板東蛍子、肩が凝る
板東蛍子は友人の背に手を伸ばすべきか迷っていた。彼女が本に熱中している様子だったからだ。
藤谷ましろは蛍子の友達であり、図書委員でもある。彼女は今日も放課後の図書室にて日課の図書整理に励んでいた。板東蛍子は陸上部の助っ人を終え、帰路につく準備をしている折、図書室の蛍光灯が未だに主張をやめていないことに気がつき、部活の後の程良い汗を過去へ置き去りながら図書室へと飛び込んだところ、ましろが書棚の合間にて立ち尽くしている場面に出くわしたのであった。藤谷ましろは両手で持った本の表紙を顔を寄せてしげしげと見ていた。蛍子の立ち位置からはその本がどういう類いの書物なのか判別することは出来なかったが、首を竦めるようにして顔を近づけたり離したりしている友人の様子を見るに、余程興味のある本なのだろう、と予想した。蛍子は本を読んでいるましろが好きだった。普段は及び腰でか弱さの際立つましろだが、本に集中している時だけは瞳から様々な感情を無邪気に溢れさせる。とても輝いて見えるのだ。板東蛍子は友人の輝きを奪うような野暮なことはしたくなかった。何より、夕暮れの中の図書室にて、本で西日の影を作る少女の姿は、中々に絵になるものなのであった。
急ぎの用があるわけでもない蛍子は、ひとまず彼女の様子を観察しながら放課後の暇を潰すことにした。よくよく見てみると、藤谷ましろは時折足踏みをしていた。何かに踏みだすきっかけを探しているかのような、あるいは何かを恐れていつでも逃げられるようにしているような、そんな足踏みだ。遠くから猫の鳴き声が聞こえるたびに思い出したようにビクリと肩を震わせている。あれはワクワクしてるのかな。それとも読むのを躊躇ってるのかしら。蛍子は運動後のせいか妙に重い肩を叩きながら、彼女の様子から本の内容を予想すべく光景に没頭していった。
藤谷ましろは書棚の影に隠れながら、図書室の窓に腰掛けた男と猫を観察していた。委員会の都合で一度図書室を離れ、時間を置いて再び戻ってきた彼女は、図書室の中から猫の鳴き声を聞き取った。慎重に歩を進めたましろは、書棚の向こうの、自習用の机が並ぶスペースの窓辺に、見ず知らずの男と猫が並んで座っているのを発見した。男はこの学校の生徒ではなく、また教師でもない。長身の青年で、黒髪の短髪に不似合いな青い瞳をしている。撫で心地の良さそうな三毛猫の方は何処かで見覚えがあったが、しかし子細は思い出せない。いずれにせよ確かなのは、この青年と猫が図書室にいることは学校側としては許可していないことであろうということだった。猫はまだしも、男に関しては明らかな不法侵入だ。端的に言ってしまえば犯罪者である。善良な図書委員である藤谷ましろは、突如訪れた社会の闇との対峙にどう対処したら良いか分からず、ひとまず書棚の影に身を隠して様子を見ることにした。身を縮め、手に持った「全体主義の起原」で顔を隠しながら、時折前方をチラチラと覗き見る。あまり格好のついた姿勢とは言えなかったため、今の自分を誰かに見られるようなことは避けたいなぁ、とましろは上の空で考えた。
「ニャア」
「ミャオミャ」
ましろが不法侵入者に声をかけることを躊躇っていたのは、ただ怖いからという理由だけではなかった。ましろには窓辺を陣取る一人と一匹が会話をしているように見えた。猫が鳴くと、男が前方を見ながら淡々と猫の鳴き真似をし、それを受けて再び猫が口を開く。彼らは一定の感覚を保ちながらそんな不思議な声掛けを繰り返していた。ましろは眼前の奇妙な状況に興味があったし、幸福そうに見える一人と一匹の時間を積極的に奪いに行きたくもなかった。何より、夕暮れの中の図書室にて、茜を背に語らう青年と猫の姿は、中々に絵になるものなのであった。
「ミャウ」
「ニャウミャウ」
(ふふ・・・)
藤谷ましろは段々と幸せな気分になっていった。あの仲良しの二人はどんな会話をしているんだろう、とましろは思った。きっとご飯の話とか、好きな猫の話とか、そういった可愛らしい会話をしてるんだろうな。日がな一日過ごしている猫に付き合うあの酔狂な男の人も、きっと呑気な人柄に違いない。ましろはそんなことを思いながら、微笑ましい光景をもう暫く見守ることに決めた。
「カントの“視霊者の夢”という著書を読んだことは?」
猫の問いに、タクミが首を横に振る。黒髪が黄昏に揺れた。
「スウェーデンボルグという神秘主義者の幽体離脱男がいるが、その男の思想を批判した書物だ。目の曇りきった神秘主義者なんて連中を理性によって論駁するというのは中々出来ることではないよなぁ。感動したぞ」
そう言って轟は食事の匂いを鼻で堪能する時のように眼を閉じ、大仰に顎を掬い上げてみせた。
轟は自我を持った野良猫である。普段は公園近くのカーブミラーの前に座り込み、哲学の途を極めるべくひたすら禅の修行に励んでいるが、時折哲学書を拝読するためにこうして本のある場所に赴き、興味のある論考を借りたり返したりなどしている。猫は今日も今日とて新しい知との出会いを求め、公園で暇そうにしていたタクミという猫語を介する男を連れとある私立高校の図書室を訪れていた。
「しかし、論駁と納得は別問題です。カントの論駁が如何に理性的に正しくとも、それによってスウェーデンボルグが納得するかどうかはカントが決められることではありませんし、納得していないなら事実上の変化は何も生まれていない」
タクミの発言を受け、猫が目を開ける。彼が言葉を続けた。
「それに、哲学観念と宗教観念は両立され得るものです。二つは対立したものではない」
「・・・たしかにそうだな」と轟が同意を示す。
「社会に散らばった二項対立は思い込みや意地によるところが殆どだ。カトリックは知を探求することを奨励しているし、原初の哲学は自然への信仰から生じた。カント自身、神秘主義を批判はしても、個人としてはスウェーデンボルグに一定の敬意を払っていたようだ」
真の対立が滅多に成立しないのは、互いの正しさを完全に証明することが困難だからだろう。猫はそんなことを考えながら、書棚の方に向かって歩き始めた女幽霊を眺めた。
「・・・カントは好きだが、残念ながら現に霊的存在は実在するしなぁ」
そう言うと、轟はタクミが肉球を触ろうとこっそり手を伸ばしてきていることに気づき、荒っぽくそれを振り払った。
「私たちが批判精神によって成し得ることは答えを一つの事実に絞ることではなく、ただ知ることのみだ、ということではないでしょうか」
何事もなかったかのようにタクミが淡々と言う。そのようだ、と轟は首肯し、ふんと鼻を鳴らした。
「ただ知ることのみか。今の言葉には哲学的模索と宗教的信仰を同時に感じたぞ」
事実は一つに絞れないというのはまさにその通りだろう、と轟は考えた。物事は多義的で、見る者の捉え方次第で印象がガラリと変わる。たとえば、そこの書棚に身を隠しているつもりでいる少女には、先程自分の身体を年若い女幽霊が通過していったとは想像もしていないだろう。きっと夕日に照らされる我々をこの室内の唯一の存在だと思っていて、その姿に大人の渋い哀愁を感じ取っているに違いない。彼女と同様に、俺もあの女幽霊が何を考えて板東蛍子の肩を揉んでいるのかさっぱり分からない。事実はそれぞれによって違うものとして映る。我々に出来るのは、そういった世界の出来事を少しでも正しく認識出来るよう、物事を精査していくことのみに違いない。
公園に帰ったら早速カントを再読しよう、と轟は一匹静かに決心しつつ、懲りずに肉球に手を伸ばす自己批判のない友人を引っ掻いた。
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