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猫又

作者: 壱岐津 礼

 猫又の出自は定かではない。

 何しろ、うちで生まれたわけではない。何処で、どのような猫を母に生まれたか、などという素性も知れない。貰い受けてきた父の話によれば、贔屓ひいきのサ店の親父が拾ったのだという。

 ややこしい話だが、うちの親父が贔屓にしているサ店を経営する親父が、ある日、おそらくは早朝、犬を散歩に連れ出していた。犬の散歩道には某神社の境内が入っていたらしいのだが、その神社の裏参道の鳥居の傍で、みゃおみゃおと、か細く鳴いているのをまず、犬が見つけた。次いで、犬の飼い主が見出した。

 その当初、見かけは仔猫であった猫又は、しばし、犬を養い親として育った。

 ところで、そのサ店の親父は、よく犬猫を拾うたちであって、当時、散歩に連れ歩いていた犬を含めて六、七匹飼っていたらしい。今後大きくなるであろう口を一つ加えては、はなはふところが痛い。という事情でもって里親を探していたところに、うちの親父が引っ掛かった次第である。

 ここまでは伝聞であるが、拾われてきたという場所からして、どうにも怪しい。ただの猫が、そうそう鳥居の傍で鳴いているものでもあるまい。また、サ店の親父にはどういった声で呼びかけたものか知らぬが、我が家に来て以降の猫又の声は、甚だ聞き苦しい、しゃがれた厭な声であった。

 自分とて、はなから猫又を猫又呼ばわりしてきたわけではない。当初は別の名で呼んでいた。何故なにゆえにか、いたく猫又を気に入った父は、書くのも気恥ずかしくなる可憐な名をつけた。しかし、猫又の振る舞いは、その名に恥じず、とはいかなかった。

 まず、台所のゴミ箱に潜り込んで中身を撒き散らした。コンロの上に上がって鍋の中を漁ろうとした。テーブルの上にあるものは言うに及ばず。水屋の引き戸まで開けて鼻面を突っ込もうとするものだから、至る所にガムテープで封印がなされた。ゴミ箱も、厳重に蓋がされた上に重石おもしが置かれた。

 けして―――我が家の名誉の為にも断言するが、けっして、ひもじい思いをさせていたわけではない。餌は毎日充分にやっていた。充分に食べた上でなお欲しがった。底無しに飢えているのではないか、と思えた。

 そして、よく吐いた。

 猫は元よりよく吐く生き物ではあるが、猫又の場合、これ見よがしに廊下だの、階段だの、ともすれば人が裸足で踏んでしまいそうな場所に吐き戻すのである。父は魅入られているものだから、猫又が吐く度に血相を変えて医者に電話し、往診を頼むのだが、その度に「問題は無い」「健康である」と告げられるのであった。

 更に、此奴こやつめには脱走癖もあり、父を悩ませた。家人の中でも殊に鈍重な父の出入りの際が、よく狙われたのである。傍らをすり抜けても咄嗟とっさには取り押さえられぬと知って、するりと外に出る。抜け出して、してやったりという顔で振り返る。我が家で最も彼奴きゃつに愛情をかけてやっている父に対しても、何ら恩義というものを覚えぬと見えた。

 外に出てしまったものは、戻る気になるまではどうにもならない。捕まる気の無い獣の足に、のろまな人が太刀打ちできるわけがないのだ。そうして、散々父を嘆かせた後に、悠々と戻り、戸口で例のしゃがれた厭な声で「開けろ」と催促するのである。

 一度、自分が勝手口のドアを開けた時にやられた事がある。「あ」と思ったが、腹が立ったので追わずにバシンと戸を閉めて鍵をかけてやった。追われなかったことで逆に戸惑ったのだろう。すぐにドアを引っ掻く音と、開けろと催促する声が聞こえた。が、無視してやった。

 いい気味だと思っていた。しばらく閉め出して頭を冷やしてやれば、いかに性悪猫といえど懲りるであろう。と、たかをくくって茶を啜っていたところ、戸外より妙な声が聞こえた。

 猫の声ではない。猫又の、あのしゃがれ声ではない。

 人の声では勿論、ない。

 妙にリズミカルに哭いては止む、その響きは、とにもかくにも危急を報せていているようで不気味であった。

 母にまで「庭に何やおる」と言われて、恐る恐る見に出れば、彼奴めが池のはたで蛙を踏みつけていた。不気味、と聞こえた声は、蛙の命乞いだったのである。助けを求めるのが面白いのか、ぎゅうぎゅう押さえつけて鳴かせていたのである。リズムを刻んでいたのは彼奴の前足であった。

 「こらっ」と、一声叱りつけると、ぱっと獲物を放して、開け放っていた勝手口から家に駆け込んだ。蛙は、どうやら深手を負ってはいなかったようで、自由を取り戻すや、ぽちゃんと跳ねて池に飛び込んだ。先にも述べた通り、食い物に不自由はさせていない。純粋に、「遊び」の為に蛙を捕らえて虐めていたのである。

 この一件の報告に、さすがの父も「あれは悪いやっちゃ」と頷いた。「この世で一番悪い生きもんは人間やけど、あれは、人間の次くらいに悪いかもしれんな」と、言ったものである。


 さて、ここまでの話では、「普通の猫でも、よくあること」と思われるかもしれない。

 これらとは別に、猫又が猫又であると確信を抱くに至る出来事があったのである。


 父母が旅行に出た夜のことである。

 晩飯は済ませ、猫又は猫又部屋に閉じ込めてあった。というのも、例の脱走癖と、いたる所で吐き戻す癖の為、さしもの父も、対策を講じるに否やは無かったからである。

 一人、留守を守る身の気楽さ、寂しさも相俟あいまって、友人宅に電話をかけ、日頃は家人に咎められてなかなかできぬ長電話に興じていたところ、部屋の外に気配を感じた。

 とてとてと何か歩く音がする。部屋の戸の前で止まった。もう、こちらは世間話どころではない。身の毛のよだつ思いとはこのことである。

 と、扉の向こうでガリガリと引っ掻く音に続いて、聞き慣れた厭なしゃがれ声が聞こえた。

 まさか、と思いつつ、開けてみれば、そのまさか、である。猫又は何食わぬ顔で入り来て、のしのしとひとしきり歩き回った。

 猫又を閉じ込める為の部屋の戸は、ノブを回さなければ開かない。ノブは丸い形をしている。猫の前足がどれほど器用であったにせよ、並の猫ならば、これを掴んで回すなどできぬはずである。鍵こそかけてはいなかったが、開けることなどできぬはずである。できぬはずであるから、鍵をかけていなかったのである。

 厭なやつだとは思っていたが、さては化け物であったか。嫌悪の上にも嫌悪を増した。

 翌日、帰宅した父母に話しても、「気のせい」であろう、と一笑に付された。戸を閉め忘れていたのであろう、と。閉め忘れてなどいない。

 以来、猫又が猫又であることは、自分独りの知るところとなった。「あいつは、もう一本の尾を隠しているに違いない」と言っても、冗談と受け流された。孤立無援である。ただ母は、父とは対照的に猫又を嫌っていた。


 二十年の月日が経った。


 仔細は省くが、自分の身の上にも様々に浮沈があった。一時は家を離れて都会に出、独り暮らしなどもしていたが、両親も老い、元々足元の危ういところのあった父はいよいよ危うくなり、このところ母も元気が無い、とのことで帰る運びとなった。

 父母の髪は真っ白に変じ、父など、頭のほとんどがひたいという有り様であったが、猫又は一向に老いて見えなかった。

 さすがに最早仔猫ではなかったが、丸々と肥え、ふかふかと毛を膨らませ、相変わらず厭な声で鳴いた。

 トイレは、世話をしていた母が弱ったせいでおざなりに放置され、異臭を放っていた。仕方が無いので、自分が砂を掘り返し、糞尿の始末をしてやった。ふと顔を上げると、猫又がこちらを見ている。いかにも怪しい、不穏な目付きで見ているので、言ってやった。

 「おまえな、長年、面倒見てもろて、ちっとは恩義いうもんを感じひんのか。ただの猫とちゃうやろ。猫又やろ。尻尾隠してんの知ってんねんえ?置物の猫でも福招くんや。ただの猫やない猫又やったら、景気のええ話の一つも呼び寄せてみんかい」

 母が倒れたのは翌朝であった。

 救急を呼び、付き添って家を出る間、父は呆けたように立ち尽くしていた。

 長い時間、廊下で待たされ、次いで、点滴を吊るした台に付き添い病室まで行き、諸々の手続きの書類にサインし終えた頃、家から電話だと、看護師が呼びに来た。

 出てみれば父である。「猫がおらん」と、泣きそうな声で訴える。猫のことなど自分が知るわけがない。家を出た時、玄関を開け放っていたので脱走したのかもしれない。逃げたにしても、放っておけば、そのうち気が済んで戻るだろう。そう答えれば、今度は怒りだして「死んだ方がまし」だの「首を括る」だの物騒なことを怒鳴り散らす。らちが明かぬので、「帰ってから捜す」と、とりなし、切った。どのみち、一度は母の荷を取りに戻らねばならない。

 早朝に家を出たのが、帰宅する頃にはとっぷりと暮れていた。玄関には灯りも点いておらず、開けて父を呼んでも返事が無い。猫又の前にまず父を捜せば、自室の布団に早、もぐり込んでふて寝している。声をかければ、「わし、もうあかん。このまま死ぬわ」と、虫の息を装う。

 かまったところで時間の無駄である。消沈しておとなしくなってもいることであるし、ふて寝したいだけ、させてやることにした。

 鞄の中に母の入院の支度を詰めながら、一通りは家中を見渡した。猫又の姿は確かに無かった。父が捜索途上で散らかしたのか、出しなよりも些か雑然としていたが、片付ける気力は無かった。自分も寝ることとした。


 何時間、横になっていたか。枕元に気配を感じて目を開ければ、真っ暗闇の中、二つ並んだ黄色く光る眼が、傍に在った。

 なんだ、この部屋に潜んでいたのか。人騒がせな。目を閉じると、耳元で、厭なしゃがれ声が言った。

 「疲れてるようだな」

 ああ、疲れているとも。朝からの騒ぎに加えて、おまえのせいで余計に疲れた。

 「もう、死んだ方が良いな?」

 ふて寝していた父の言葉を思い出した。あの親父は歳を取ってからこっち、二言目には死ぬ死ぬと騒ぎ出す。

 「おまえは何もわかっとらへん」目を閉じたまま、声に応えた。「ねとるだけや。放っとけや」

 声はそれっきり、途絶えた。


 以来、猫又の姿は見ない。

 母の容態は持ち直した。父は繰り言を紡ぎながら永らえている。

 「あいつ、もう死んだんやろか」

 時々、猫又のことを思い出して未練がましく言う。「可哀想になぁ。うちにおったら看取ってやったのになぁ。葬式も立派なん、出してやったのになぁ」

 可哀想なものか、と、自分は思う。猫又のことだから、死んではいないだろう。猫又のことだから、昔むかしから化け猫が修行の為に詣でるという、猫嶽ねこだけにでも行ったのではないだろうか。

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