パニック
エメリアは大通りを歩いていた。
足元の影は長くなり、もう陽が傾いていることに焦りを覚える。できれば今日中にアルバイトを見つけたい。
少しペースを上げようとした瞬間、後ろから悲鳴が響いてきた。
あれ、この状況朝にもあったような……。
またか、と思いながら振り返ると、盛大な悲鳴をあげながら人々が逃げ惑っている。朝の比ではない。
何、どうしたの?
恐怖が恐怖を呼び、その場はすぐにパニックになる。
こちらへ突き進んできていたのは、いるはずのない1匹の魔物だった。
見た目は猪のようで、魔物に現れる特徴的な黒い瘴気をまとっている。すごいスピードで、人を跳ね飛ばしていた。
なんで街に魔物が!! 今までこんなことなかったのに!
エメリアもパニックを起こし、必死に足を動かして走り出す。
不意に、横から突き飛ばされた。エメリアは堪えきれずに思いっきり転んでしまう。
見れば我先にと逃げる人が、エメリアだけでなく、他の人も突き飛ばしながら走っていた。
あの人さえ普通に走ってくれれば、私ももっと逃げられたのに、と恨めしくなる。
思わず後ろを確認すれば、魔物がこちらへ走ってきており、…………目が、あった。
恐怖で体が震える。逃げ出そうにも腰が抜けて立てない。魔物の血のような赤い目から目を反らせない。
その間にも魔物はスピードを落とさずまっすぐに突っ込んでくる。
どうしようどうしよう!
心の中はごちゃごちゃで、でもどうすればいいのかなんて見当もつかなくて。
魔物はもう手を伸ばせば届く距離。反射的に目をぎゅっと閉じる。
一瞬遅れて、軽い衝撃とともに浮遊感が襲ってきた。
…………? 痛みが、こない……?
恐る恐る目を開く。
視界いっぱいに広がったのは、きれいなオレンジ色の、空。
きれい……。
じゃ、なああぁぁあい! いやきれいだけども! 今そんなこと考えてる場合じゃない!
不意に、ふわりとしたなんとも言えぬ感覚がエメリアを襲う。そう、エレベーターに乗った時のような。
「え、うそ、やだ! 落ち……あああぁぁ!」
重力に従って落ちる、落ちる、落ちる。
エメリアは思いっきり叫んだ。その声は、ぎゃああああ! で、きゃあ! と可愛らしく慎ましくなければならない令嬢として失格であろうと思う。
だけどそんなの気にしてられない。人間、恐怖にさらされたらなりふり構わず叫ばずにはいられないと思うんだ。
「ああぁぁあああ!! ……え?」
急に横から男が現れて、驚きのあまり悲鳴をあげるのを忘れる。
え、どういう状況?
その男はエメリアの背中と膝下に腕を通し、自身の方へ引き寄せた。
魔物の体をクッションにして、スタッと地面に降り立つ。エメリアへの衝撃はわずかですんだ。
エメリアは一瞬、何が起きたかわからずに呆然とする。ただぽかんと男の顔を見る。
魔物は瘴気が消え失せ、ただの猪のようになっていた。
そういえば、魔物は瘴気を取り込んだ動物だと聞いたことがある。
この男が倒したのだろうか。状況からしてきっとそうだ。
「大丈夫か」
とりあえず助かったことだけはわかって。不覚にもぼろぼろと涙をこぼした。
まさか泣かれるとは思わなかったのか、男はおろおろと視線をさまよわせた。
「あー、どこか痛いのか?」
「いえ、ちょっと安心して……、ごめんなさい。助けていただき、ありがとうございました」
「あ、ああ、怪我がないならいい……」
エメリアがゴシゴシと涙を拭うと、男はほっとしたように息を吐き出した。
一旦落ち着くと、周りの状況が見えてくる。当然、自分の体勢も。
「わ、あああ! ごごめんなさい! 重いですよねすぐ下ろしてください!」
「いや、別に重くないけど……」
お世辞ですよねわかります!
察してくれと必死に視線で訴える。この体勢、もといお姫様抱っこは、恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。
ほーらー! 人がこっちに注目し出してる! あああー!
エメリアは大勢の視線がビシビシ突き刺さってくるのを感じた。
いやきっと、この男が魔物を倒したからだろう。
「歩けんの?」
「はい!」
コクコクと首を振る。男はそっとエメリアを下ろした。が。
「……」
「……」
「やっぱ無理でした……」
まだ腰が抜けていたらしく、へにゃりと地面に座り込んだ。
男はため息をつくと、再びエメリアを抱え上げた。
「わ!? ななな、何でまた……」
「行き先」
「……へ?」
思わぬ言葉に思わず間の抜けた声が出てしまう。
男はこちらを見てもう一度ため息をついた。
申し訳ない。いまだ混乱しておりまして。
「行き先を言え。もう夕方だ。じきに日が沈む」
連れてってくれると、いうことだろうか。
「魔石店の……、えっと確か……、あった。ここです。ノア」
地図を取り出して男に見せる。男は場所を確認すると、ああ、と呟いた。
知ってる場所みたい。良かった。
男はスタスタと迷いなく歩き始めた。
会話はないが、疲れた身には嬉しい限り。
だんだんと揺れが心地よくなってきて、エメリアは必死に睡魔と戦うことになった。