私を捨てて妹を選んだ元婚約者へ。氷の公爵様に溺愛されて忙しいので、視界に入らないでいただけますか?
「──エレノア。お前との婚約は、本日をもって解消する」
白亜の広間に、アルヴィン・セルウィン侯爵子息の声が響いた。
周囲の貴族たちがざわめく中、名を呼ばれたエレノア・クレスウェルは、一拍の間を置いてから静かに顔を上げた。
「理由を伺っても?」
「理由?」と、アルヴィンは嘲るように笑った。
「お前のように地味で愛想のない女より、リゼットの方がよほど私の隣に相応しい。──そうだろう?」
彼の腕にしなだれかかるようにして立っているのは、エレノアの一つ下の妹、リゼット・クレスウェルだった。蜜色の巻き毛に青い瞳、愛嬌たっぷりの笑みを浮かべて、姉を見つめている。その目には同情も罪悪感も、ひとかけらも無い。
「ごめんなさいね、お姉様。アルヴィン様が、どうしてもと仰るものだから」
リゼットがころころと笑う。周りの令嬢たちも、あからさまに同情と蔑みの混じった視線をエレノアに向けていた。可哀想だけれど仕方がない。妹の方が美しいのだから。そんな無言の合意が、広間の空気を支配している。
──ああ、やっぱりこうなったか。
エレノアは胸の奥で、ごく小さなため息をついた。驚きはなかった。
──愛想を振りまく暇などあるわけがない。あなたの領地のずさんな帳簿の尻拭いと、商人たちとの違約金交渉を夜通し片付けていたのは誰だと思っているの?
アルヴィンがリゼットに夢中になっていることなど、半年も前から気づいていた。夜会のたびに妹と踊り、妹に花を贈り、妹の冗談に笑う婚約者の姿を、エレノアはいつも少し離れた場所から眺めていた。それを指摘する気にもならなかったのは、そもそもこの婚約が両家の利害で結ばれただけのものだからだ。
──彼の領地経営を一生裏で支え続けるのは憂鬱だったし、まあいいか。
アルヴィンはエレノアを愛したことがない。エレノアもまた、アルヴィンに心を許したことがない。だから失恋の痛みはなかった。ただ、大勢の前で見せ物にされた不快さだけが、薄い膜のように胸を覆っている。
「承知しました。どうぞお幸せに」
それだけ言って踵を返すと、背後でアルヴィンが鼻白んだ気配がした。もっと取り乱すことを期待していたのだろう。泣いて縋りつけば、「それでも私はリゼットを選ぶ」と英雄気取りで突き放す筋書きまで用意していたに違いない。だが、その期待に応える気はない。
問題はむしろ、帰宅後に待っていた。
「エレノア。お前にはフェルゼン公爵家に嫁いでもらう」
父の書斎に呼ばれたエレノアを待ち受けていたのは、淡々とした宣告だった。
「本来はリゼットが嫁ぐ予定だったが、セルウィン家との縁談がまとまった以上、代わりの者が必要だ。王家からの打診を断れば、クレスウェル家の立場が危うくなる。お前が適任だろう」
フェルゼン公爵家。王都から馬車で二週間はかかる北方辺境の領地を治める家だ。そしてその当主は──
「……『氷の公爵』ですか」
父は目を逸らした。母も黙って俯いている。
氷の公爵、ルシアン・フェルゼン。強大すぎる氷の魔法を持ち、感情を持たぬ冷血漢。過去には機嫌を損ねた使用人を文字通り氷漬けにしたと噂される、王国屈指の危険人物。社交界では「あの男のもとに嫁ぐくらいなら修道院に入った方がまし」とまで言われている。
「わかりました」
エレノアはあっさりと頷いた。
父が驚いたように目を見開く。
「……抵抗はしないのか」
「ここにいても妹の引き立て役を続けるだけでしょう。それなら北の辺境で静かに暮らす方がよほど気楽です。凍らされないように大人しくしていればいいだけの話ですから」
父は何か言いかけたが、結局口をつぐんだ。罪悪感があるのかもしれないし、ないのかもしれない。どちらでも構わなかった。
一週間後、エレノアは必要最低限の荷物だけを持って、北へ向かう馬車に乗り込んだ。見送りに来たのは、幼い頃から仕えてくれた老侍女が一人だけ。リゼットも両親も姿を見せなかった。
老侍女が涙ぐみながら手を振るのに小さく手を振り返し、エレノアは馬車の窓に背を預けた。
景色が緑から白へと移り変わっていく。空気が冷たく澄んでいく。
──まあ、なんとかなるだろう。
根拠のない楽観ではない。なんとかするしかないから、なんとかする。エレノアはいつもそうやって生きてきた。
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フェルゼン公爵の居城は、白銀の山脈を背負うように聳える巨大な城だった。壁も床も、どこか氷の結晶を思わせる冷たい色合いで統一されている。窓から差し込む光が白い石材に反射して、廊下全体がうっすらと青白く輝いていた。
美しい城、とエレノアは素直に思った。
大広間に通され、しばらく待たされた後、扉が開いた。
現れたのは、眉目秀麗な男だった。
銀灰色の髪が冬の月光のように淡く輝き、凍てついた湖を思わせる蒼い双眸が、まっすぐにエレノアを射抜く。整いすぎた顔立ちは精緻な彫像のようで、口元は真一文字に引き結ばれている。背が高く、纏う空気は文字通り冷たい。彼が一歩踏み出すだけで、広間の温度が目に見えて下がった。
ルシアン・フェルゼン公爵。噂に違わぬ──いや、噂以上の存在感だった。
「クレスウェル家の息女か」
低く、抑揚のない声。水底に沈む石のように冷たく、重い。
「エレノア・クレスウェルです。本日よりお世話にな──」
びしり、と音がした。
エレノアの足元から、透明な氷の結晶が這うように広がっていく。壁に霜が這い上がり、吐く息がたちまち白くなった。天井の燭台の炎が揺らめき、広間の温度が一瞬で十度は下がる。
「ひいっ──!」
背後で従者が悲鳴を上げた。控えていたメイドたちが、蜘蛛の子を散らすように扉へ殺到する。案内役の老執事でさえ顔を青ざめさせて後ずさっていた。
──これが、魔力の暴走。
エレノアは足元を見下ろした。靴底から伝わる冷気が痛いほどだ。ドレスの裾に薄い霜が張りつき始めている。
顔を上げた。
ルシアンの蒼い目が、じっとエレノアを見ていた。
値踏みするような、あるいは試すような視線。「怯えて逃げ出すだろう」と最初から決めつけている目。何十人、何百人とそうやって人を見てきた目だ。期待することをとうに諦めた目。
──この人はずっとこうやって人を遠ざけてきたのか。
エレノアは一歩、前に踏み出した。
氷が靴底で高い音を立てる。もう一歩。冷気が膝を刺す。さらに、もう一歩。
ルシアンの表情が初めて揺らいだのが見えた。眉がわずかに動き、蒼い目がかすかに見開かれる。
エレノアは彼の前まで来ると、その大きな手を両手で包み込んだ。
指先が痺れるほどの冷たさだった。手袋越しにさえ、芯まで凍えるような冷気が伝わってくる。それでもエレノアは手を離さなかった。
「──とても綺麗な魔法ですね」
長い沈黙が落ちた。
広がり続けていた氷が、ぴたりと止まった。
ルシアンは口を開き、何かを言おうとし、唇を閉じ、もう一度開き、結局何も言えなかった。蒼い瞳が落ち着きなくエレノアの顔と、握られた自分の手の間を往復している。
白い頬にうっすらと朱が差すのを、エレノアは見逃さなかった。
「……変わった女だ」
ようやく絞り出されたのはそれだけだった。
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翌朝のことだった。
あてがわれた客室──暖炉の火がふんだんに焚かれた、辺境にしては驚くほど快適な部屋──で朝食をとっていると、控えめな扉のノックの後に、メイドが何かを運んできた。
「公爵様からです」
銀の盆の上に載っていたのは、手のひらに収まるほどの氷の彫刻だった。薔薇の花束を象ったそれは、朝日を受けて虹色に煌めいている。花弁の一枚一枚まで精緻に彫り込まれ、まるで本物の薔薇を一瞬で凍らせたかのようだった。
そこに一枚の紙が添えてある。
飾り気のない、角張った筆跡。
『花を贈るのが礼儀だと本にあった。だが私が花に触れると枯れるので氷で作った。不快であれば捨ててくれ。──ルシアン』
エレノアはしばらくその紙片を見つめ、それから氷の薔薇を手に取った。ひんやりと冷たく、けれど不思議と溶ける気配がない。魔力で維持されているのだろう。
「……不器用な人」
思わず口元がほころんだ。
朝食の後、エレノアは自ら公爵の執務室を訪ねた。ノックをすると、わずかな間の後に「入れ」と短い声が返る。
扉を開けると、山のような書類に囲まれたルシアンが椅子に座っていた。エレノアの顔を見た瞬間、彼の手元の書類の端がパリ、と凍った。
「薔薇ありがとうございます。本物よりずっと素敵です」
「…………そうか」
ルシアンは視線を書類に落とした。だが文字を追っている様子はなく、ペンを持つ手が微かに強張っている。沈黙が続く。
ふと、エレノアは気がついた。執務室の窓の外で、ちらちらと小さな雪が舞い始めている。空は晴れているのに。
「雪……?」
「……気にするな。たまにある」
嬉しいと雪が降るのだと、後で古参のメイドから聞いた。
そこからの日々は、エレノアにとって発見の連続だった。
ルシアンという人は、噂とは何もかもが違っていた。冷酷でも冷血でもない。ただ、強すぎる氷の魔力が常に体から漏れ出すせいで、幼い頃から人に触れることができなかったのだ。
母親に抱きしめてもらおうとして、母の腕を凍傷させてしまったのが五歳の時。それ以来、誰もルシアンに触れようとしなくなった。近づく者は皆、肌を刺す冷気に怯え、顔を歪め、逃げていった。
感情を出せば魔力が暴走する。だから表情を殺すことを覚えた。余計なことを言えば人が怯える。だから言葉を最小限にすることを覚えた。
そうして「氷の公爵」が出来上がった。
人を凍らせたという噂も真相は違った。酔った客人がルシアンに剣を向けた際、防衛本能で魔力が発動し、客人の足元が凍りついたのだ。命に別状はなかったが、尾ひれがついて「氷漬けにした」という恐ろしい話に変わった。ルシアンは訂正しなかった。訂正しても信じてもらえないと知っていたから。
エレノアがそれを知ったのは、古い日記や使用人たちの断片的な証言を地道に集めたからだった。ルシアン本人は何も語ろうとしない。弁解することに慣れていないのだ。
だからエレノアは、言葉ではなく行動で距離を縮めることにした。
最初に変えたのは、食事だった。
「ルシアン様は、いつもお一人で召し上がっているのですか」
「ああ。同席すれば料理が冷える。迷惑だろう」
「構いません。冷めた料理も工夫次第で美味しくいただけます。ご一緒させてください」
渋々という体で承諾したルシアンだったが、翌日からエレノアの席にだけ温かい料理が並ぶようになった。彼の座る側のテーブルにはうっすらと霜が張るが、エレノアの周囲だけは注意深く冷気が避けられている。
魔力を精密に制御して、エレノアの周りだけ凍らせないようにしているのだ。それがどれほどの集中力を要するのか、エレノアには想像がつく。毎食、ルシアンの額にうっすらと汗が滲んでいた。
「無理をなさらなくても──」
「無理ではない」
短く遮られた。その声がわずかに硬いのは、意地なのか照れなのか。
次に変わったのは、書庫だった。
エレノアが読書好きだと知ったルシアンは、翌日には書庫のエレノア用の閲覧席に、氷で作られた美しいブックスタンドを設置していた。ページを押さえる必要がないよう工夫された精巧な作りで、本の厚さに合わせて角度が変わる。
「前の席は窓から遠くて暗かっただろう。こちらの方が光が入る」
席の位置まで変えてある。確かに、新しい席は窓辺の最も明るい場所だった。
「ありがとうございます。でも、この席はルシアン様がいつもお使いでは?」
「私は暗い方が落ち着く」
嘘だ。昨日まで彼が窓辺の席で分厚い政務書を読んでいたのをエレノアは知っている。だが指摘はしなかった。その代わりに、
「でしたら、隣に椅子をもう一脚置いていただけますか。一人で読むより、誰かが近くにいる方が落ち着くので」
ルシアンは数秒間沈黙し、それから小さく頷いた。
以来、二人は毎日のように書庫で隣り合って本を読んだ。会話はほとんどない。ページをめくる音と、時折窓を叩く風の音だけが響く静かな時間。けれどエレノアが横目で見ると、ルシアンの表情はわずかに──ほんの微かに柔らかくなっていた。
そうした日々の積み重ねの中で、印象的な出来事がいくつかあった。
ある夏の日。辺境とはいえ、さすがに真夏の昼間は暑い。エレノアが書庫で額の汗を拭った瞬間、部屋の温度がすっと下がった。振り向くと、ルシアンが何食わぬ顔で本を読んでいる。
「ルシアン様、いま──」
「気のせいだろう」
その日から、エレノアのいる部屋はいつも最適な温度に保たれるようになった。
またある日、エレノアが何気なく「子供の頃に食べた氷菓が懐かしい」と呟いた翌朝、朝食のテーブルに十二種類もの手作り氷菓が並んだ。苺、蜂蜜、葡萄、林檎、薄荷、花梨、桃、杏、木苺、柘榴、梨、蜜柑。
「……これは」
「好みがわからなかった。全種類作ったから、口に合うものを選べ」
ルシアンは平然と言ったが、キッチンの料理長が後でこっそり教えてくれた。
「旦那様は昨夜から一睡もせず厨房にこもっておられました。味見をしてもご自分では温度がわからないからと、使用人を何度も叩き起こして……」
エレノアは全種類を一口ずつ味見して、「全部美味しかったです」と答えた。
ルシアンは「そうか」とだけ言って顔を背けたが、窓の外にまた、晴れた空から雪がちらちらと舞い始めた。
ある晩のことだった。エレノアが廊下で足を滑らせたとき──氷の城での生活にはこういう危険もある──咄嗟にルシアンが腕を掴んで支えた。
そしてすぐに手を離し、弾かれたように一歩退いた。
「すまない──凍傷に」
「大丈夫です。ほら」
エレノアが腕を見せると、確かに触れられた箇所はひんやりしているが、凍傷の兆候はない。
「……そうか」
「ルシアン様は前よりずっと、魔力を制御できるようになっていますね」
ルシアンは黙った。だがその沈黙は、否定ではなかった。
翌日から、ルシアンは手袋を外してエレノアの前に現れるようになった。
二人で庭を歩くとき、不意にルシアンの指がエレノアの指先に触れることがあった。すぐに引っ込められるそれを、エレノアはある日、そっと握り返した。
冷たかった。けれど凍えるような冷たさではなく、秋の朝の空気のようなひんやりとした清涼さだった。
「…………なにしてるんだ」
「温めて差し上げてます」
ルシアンは長い間、繋がれた手を見下ろしていた。
「エレノア」
「はい」
「……いや、何でもない」
何でもないはずがないのだが、エレノアは微笑んでそれ以上は聞かなかった。
冬が来て、春が来た。
氷に閉ざされた辺境の城で、二人の距離は少しずつ、しかし確実に縮まっていった。
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一方その頃、セルウィン侯爵子息アルヴィンの領地は、目も当てられない有様になっていた。
帳簿は合わない。領民からの嘆願書は山積み。交易の契約は更新期限を過ぎて違約金が発生し、税の計算は滅茶苦茶。かつて整然と回っていた領地運営が、あらゆる箇所で軋みを上げ、もはや修復不可能な域に達しつつあった。
「リゼット! 商会との交渉記録はどこだ!」
「え? そんなの知らないわ。お姉様がいつもやってたことでしょう?」
リゼットは寝台の上で高価な菓子をつまみながら、面倒そうに答えた。その指には、エレノアが残した余剰金で買った宝石の指輪が三つも光っている。
アルヴィンは頭を抱えた。
婚約時代、煩雑な書類仕事や領地の実務を完璧にこなしていたのは、全てエレノアだった。交易商との値引き交渉、領民の紛争調停、税務の最適化、備蓄の管理。地味で目立たない仕事ばかりだ。社交の場では華やかな妹の陰に隠れて存在感のない女だと思っていた。
だが蓋を開けてみれば、アルヴィンの領地がまともに機能していたのは、全てエレノアの手腕によるものだったのだ。
リゼットは華やかで愛嬌があり、夜会の花形だった。だが、それだけだ。実務能力は皆無で、帳簿の読み方すら知らない。浪費だけは一人前で、エレノアが積み上げた余剰金は、わずか数ヶ月で底をついた。
「……エレノアを、取り戻さなければ」
アルヴィンは歯噛みした。
あの女は今、北方辺境の「氷の公爵」のもとにいる。あんな化け物の傍で、さぞ怯えて泣き暮らしているに違いない。自分が迎えに行けば、かつての婚約者の顔を見て安堵し、泣いて縋りついてくるはずだ。そうに決まっている。
そう思えること自体が、アルヴィンがエレノアという女を何一つ理解していなかった証拠なのだが、彼にはその自覚もなかった。
身勝手な確信を胸に、アルヴィンは馬車を北に走らせた。
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フェルゼン公爵邸の庭園は、一面の銀世界だった。
だがよく見ると、その中にきらきらと光る花々が咲き誇っている。氷でできた花だ。薔薇、百合、鈴蘭、勿忘草。ルシアンがエレノアのために造った、決して枯れない花園。季節ごとに新しい花が加わり、今では城の外壁まで氷の蔦が美しく這い上がっている。
エレノアがその庭を散歩していたときだった。
血相を変えた若い従者が駆け寄ってきた。
「奥様! 門前にセルウィン侯爵子息と名乗る男が現れまして……面会謝絶と伝えたのですが、『私はエレノアを迎えに来た婚約者だ!』と強引に押し通ろうと暴れておりまして」
エレノアはわずかに眉をひそめた。
「騎士たちには手出し無用と伝えてください。ルシアン様の耳に入る前に、私が片付けます」
あんな男のせいで、ルシアンの穏やかな時間が乱されるのは我慢ならない。エレノアは静かに庭園の入り口──正門の内側へと向かった。
門兵に取り押さえられそうになりながら喚いていた男が、エレノアの姿を見つけて目を輝かせる。
「エレノア!」
聞き覚えのある声が響いた。
アルヴィンが門兵を振り払い、雪を踏みしめながら近づいてくる。長旅でやつれた顔。服装もかつての華やかさは失せて、みすぼらしいとまでは言わないが、侯爵子息の威厳はもはやない。だがその目だけは相変わらず傲慢な光を宿していた。
「迎えに来てやったぞ! お前が本当に愛しているのは私だろう。こんな辺境の化け物の城から救い出してやる。さあ、荷物をまとめろ」
アルヴィンが自信満々に手を差し伸べる。
エレノアはその手を一瞥した。
かつてこの手に指輪をはめてもらったことがある。何の感慨もわかなかった。今、この手に触れたいとも思わない。
ゆっくりと顔を上げた。
冷ややかな目だった。夫に似て──いや、北の冬そのもののように冷たい。
「申し訳ありませんが」
穏やかな声で、エレノアは言った。
「あなたの顔を見るだけで反吐が出ます。お引き取りいただけますか」
アルヴィンの表情が凍りついた。
「な──っ、この恩知らずが! 私がわざわざこんな辺境まで来てやったのに! あの氷の化け物がそんなにいいのか!」
逆上したアルヴィンがエレノアの腕を掴もうと、手を伸ばした。
その瞬間。
地面が爆ぜた。
凄まじい轟音とともに、アルヴィンの足元から巨大な氷柱が噴き出した。前後左右、四方八方から鋭利な氷の槍が突き出し、指一本も動かせないように完全に封じ込める。氷柱の先端がアルヴィンの喉元すれすれで止まり、逃げ場は一寸もない。
「──私の妻に、触れるな」
声が降ってきた。
庭園の奥から姿を現したルシアンの全身から、目に見えるほどの冷気が立ち昇っている。蒼い双眸は凍てついた刃のように鋭く、纏う威圧は一国の軍勢にも匹敵する。穏やかな読書家の面影はどこにもない。これが「氷の公爵」の本性──触れた者すべてを凍てつかせる、王国最強の魔法使い。
「ひ、化け物──」
「ああ、その通りだ。私は化け物だよ」
ルシアンが一歩進むたびに、氷柱がさらにアルヴィンに迫る。もう一寸動けば刃が肌を裂く距離だ。
「その化け物の妻に手を上げようとしたのは、ずいぶんと愚かな判断だったな」
ルシアンの声には怒りの熱すらなかった。事実を読み上げるような平坦さ。それがかえって背筋を凍らせる。
「──セルウィン侯爵家。昨年度の領地税の不正申告。王都第三商会への未払い金、総額四万エクラ。領民への不当な賦役の強制。このうち二件は国法違反に該当する。すべての証拠は既に宰相府に提出済みだ」
アルヴィンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「な……なぜ、それを……!」
「エノレアがどのような経緯で嫁がされたのか、私は徹底的に調べた。お前の家の不正も、そのときに全て把握している」
ルシアンの目が、一瞬だけ刃金のような冷たい怒りを帯びた。
「エレノアを道具のように扱い、不要になれば捨て、都合が悪くなれば取り戻しに来る。その恥知らずな根性だけは、凍らせても治らないだろうな」
最後の一歩。ルシアンがアルヴィンを見下ろす。その影だけで、アルヴィンは歯の根が合わなくなっていた。
「私の最愛の妻に手を伸ばした罪は重い。一族もろとも凍りつく覚悟をしておけ」
アルヴィンは恐怖と寒さに耐えきれず、白目を剥いて崩れ落ちた。
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騎士たちがアルヴィンを引きずって連行していく。その背中を、ルシアンは冷たい目で見送っていた。
やがて馬車の車輪の音も遠ざかり、庭園に静寂が戻る。冷気が少しずつ和らぎ、凍りついた花々が元の輝きを取り戻していく。
ルシアンはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりとエレノアの方を振り返った。
途端に、あの絶対零度の威圧感が嘘のように消え失せた。
さっきまで侯爵子息を震え上がらせていた氷の公爵が、目に見えておろおろし始めた。視線が泳ぎ、指先が所在なげに動く。足元の氷が不規則にぱきぱきと鳴っている。
「すまない。怖い思いをさせてしまっただろうか。あの男がお前に触れようとしたのが許せなくて、つい──だがあんな姿を見せてしまっては、お前も私を恐ろしいと」
言葉がどんどん尻すぼみになっていく。声の端がかすかに震えている。
威風堂々と敵を打ち据えた男が、たった一人の女の前ではこんなにも脆い。
「嫌わないでくれ」
掠れた声で落ちた、それはほとんど懇願だった。大型犬が叱られるのを待つような目で、ルシアンはエレノアを見つめていた。
エレノアは数秒、彼を見つめた。
最初に会った日のことを思い出す。凍てついた広間で、全員が逃げ出す中、この人の手を握った。冷たくて、震えていた。あの時と同じだ。見た目の恐ろしさの奥に、ただ「拒絶されること」を恐れる不器用な人がいる。
ふっと、笑みがこぼれた。
穏やかに。温かく。愛おしさを込めて。
一歩近づき、両手を広げ、ルシアンの広い胸にそっと額を預けた。
「あなたほど温かい人を、怖いなんて思いませんよ」
ルシアンの体が石のように強張った。
それから、長い間を置いて。
恐る恐る。壊れ物を扱うように。ガラス細工に触れるように。
長い腕が、エレノアの背にそっと回された。
「──温かいのは」
かすかに震えた声。
「お前がいるからだ」
ルシアンの耳は、冬の林檎も敵わないほど真っ赤だった。
頭上から、きらきらと雪の結晶が降りてくる。晴れた空から降る、嬉しい時の雪。
氷に覆われた庭園の中で、二人の周りだけが春のように暖かい。
しばらくして、エレノアはルシアンの胸から顔を上げた。
「ルシアン様」
「……なんだ」
「元婚約者に、一つだけ感謝していることがあります」
ルシアンの眉が怪訝そうに寄る。
「あの人が私を捨ててくれなかったら──あなたに出会えなかった」
ルシアンの全身から、ばちん、と盛大に冷気が弾けた。
庭園の氷の花が一斉にまばゆい光を放ち、まるで万華鏡のように虹色の光がふたりを包む。その中心でルシアンは片手で顔を覆ったが、耳どころか首筋から指先まで真っ赤に染まっているのは隠しようがなかった。
「……ずるいことを言う」
「ふふ。お互い様です」
エレノアは笑って、もう一度その手を握った。
冷たい手。けれどもう、痛みはない。
遠い北の辺境にある、氷に閉ざされた公爵領。
けれど、ここには確かな温もりがある。
身代わりの花嫁は、今では誰よりも愛された妻になっていた。
※後日談
セルウィン侯爵家は不正の数々が明るみに出て爵位を剥奪された。アルヴィンは領地を失い、リゼットには逃げられ、全てを失って王都の片隅で落ちぶれた。
エレノアの両親はフェルゼン公爵家の報復を恐れて謝罪の書状を送ってきたが、エレノアは「お気遣いなく。おかげさまで幸せに暮らしております」とだけ返した。
氷の公爵が実は極度の愛妻家であることは、公爵領の使用人たちの間では周知の事実となっている。「奥様がくしゃみをされると城中に毛布が飛んでくる」「奥様が笑うと庭に新しい氷の花が咲く」等の目撃談は枚挙に暇がなく、領内で最も人気のある噂話である。
(了)




