アイリ
「アイリ……?」
「…………え、姉様!?」
ぽつりとこぼした声に反応して、下を向いていたアイリは勢いよく顔を上げた。ふわふわとしたローズピンクの髪が揺れ、それと同じ色のまんまるとした瞳がエメリアをとらえる。
しばらく会っていなかったが、だいぶ憔悴しているようだった。
エメリアは動けなかった。
顔の輪郭が鋭くなり、目には疲れがありありと浮かんでいて。いつも楽しそうに笑っていた、記憶にある妹の姿との違いに、少なからず動揺した。
ここにきて初めて、エメリアは一緒に学園へ行かなかったことを少しだけ後悔した。
自分が一緒にいれば、もっと早く原因をはっきりできたのではないか、と。
……なんて、自信過剰ね。
自嘲の笑みを浮かべながら、なんとか「久しぶり」と口にした。
「姉様! 今までどこにいらしてたんですか! 私、とても心配したんですからね!」
とうとう泣き出したアイリに、エメリアは慌てふためいた。
今までアイリの泣いたところを見たことがなかったために、どうして良いのかわからない。
いつもみんなに囲まれてニコニコと笑っていたアイリを、自分が泣かせてしまったのだと重く心に乗っかってきた。
エメリアはふと、アルベルトに助けてもらった時に泣いてしまったことを思い出した。困ったようにしながらも、背中をトントンとしてくれたことを覚えている。
とりあえず何か言わなければと、エメリアは慌てて口を開いた。
「ご、ごめんなさい。えっと、どうしても独り立ちしたくて……。とりあえず保健室行きましょう? ね?」
アイリに乙女ゲームのことを言うべきではない。エメリアは独り立ちという言葉で濁した。
今ここで誰かに会ったら、アイリを泣かせたと敵視されること間違いない。アイリはヒロインだから。それに、同じ学校の生徒と部外者、どちらを味方するかと言われたら生徒の方に決まってる。
階段の途中から足を踏み外し、足をひねってしまったらしいアイリに、肩を貸して今しがた通った道を逆戻りする。
幸いそんなに高いところから落ちたわけではないようで、他に怪我はないということだった。
この世界にある魔法、その中には治癒魔法もちゃんと存在している。
度々魔物の被害に遭ってきた人々は、その甚大な損害を少しでも減らすために、戦闘面と治療面の魔法ばかりを研究・開発していた。日常的に使う魔法も研究されてはいるが、未だ前世に追いつくレベルではない。
それから、治癒魔法はそう簡単に使うべきではない。長年の研究の結果、自己治癒力……自分で怪我や病気を治そうとする力が著しく衰えてしまうことが分かったためだ。しかも立て続けに使った場合、最悪治癒魔法が効かなくなる場合だってある。だから命の危機に関わるなどのよほどの緊急事のみにしか使われなくなってしまった。
そこで登場するのがポーションだ。
体力回復、治癒力活性化など、治癒魔法に比べれば、材料探しが手間だったり、治る速度は断然遅くなるものの、こちらの方がより安全である。
「姉様、私、こういう時どうしたらいいかわからなくて……」
「大丈夫、私がやってあげる」
保健室のソファーに腰掛けたアイリが、途方にくれたように呟いた。
エメリアは手当てをするために、未だぐすっと鼻を鳴らしているアイリの足元にかがんだ。
それもそうだろう。アイリはお姫様のように大事にされてきた。怪我することなどそうそうあるはずもない。
へにゃりと眉を下げたアイリに、エメリアは安心させるように微笑んだ。
使うのは、魔石。
魔法は基本的な魔方陣(呪文)の構成さえ知れば、組み合わせたり新しく作り出したりと応用が可能である。ただし、その物質がどんなものかよく把握しておく必要がある。
簡単な魔法や普段から日常的に使う魔法など、魔法陣を暗記していればそれがなくとも魔法を使うことができる。しかし、どうしても複雑で覚えられないものは、言葉にして頭の中に入れるのだ。それが呪文。
さらに、この世界は魔法に頼りきっている部分があるため、前世よりも文明が遅れている。治癒魔法が体に良くないことを民に公表するのが遅くなったのは、魔法は万全であるという思い込みが人々の心の奥底にあるからでもあった。
つまり、この世界にはない、あるいは未発見の物質を知っているエメリアは、商品を売り出すにあたってとても有利なのだ。
これから使う魔石も、エメリアが自分で作り出した特注品。
誰かに編み出した魔法を盗まれないように、盗難防止の魔法を一緒に組み込んで一つの魔法とすることが多い。つまり、他人によるコピー系魔法の防止をして、製作者本人しか扱えないというような場合もある。
以前エメリアはちょくちょく外へ出ていたが、時々転んだりしてしまうこともあった。そんな時、侍女たちに傷を見せるわけにもいかない。外へ出ていたのがばれてしまうからだ。
だからエメリアはこの魔石を作って応急手当てをしていた。
ウエストポーチから取り出したのは、手のひらサイズの薄めの板状魔石。
エメリアはそれをアイリが座っているソファーに叩きつけて刺激を与える。
その途端魔石が淡く輝き、魔石が起動したことを知らせた。
魔石の使い方は主に二通り。何か衝撃を与えるか、自身の魔力を流して魔石を起動させるか。
アルベルトに渡した置風鈴も、風で衝撃を与えて冷風が出るように効果を工夫している。
「姉様、それは魔石、ですか……?」
「そう、私が作ったの」
アイリは不思議そうに首を傾げた。
……この世界の人は知らないかもしれない。
エメリアは手にしていた魔石をアイリの足首にーー巻きつけた。
そう、シップ。
効果は冷却、そして材質変化。
エメリアは魔石衝撃を与えて効果を発揮するようにし、ゴム状に変化させたのだ。片面は皮膚にくっつくように吸着性がある。冷やし加減はこれまで少しずつ研究していたので、多分大丈夫だ。
「すごい! 氷みたいにひんやりして気持ちいい。それにこの素材、私初めて見ました!」
「ゴムっていうの。何度でも貼り直せるから、気になるようだったら自分で直してね。」
エメリアの知る限り、この世界ではゴムなんて見たことがない。あるとしても、まだ製品として使用できる段階ではないのだろう。
興奮するアイリを微笑ましく眺めつつ、エメリアはアイリに状況を尋ねた。
「魔法学園はどう? 何か困ったこと、ない?」
「勉強は、すごく楽しいのですけれど……。一人、私につっかかってこられる方がいます」
とても困ったような顔をして、アイリはポツリと呟いた。
詳しく聞けば、公爵家のセリア・アーザイスというご令嬢が何かと嫌味を言ったり、嫌がらせをしてくるらしい。
アーザイス……、大臣の一人娘だったかな。ゲームの中では、エメリアがセリアの取り巻きとなって一緒にイジメをやっていたはず。
つまり、セリアも悪役令嬢というわけだ。主にイジメを行っていたのはエメリアだったけれど。それを理由に、セリアは断罪イベントでエメリアを切り離す。
「公爵家……」
「ラズライト家は男爵ですから、どうしようもなくて……。しかもその方、誰も見ていないところでなさるし、学園の生徒会も彼女に骨抜きにされていて……」
アイリは悔しそうに唇をかんで顔を俯けた。ふわりとローズピンクの髪が揺れる。
助けてくれる見込みはない、と。
エメリアは口元に手を当てて考えた。
それにしても、悪役である私たちが攻略対象と仲良くなることはなかったはずなんだけど。
……そのセリアも、私と同じように転生者なのかも。あるいは、私がストーリーから外れたことによるなんらかの影響か……。
「ところで姉様は今、何をなさってるんですか?」
「……ん? 私は、魔石店ノアで住み込みのアルバイトをやってるよ」
「魔石店! 姉様、魔石が好きでしたものねぇ。私も買いに行きます!」
打って変わって宝石のような瞳を輝かせ、アイリは嬉しそうに宣言した。
エメリアは眩しげにアイリを見つめて、「待ってる」と笑った。少し、嬉し涙をにじませて。
そこでふと、エメリアは自分の目的を思い出した。
そうだ、加勢に行かなきゃ!
慌ててエメリアが立ち上がり、アイリに口を開こうとした瞬間、保健室のドアがバンッと大きな音を立てて開かれた。
「くっそ、あいつどこに消えやがった……」
現れたのは、何やら苛立ちに顔を歪ませたアルベルトだった。
訂正です!セリアの爵位は公爵です。
この国での爵位は、上から順に
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵
を採用しています。