ブラックアウト
何も言ってない? ……いやいや、はっきり聞こえましたよ? やだなぁもう、タチの悪い冗談はやめてくださいよ。
「今待てっておっしゃられたじゃないですか」
「言ってないが……」
「言ったぞ」
「ほら言ったって今……え?」
ギギギっと声のした方を向く。
先ほどまで向こうを向いていたはずの魔物が、首をこちらに向けて見ていた。ゆっくりと立ち上がり、ドスンと音を立てて地面に着地する。
「本当に儂を認識しているのか。これは珍しい。……久方ぶりのうまそうな人間だ!」
「……っ!」
腹の底に響く声を歓喜に震わせ、ニタァ、と顔を歪めて笑った生物に本能で危険を察知する。
悲鳴を上げる前に、気づけば魔法を発動していた。無意識に選んだ魔法は、浄化。
基本的に魔法はイメージだ。集中が乱れればそれはそのまま魔法に反映する。アルベルトに助けてもらった時の魔物とは比べ物にならないほどの、命の危機を感じたエメリアの集中力は言わずもがな。
突如魔物の足元に魔法陣とともに現れた光の柱が、その巨軀を飲み込んで、さらに天を貫いた。
圧倒的な質量に、ズン、と空気が震える。
クラウスは突然のことに目を見開き、固まっていた。
それもそうだろう。普通ならば足元から眩しい光がパァーッと出てくるだけである。
込める魔力の差で光の強さは変わるが、エメリアはいっそ暴力的なまでの魔力でそれを行ったのだ。
エメリアは初めて思いっきり使った魔法の威力に、呆然とする。しばらくして我に返り、こんなことをしている場合ではないと今の状況を思い出した。
「……クラウスさん! ヤバイです、あれはヤバイ! 喋ってるじゃないですか!」
「何だと……? まさか魔族か!?……なぜ学園に!」
必死な顔で詰め寄るエメリアに、クラウスはハッとする。
魔物は瘴気に侵された生物で、元は普通の魔力を持たない動物だ。それに対し、魔族は最初から魔力を持つ生き物で、今は彼らのほとんどが魔の大陸で暮らしているという。高位になればなるほど強く、人語も容易に操れる。元々、各地で迫害にあっていた生き物たちだけでなく、暴動を起こしたりしていた生き物たちも一緒に初代魔王が集めたと言われている。
千年前に、魔物や魔族が人間たちの住む大陸には入れないように精霊魔法をかけたのだと、書庫で見た本にはそう記してあった。
魔法は自身の魔力を使って行うもの。精霊魔法は精霊の力を借りて行うもののことだ。精霊魔法の方が断然強い。しかし精霊から加護をもらえないと使用できないため、使える人は少ない。
まさか、精霊魔法が弱くなりつつある……?
千年だ。少しほころび始めたって不思議じゃない。むしろ千年もよく保ったと思う。
千年前にこの精霊魔法をかけたのは、聖女と呼ばれる人だった。
今は、そうだ、ヒロイン……、アイリが、聖女になるんだった。精霊王に、気に入られて。
精霊王だけが使えるという、究極の精霊魔法、王の箱庭。
その力で人間に害をなそうとした魔族たちを見えない壁ではじき出し、千年もの間、人間たちは脅威から身を守ってきた。
度々なぜか発生する瘴気に侵された魔物や各国の戦争による被害こそあれども、比較的平穏であった。
ゲーム内では選んだ攻略対象によってヒロインを気に入る精霊王も変わる。しかし水の精霊王だけは別で、代わりに高位精霊が加護をくれる。
行方をくらませている、とか深い眠りについている、すでに誰かに加護を与えている、などネットでは様々な憶測が飛び交っていた。
エメリアとしては深い眠りについているというのが有力なのではないかと思っている。
これは転生して知ったことだが、千年前、聖女に加護を与えていたのは水の精霊王だったという記述が残っている。おそらく、たくさん力を使って眠りについたのではないか、と。
しかしこれから先、その真実を知ることはないだろう。そもそも、精霊王なんて雲の上の存在。ゲームのシナリオから離れたエメリアが会うことなど、皆無に等しい。
会ってみたい気がするけど、何か粗相でもすれば一瞬で消されてしまうかもしれないことを考えると嫌だ。
エメリアの放った光の柱が徐々に細くなり、空から光の粒子がふわふわと舞い降りてきた。雲の合間から差し込んだ光に照らされ、何とも幻想的な光景である。
ーーーー無傷の魔族さえいなければ。
「そんな……」
「ふむ、これほどの魔力。よほど美味いのであろうなぁ……!」
ニタニタと笑う魔族に、冷や汗が止まらない。目からは涙が溢れ出し、体が震えて仕方がない。
いや、食べないで! こっちこないで……!
クラウスが前に進み出て、魔族の周りに何重にも結界を張って閉じ込めた。
すぐさま魔族は結界を壊しにかかる。
「……っ、私が時間を稼ぐ! そのうちに……、……エメリア!?」
「あぁ……、あああ、やだ、死にたくない、こないで……!!」
「暴走……!」
カタカタと震えるエメリアを中心に、魔力が渦を巻く。
次第に圧縮されていく魔力はやがて、数カ所に集まり、宙に魔法陣を描いて発光し始める。
発光しながらもすぐに発動しない魔法陣は、何か強力な魔法を行う前触れ。
突如淡いローズピンクの美しいアイリの瞳と対照的な、長めの黒い前髪に半ば隠れかけている、ネオンブルーの瞳が、濁る。
「……………………全部、無くなればいいのに」
別人のように表情が消え失せ、平坦な声で呟いたエメリアは、突然首の後ろに衝撃を受け、体を地面に傾けた。