を篭絡して富を得ようというのはいくらなんでも安直であろう。
ゲームの中では一言傾いた家計のためとだけ説明されていたことだが、マリエラはふっとため息を吐いた。
(逃げ出して、お針子になろうかな)
そんな考えが頭をよぎるばかりで、現状をどうすることもできない。とりあえず、明日の夜会で一番気をつけなければならないのは、ゲームの中の悪役、アイリス・コンスタンチン伯爵令嬢。金髪碧眼の美少女で聡明なご令嬢。噂によるとなにやら、いろいろ事業も手掛けているらしく、すでに時の人である。
(そんな人に勝負挑むとかありえないから)
マリエラは今日何度目かのため息を吐いて、趣味の刺繍を完成させた。
そして、夜会。
養父にエスコートされてお城の大広間に入る。養父はすぐにマリエラのそばを離れて、だれかれとあいさつを交わしていく。マリエラはそっと人気の薄い壁際にはりついた。そして、会場が一瞬しずまりかえる。視線を扉のほうへ向ければ、まさしく時の人、アイリスの登場であった。
(うわぁ、お人形さんみたい。綺麗)
マリエラは思わず見とれた。ゲーム以上に圧倒的な美しさを放っている。気品といい所作といい、令嬢の中の令嬢とは、まさしく彼女のことだろう。
(あの方があたしに意地悪をするなんて、とても考えられないわ)
きっと、何かの間違いだなとマリエラは思った。それに、何よりマリエラは自分をわかっている。彼女の前でそそをしないだけのマナーは身に着けたのだから。それに自分から近づかなければいいのだとマリエラは思っていた。
だが、うっかり見つめていたせいで視線が合ってしまった。マリエラはあわてて礼をする。
「まあ、かわいらしい方。わたくしはアイリス・コンスタンチンですわ」
「は、はじめましてマリエラ・クラウンと申します」
「はじめまして」
にこりと微笑むアイリスは女王の風格。
「夜会は初めてですか?」
「はい」
「それで緊張なさっていらっしゃるのね。大丈夫よ。何か困ったことがあったらおっしゃってね」
「はい、ありがとうございます」
それだけの会話でアイリスはマリエラのそばを離れていった。マリエラはほっと胸をなでおろす。とりあえず、今夜はこれで何事もなさそうだ。
(早く終わらないかな……)
そう思っているといつのまにか、ダンスが始まった。養父の姿を探してみるが見当たらない。マリエラはぼんやり周りを見ていた。ひそひそとこちらを盗み見ては話しているご令嬢の集団があるが気にしてはいけない。いわゆる陰口をたたかれているのだ。クラウン伯爵が拾った孤児という公然の秘密。
(うわぁ、視線が痛い。早く帰りたいよ)
そんな時だった。ふいに目の前にイケメン登場。いや、皇太子登場。マリエラは慌てて礼をする。名を聞かれるまでは、こちらから話しかけてはならない相手だ。
「はじめまして、確かあなたはクラウン伯爵の」
「はい、娘のマリエラと申します。殿下」
「では、マリエラ。私と一曲踊ってください」
(な、なんでそうなるの)
マリエラは内心びくびくしながら喜んでと微笑み返した。皇太子にエスコートされてダンスを踊る。痛い視線を感じながら、必死で笑顔をつくる。ダンスを踊りながら皇太子がささやく。
「アイリスとは知り合いですか?」
「いえ、今夜お会いしたばかりです」
そう返事すると表情が少し曇った。
(これはもしかして……)
「あの、もしかしてアイリス様のお話を聞きたかったのですか?」
「ああ、バレてしまいましたか」
皇太子は苦笑した。
「差し出がましいとは思いますが、わたくしなどをダンスに誘うより、直接アイリス様をお誘いになってはいかがでしょう?」
「そうしたいのですが、彼女はなかなかお一人にならないので……」
「殿下が歩み寄れば、だれも妨げるものはいませんわ。勇気をもってお誘いしては?」
「やはり、そうしたほうがいいのでしょうね」
そんなやり取りをして一曲が終わり、マリエラはほっとしてまた壁の花になった。
(よっしゃ、皇太子ルート回避!)
そう思いながら、ちらりと皇太子を見る。が、アイリスを囲む壁は厚かった。夜も更けて夜会はお開きとなった。養父はごきげんである。どこかで、マリエラと皇太子が踊っているのを見たのだろう。
それからしばらくは、平穏と言いたいところだが、そうはいかなかった。いろいろのところからお茶会や夜会の招待があり、出ないわけにもいかなかった。行けばいったで、身の程知らずなどと陰口をたたかれたり、紅茶をドレスにこぼされたり、マナーを試されたり……。マリエラは皇太子のお気に入りなのではという勘違い令嬢たちによる嫌がらせの日々だった。
(ルートは回避したはずなのに……)
今夜はレオナルド子爵の夜会である。子爵の息子は、皇太子専属の近衛兵をしている。名前はヴァイス。赤毛の美青年だ。マリエラとしては、皇太子よりこちらのほうが好みではあるが、下手に近づけば皇太子ルート復活の恐れがある。君子危うきに近寄らずである。そんな子爵の夜会では、何人かの男性とダンスを踊ってそれなりに楽しんだ。疲れたので、飲み物をもらいバルコニーに出る。
(やっぱ疲れる……貴族って大変だわ。あたしには到底無理)
マリエラは夜風に黒髪を撫でられながら、ふっとため息を吐いた。
「お疲れのようですね。マリエラ様」
ふいに、問われて振り返ると逆光に赤毛を光らせてヴァイス様登場。マリエラは慌てて礼をする。
「飲み物のおかわりは?」
「いえ、大丈夫ですわ。今夜はお招きありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただいて。ところで、一つぶしつけな質問をしてもよろしいですか?」
ヴァイスの表情がよくわからないので、マリエラは首を傾げた。
(何?どんな罠?)
「アイリス様をどう思われますか?」
「……とても素敵な方だと思いますが、それが?」
「素敵ですか……どんなふうに?」
(尋問ですか?尋問ですよね?)
マリエラは戸惑いながらも、知っていることを答える。
「詳しくは存じ上げませんが、あの若さで事業をされていらっしゃるし、夜会やお茶会でお会いしたときはとても美しくてしなやかな方でいらっしゃるのがよくわかります。ですから、素敵な方だと申し上げました」
しばらくの沈黙後、ヴァイスはそうですかとうれしそうに答えた。
「ところで、マリエラ様はもうお心に決めた人はいらっしゃるのですか?」
「いえ……」
養父に皇太子を狙えとはいわれているが、現在、マリエラは王族にも貴族にも興味はない。
「では、どのような方をお探しですか?」
「それも……あまり……わかりかねます……」
「なるほど」
(えー!何がなるほどなの???)
「よろしければ、僕と踊っていただけませんか」
「あ……あの、申し訳ないのですが、今宵はもう疲れてしまって……」
「そうですか、それは残念」
そう言ってヴァイスは去っていった。
(ヴァイスルート回避……したよね)
マリエラはとりあえず、ほっとした。その後、皇太子ともヴァイスともほとんど接点はなく、マリエラは十八歳になっていた。そして、皇太子の婚約者がアイリス・コンスタンチン伯爵令嬢に決まったことで、激怒したクラウン伯爵に屋敷から放り出された。マリエラはすでにそれを予測していたので、驚くことなく昔住んでいた教会に一時身を寄せた。
「なんとも大変なことでしたね。マリエラ」
シスターはマリエラの境遇に涙する。
「いいのです。あたし、こっちのほうが気楽だもの。とりあえず、お針子の仕事をしようと思うのでそれまでこちらでお世話になってもいいですか、シスターレナ」
「ええ、かまいませんとも」
「ありがとうございます」
お針子の仕事はすぐに見つかり、刺繍の腕を買われて住み込みで働かせてくれると言う。マリエラはシスターにお礼を言って教会を後にした。
それから、一年後。風の噂でクラウン伯爵は借金で首が回らなくなったという。皇太子は無事アイリスと結婚した。
(そういえば、ヴァイス様はどうしているのかな)
なんとなくマリエラは気になった。たぶん、今でも皇太子のそばにいるのだろう。そして、どこかのご令嬢と婚約しているのかなと想像する。すると、なぜか胸がちくりと痛んだ。おかしいなとマリエラは思う。確かに好みではあったけれど、恋をするほどの接点はなかった。
(あの時、踊っておけばよかったかな)
そんな風に数年前を思い起こしながら、ドレスに刺繍を施していく。
(ゲームや物語じゃないんだから仕方ないわよ。身分違いな恋ほど大変だもの。今の生活のほうがよっぽど幸せだわ)
マリエラはそう思ったけれど、胸には痛みが残った。そして、少しは恋というものを味わったのだとマリエラは思うことにして、気合を入れなおす。そこへ、お客さんだよと店主に呼ばれた。誰だろうと思って二階から店のほうへ出る。そこにはきらきらと輝く赤毛の青年が立っていた。
「ヴァイス様……」
「やあ、ひさしぶり。店主、しばらく彼女をお借りしますね」
「ええ、どうぞ」
店主にいっといでよと押し出されて、ヴァイスの隣に並ぶ。マリエラの胸はドキドキと高鳴り始めた。
(こんどは何?どんな罠なの?)
ヴァイスに腕をとられて静かに並んで歩く。沈黙が重くてマリエラは口を開いた。
「どなたかに贈り物ですか」
「ええ、プロポーズのためにドレスをあつらえてほしいのです」
マリエラの胸はちくちくと痛む。
「それでは、その方と一度お店にいらしてください。採寸しないと……」
「そうですね。じゃあ、行きましょうか」
そう言ってヴァイスは来た道を戻る。
「あの、ヴァイス様?お相手の方は?」
「僕の隣にいますよ」
「はい?」
「やっぱりにぶいな。僕は君にプロポーズしたいんだよ」
「え?えええええ!!何で!どうして!」
「好きだからに決まってるでしょ。ああ、もしかしてもう結婚しちゃった?」
「し、してません。してませんけど!」
「僕じゃダメかな。しがない一騎士だから」
「一騎士って……皇太子専属近衛でしょ?子爵でしょ?」
「子爵は兄がつぐんだ。僕は三番目だしね。専属騎士は去年交代になった。今度は国境警備だよ。転勤多いから、ついてきてくれる人もいないしね。だったら、好きな人と一緒になりたいって思うのが普通だと思うけど」
マリエラは真っ赤になって、俯く。
「一体、あたしのどこがいいんですか?」
「夜会で一目ぼれ。だけど伯爵令嬢だからね。無理だとあきらめてたんだ。ダンスも断られちゃったし」
「あたしは、今、しがないお針子ですよ。いいんですか?」
「マリエラってほんと可愛いね」
ヴァイスはマリエラを軽々と抱き上げた。そして、そっと耳元で囁く。
「僕のお嫁さんになってください」
気づけばマリエラは真っ赤な顔のままこくこくとうなずいていた。