【一日目】1 最初が肝心
第一章にあたる【一日目】パート1です。【一日目】はパート5まで続きます。
たいまつの明かりに照らされ、それは闇の中にぼうと浮かび上がっていた。
双眸に悪意と殺意をたぎらせた灰色の魔物。
「バカ野郎、そいつから離れろ!」
背後から大声が響いた。少年を睨んでいた魔物が首をめぐらせ、視線が外れた。
――今しかない。一撃だけでいい!
少年は剣を腰だめに構えて地を蹴った。
魔物は即座に反応し長い腕を振りかざした。太い爪が揺らめく光に鈍く輝いた。
――腰を落とせ。脇を締めろ。
英雄と呼ばれた戦士の教えが脳裏をよぎる。
風を切る魔物の爪が、少年の頭を砕かんと迫った。
【一日目】
1
――なんや、危なっかしいな。
トレイにグラスを載せて歩いてくる少女に対し、最初に浮かんだ感想がそれだった。
少女は小柄だった。首も腕も脚も、ルピニア自身と比べてさえ頼りなく感じるほど細い。二つに束ねた金髪の下で、妖精族の特徴である長く尖った耳が見え隠れしている。両手で支えるトレイの上でグラスの水が暴れるたび、少女の深緑の瞳が忙しく左右を往復した。
少女はルピニアと同じ、森の妖精エルフ族だ。年頃も自分と同じくらいだろう。しかし里では見覚えのない顔立ちと髪の色だ。たしか穴ぼこ山の向こうにも、エルフの里があると聞いた覚えがある。少女はそちらの出身なのかもしれない。
「お、お待たせしました」
ようやく到着した金髪の少女が、覚束ない手つきでグラスを差し出した。細い左腕一本で支えるトレイは不安定に揺れ、見ているルピニアの方がはらはらさせられた。
「あ、ああ。足元気をつけるんやで」
少女は顔を上げ、きょとんとした表情を浮かべた。聞いたことのない訛りだったのだろう。
ルピニアは頬をかいた。知り合いの人間から教わった標準語が、あまり標準的ではないらしいと気づいたのはごく最近のことだった。
「……ええと、ありがとうございます。ごゆっくり」
少女は頭を下げ、別のテーブルにグラスを運んでいく。相変わらず足取りが危なっかしい。ルピニアはなんとなくその後ろ姿を見送った。
止まり木亭。
日夜多くの冒険者たちが依頼と食事を求めて集う、いわゆる「冒険者の店」だ。
一般に冒険者とは、財宝を求めて古代遺跡を探索する者を指すが、同時に荒事一般を請け負う何でも屋の側面もある。冒険者の店はその手の仕事を斡旋する場だ。
この店を利用する者の多くは場数を積んだ冒険者だが、ルピニアのように経験が浅い若年冒険者にも門戸は開かれている。大半のテーブルがベテラン向けの「酒場」に属するのに対し、彼女が陣取るテーブルは若年冒険者の集まる区画、通称「定食屋」に属していた。
客層が変わればメニューもサービスも変わる。先の金髪の少女のように、明らかに不慣れな給仕娘が大目に見られるのも「定食屋」ならではの光景だった。
「あら感心。時間どおりね、ルピニア」
張りのある声に振り向けば、エプロン姿の女性が腕組みして立っていた。尖った耳はルピニアや先ほどの少女と同じ、エルフ族の証。ただしその身から漂う存在感や迫力は彼女らの比ではなかった。
止まり木亭の女将アルディラ。かつて英雄と呼ばれ、今なお王宮泣かせの女司教との異名をとる女傑だ。
「おはようさん、アルディラはん」
ルピニアはくだけた挨拶を意識しながら会釈した。
アルディラは無理に丁寧な言葉遣いをされると、逆に機嫌をそこねると噂されている。しかし仮にも英雄と呼ばれた女性を前に、どこまでくだけた態度をとって良いものか。知り合って間もないルピニアとしては距離の測り方が難しい相手だった。
「それでいいわよ。あたしには気軽に挨拶なさい。取って食べやしないから」
アルディラは満足げに笑い、店の入り口に向かって手招きした。扉をくぐってすぐの辺りで、少年と少女の二人組が所在なげに立っている。
「ほら、二人ともこっち来なさい」
ルピニアはテーブルに近づいてくる二人を眺めた。
最初に目を惹いたのは彼らの耳だった。少年の耳は手のひらほどの大きさがあり、柔らかそうな焦茶の毛に覆われていた。隣の少女は一対の三角形の耳が頭上に突き出ている。
「〈ルーツ〉違いの獣人が二人連れ? けっこう珍しいんやないか」
「まあ変わり種ではあるわね」
アルディラには動じた様子もなかった。
少年たちは獣人と呼ばれる、身体に動物の特徴を宿す人間型の種族だった。その発祥は定かでないものの、人間族の亜種であるとの見方が一般的だ。
顔立ちや体格からすれば、二人とも成人したばかりだろう。特徴的な彼らの耳は落ち着きなく動いている。それが冒険者の店という特殊な空間への好奇心によるものか、アルディラに対する緊張によるものかは判別が付きかねた。
「登録も済んだことだし、これであなたたちも晴れて冒険者。あのダンジョンに挑む資格を認めるわ」
テーブルに集まった三人に、アルディラは笑みを浮かべてみせた。
「自己紹介を済ませておきなさい。新米のあなたたちに、ちょうどいい依頼を紹介してあげる」
カウンターの奥に戻っていくアルディラの背中を見送り、三人は誰からともなく安堵の息を漏らした。
「まあ順番にいこか。ウチはルピニア。射手や。見てのとおりエルフ」
「オレはジャスパー。戦士だ。獣人で〈ルーツ〉は犬」
ジャスパーは比較的がっしりとした体格で、腕力や耐久力に秀でた獣人と見えた。少しもっさりした茶髪が毛深い犬を思わせる。興味深げにルピニアを見る赤茶色の瞳からは、邪念や疑いといったものが一切感じられない。
濃い目の赤いシャツに焦茶色のズボン、薄茶色のベストやブーツと、服装は赤茶の系統でまとまっており、地味ながら力強い印象を受けた。
「ボク、エルミィだよ♪ 神官で〈ルーツ〉はリス」
エルミィは細身で小柄だった。ジャスパーとは反対に、身軽で器用なタイプの獣人のようだ。ややくせのあるロングの髪は淡い金色。薄緑の瞳は好奇心に輝いていた。
髪や瞳の色以上に、ジャスパーと対照的な印象を与えているのは服装だった。目に鮮やかな薄緑のワンピース。スカートには白いフリル。白のエプロンとハイソックスもフリルで縁取られ、いくつか取りつけられた薄茶色のリボンが良い具合にアクセントになっている。白い帽子はシンプルなデザインながら、服装全体の色バランスをうまくまとめていた。可愛らしさをとことん追求したようなスタイル。彼女にはそれが違和感なくなじんでいる。
ルピニアは自分の服装をちらりと見た。
シンプルな白のブラウス。落ち着いた藤色のジャンパースカート。スカートの縁には申し訳程度のフリル。足元は黒のタイツ。ブラウスの襟を少し大きめにしたり、髪の色に合わせて薄紫のリボンを着ける程度のこだわりはあるものの、エルミィと比べてしまうと地味の一言しか出てこない。
過度の装飾は趣味に合わないし、そういった服は自分に似合わないと達観しているつもりでいたものの、いざそれを着こなす少女を目の前にするといささか複雑な気分だった。
「よう知らんけど〈ルーツ〉が犬とリスで喧嘩になったりせんのか?」
「獣人村じゃそんなこと気にしないぞ。そりゃ猫とネズミなんかはやりにくいみたいだけど、だからって食べるわけじゃないしな」
「長い付き合いだものね♪」
エルミィはにこにこと笑みを絶やさない。何がそれほど楽しいのかルピニアには見当がつかなかった。
「お待たせ。これがあなたたちへの依頼よ」
羊皮紙を手にアルディラが戻ってくると、三人の背に緊張感がよみがえった。
「ファンガスの傘を十五個集めること。食材だから丁寧に扱うように。期限は三日以内」
「ファンガス……ああ、大キノコってやつだな」
ジャスパーが安心したようにうなずいた。
「すぐ行くか?」
何気ない提案に、エルミィが無邪気にうなずいた。ルピニアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ちょっとお待ち」
アルディラがジャスパーの後ろ襟を掴んだ。
「すぐ行くって? その格好で?」
「ジャ、ジャスパー、ちょっと待ち――」
ルピニアの制止は間に合わなかった。
「え、だってただのキノコ刈りじゃ」
アルディラのこめかみにくっきりと青筋が浮かんだ。
後になって振り返っても、その後の数分間に関してルピニアの記憶はあいまいなままだ。怒号に耳が痺れたこと、気がつけばジャスパーが窒息寸前でテーブルに突っ伏していたこと、手のひら大の皮袋がテーブルを叩いてガシャリと音を立てたことは覚えている。
「いいこと? このお金をあなたたちに貸してあげる。これでそのナメきった装備をどうにかしてきなさい。クエストを達成できたら、残りの金額は報酬としてあなたたちのもの。ただし」
アルディラは両手を腰に当て、三人を睨みつけた。
「あくまでも、そのお金は貸すのよ。クエストに失敗したら即座に借金になる。……さあ、分かったらさっさとバッタモンド商会へ行ってきなさい!」
ただうなずくことしかできないまま、三人は追い出されるように店を出た。
「あれが止まり木亭の先払い式労働力ってやつか」
「ありゃもう逃げられねえぜ……くわばらくわばら」
酒場区画で息をひそめていたベテラン冒険者たちのささやきは、三人の耳に届くことはなかった。
バッタモンド商会は冒険者が必要とする武器防具など装備品のほか、毛布やランタン、火口箱や調理器具など、多種多様な雑貨品を取り扱う大型商店だ。止まり木亭を半ば叩き出されたジャスパーら三人は、いまだ続く耳鳴りに顔をしかめながら扉をくぐった。
「いらっしゃいませ。おや、見かけないお客様ですね。新規登録された冒険者ですか」
やや歳のいった男性店員が三人を出迎えた。
「せや。最低限の装備と道具を揃えたいんやけど」
「すると、あなた方が連絡のあった方々ですか」
店員は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、内容をあらためた。
「ルピニア、ジャスパー、エルミィのお三方で間違いありませんか」
「連絡やて?」
「夕べのうちに知らせをいただいております。当店と止まり木亭は親密な関係ですので」
「噂の冒険者支援ネットワークやな。そこまで良くできとるとは思わんかった」
ルピニアが感心したように頷いた。
「噂なの?」
きょろきょろと周囲を見回していたエルミィが口を挟んだ。
「あんた、なんも知らんで止まり木亭に来たんか?」
「止まり木亭が、魔王を倒した冒険者の開いた店だってことは知ってるよ。たしかバッタモンド商会も、あのひとたちがこの村に呼んだんだよね」
「そのとおりです。冒険者はダンジョンで価値ある物品を見つけ、当店がそれを買い取る。一方で当店は装備品などを提供し、冒険者はより強くなる。お互いに利益がある良い関係です」
「……もしかして、オレたちの予算もお見通しだったりするのか?」
店員は穏やかな笑顔をジャスパーに向けた。
「おおよそ見当はついております。初心者向けクエストの報酬金と、装備類の準備金といったところでしょう」
「そんなら遠慮なく相談させてもらうわ。正直ウチは武器の相場なんてよう知らんし。言い忘れとったけど、ウチは自前の弓を持ってきとる。ウチの武器の分はあんたらの装備か道具にまわしてええで」
「最初はひととおり揃えることが肝心です。大型の武器や金属鎧は、おいおい購入されるのが良いでしょう。まずは皮の防具をお勧めします」
店員は装備品の見本と様々な雑貨を持ち寄り、三人の前に並べてみせた。
ジャスパーとエルミィの防具には軽量な皮鎧。武器にそれぞれショートソードと、軽い金属製の錫杖。加えてジャスパーには、手のひら二つ分ほどの面積がある小盾。ルピニアには皮の胸当てと、弓弦から腕を守る保護帯。他にも背負い袋や毛布、調理器具やランタン、小型ハンマーや火口箱など細々とした道具一式。素人の目で見ても、性能と価格のバランスが取れた品揃えのように思えた。
次々とテーブルに並べられていく品々を前に、エルミィは目を丸くした。
「ジャスパー、怒られるわけだね。こんなにいろいろと必要だなんて」
「ああ。これから迂闊なことは言わないよう気をつける」
ルピニアは安堵した。エルフの里を出て間もない自分に、人間たちの相場感覚は分からない。この二人がまともな認識を持ってくれなければ、金銭面に大きな不安を残すことになるだろう。
「これええな。……けど買い換えるんはもったいないか」
ルピニアは大型のフライパンを手に思案していた。
ジャスパーはルピニアの手元を覗き込み、首をかしげた。彼女が握るフライパンは鉄ごしらえで、卵焼きであれば三、四人分は問題なく作れそうな大きさだ。大人数のパーティが何日も地下にこもるならともかく、自分たち三人にとって今すぐ必要な道具とは思えない。
「こんなでかいフライパンどうするんだ? 持ち運ぶの面倒だろ」
「でかくて頑丈なほど使い勝手がええんや」
「そういうもんなのか」
「ジャスパーは料理苦手だものね」
エルミィがくすくすと笑った。
「それより、あんたらはさっさと鎧を買うてき。あっちで採寸してもらえるで」
「そうだな」
「うん♪」
歩き出したジャスパーとエルミィをなんとなく見やり、ルピニアは自分の目を疑った。
ジャスパーの向かう先に男性用の採寸室がある。そのことは何ら不自然ではない。しかしなぜ、エルミィがその後をついて行くのか。
「あ、あの、お客さん。女性の方はこちらで採寸を……」
異常に気づいた女性店員がエルミィを引き止めた。
「え? ……ああ、そっか」
エルミィは苦笑をにじませて振り返った。
「ボク、男なんだけど」
「……は?」
ルピニアの目は点になった。かくも理解に苦しむ言葉は他に聞いたことがない。
「何を言ってるんですか。こっちですよ」
女性店員が苛立たしげにエルミィの腕を掴み、女性用採寸室に入っていく。
「しまった!」
男性用採寸室からジャスパーの騒ぐ声が聞こえた。
「エルム、ちょっと待て!」
「店員さんが信じてくれないんだよ」
カーテンの向こうで応えたエルミィの声には困惑と、どこか諦めの雰囲気がただよっていた。
やがて女性店員の悲鳴が店内に響き渡った。
「やっちまった……」
採寸室から首だけを覗かせたジャスパーが深いため息をついた。
ルピニアは左右の採寸室を交互に見やり、呆然とつぶやいた。
「……ひょっとして、ほんまに、男なんか?」
「悪い……いろいろあるんだ」
ジャスパーがうなだれた。
男があの服を着こなしているだと?
ルピニアはうまく回らない頭の中で、自分の常識が崩れていく音を聞いたような気がした。
パート2へ続きます。