【一日目】4 思うところ
第一章にあたる【一日目】パート4です。パート5まで続きます。
4
「さすがに疲れたなあ」
ジャスパーはベッドに転がり、手足を思いきり伸ばした。
肉体的な疲労や痛みはエルムの治療術でおおむね治っていたが、短時間で教えを叩き込まれた頭の疲れまでは、魔法をもってしても取り払えない。
「だいぶしごかれたものね」
エルムはくすくすと笑った。
「それにしても、バートラムさんまで教えてくれたのはびっくりだったね」
「よほどへっぴり腰に見えたんだろうな」
ジャスパーは小さくため息をついた。
夕食後、ジャスパーは宿の中庭で素振りを続けていた。
背後ではエルムがランタンを灯し、分厚い本を読み上げている。教典と呼ばれる書物だ。
「いつも同じ本ばかり読んでよく飽きないな。とっくに暗記してるんじゃないのか?」
ジャスパーは基本の動作を繰り返しながら問いかけた。
「うん、だいたいは覚えてるよ。でも言葉を一つ間違えるだけで、祝福が呪いに変わっちゃうこともあるからね。一度暗記したくらいじゃ安心できないんだよ」
「治療術も間違えるとおかしくなるのか」
「わざと効果を反転させて、傷つける術もあるよ。よほどのことがなければ使いたくないけどね」
「まあそうだろうな」
ジャスパーは剣を振りながら、再び聖句を読み上げ始めたエルムの声に耳を傾けた。
エルムが教典を読むようになって二年も経つだろうか。彼が聖句を読み上げる声と独特の音韻を、ジャスパーはすっかり聞き慣れていた。聞こえてくる言葉は平易な標準語であり、聞いたその場ではジャスパーにも問題なく理解できる。しかしエルムが先へ読み進めるたび、直前まで聞いていた内容がまったく思い出せなくなるのは不思議でならない。
もっとも、ジャスパーはその疑問の追究をとうの昔に放棄している。過去に何回か教典を見せてもらったことがあるが、びっしりと並んだ文字は見るだけで辟易させられたし、実際に読んでみても最初の数行すら暗記できなかったからだ。そんな書物を丸ごと暗記しているというのだから、エルムと自分とでは頭の出来が違うのだと納得するよりない。
バートラムが通りかかったのはそんな時だった。
冒険者の宿は止まり木亭とほぼ隣接しており、宿の中庭と止まり木亭の裏口は簡単に行き来できる。
たまたま外の空気を吸いに来たのか、裏口から姿を現したバートラムは、素振りを続けるジャスパーにゆっくりと歩み寄った。その顔にはかすかに渋面が浮かんでいる。
「動きが雑だ」
バートラムはジャスパーを止め、身体の各所を軽く叩きながら構えを直させた。
膝を曲げて腰を落とす。脇を締め、肘が横にぶれないまっすぐな軌道を腕に覚えさせる。
「やってみろ」
ジャスパーは指摘された点を意識しながら剣を振った。風切音が唐突に鋭くなり、足腰にずしりと反動を感じた。ジャスパーは目を丸くした。わずかな構えの違いでこれほどの差が出るものなのか。
「その感覚を覚えておけ」
静かに歩み去るバートラムの背中に、ジャスパーは思わず頭を下げた。止まり木亭のベテラン冒険者たちが、バートラムに敬意を抱く理由が分かった気がした。
「ねえ、ジャスパーは怖くない?」
「ん?」
質問の意図が分からず目をやると、エルムは常になく不安そうに眉根を寄せていた。
ジャスパーはベッドに横たわったまま思案した。持久力に優れる自分でも準備段階で消耗した。体力で劣るエルムがそれを見て不安に思うのも無理はない。
しかし聞くかぎりではエルフ族の冒険者も多い。彼らは総じてエルムよりはるかに華奢だ。耐久力や持久力でエルムが遅れを取るとは思えない。
「ルピニアやアトリでも気をつければなんとかなるんだろ。だったらお前は大丈夫じゃないか?」
「体力のこともあるけど、アルディラさんにはキノコ刈りって言っただけであんなに怒られたでしょ。先輩もダンジョンを甘く見たら死ぬって言ってたよね。気楽すぎたのかな、ボクたち」
「そうだな。だけどなんか大丈夫な気がしてる。明日はエドも一緒だし」
ジャスパーは一日の出来事を思い返していた。
たしかに今朝の自分たちは何も知らなかった。あのままダンジョンに挑んでいたら本当に死んでいたのかもしれない。しかし今朝と今とでは何かが違う。一足飛びに強くなったとは思わないが、半日かけて自分の無知を教えられ、危険を警戒し生き残る方法も叩き込まれた。今朝に比べれば少しだけ死から遠ざかったような感覚はあった。
「ジャスパーらしいね」
エルムは頼もしげに旧友を見つめた。不安に曇っていた表情は少し和らいだようだった。
「……なあエルム。お前だって、エドを投げ飛ばすくらい強いんだ。お前はもう二年前のお前じゃない」
目のやり場に迷い、意味もなく天井を見上げながらジャスパーは続けた。
「まだ続けるのか、それ」
エルムはベッドに背を向け、静かに歩き出した。
その足が廊下へ続くドアの前で止まる。
「……ボクは忘れちゃったらいけないと思う。だから届かなくちゃいけないんだ」
背中越しの声は平坦だった。
今のエルムの表情を想像しかけ、ジャスパーはかぶりを振って考えを打ち消した。小さく息をつき、もう一度伸びをする。
「治療ありがとな。助かった」
「うん」
短い返事を残し、エルムはドアの向こうへ姿を消した。しかしドアの閉まる音が聞こえない。奇妙に思ったジャスパーがそちらを見ると、エルムが再び顔を覗かせていた。
「じゃあねジャスパー、お休み♪」
無邪気な笑顔を浮かべ、エルムはドアを閉めた。
遠ざかっていく足音を聞きながら、ジャスパーはため息をついた。
「……無理するなって言ってるのに」
パート5へ続きます