領地経営への介入と「シンプルな帳簿術」
ローナは、物理的な妨害が失敗に終わると、次にマクナル様の最も大切なもの、すなわち「辺境伯領の経営」に手を出してきた。
あの女は男爵領に滞在しながらも、辺境伯領の経営状況について様々な情報を集め、マクナル様に「助言」という名の介入を始めた。
「マクナル様。辺境伯領の穀物の在庫管理は、あまりにも杜撰ではございませんか」
ある日の会談で、ローナはそう切り出した。彼女は、王都の公爵家が持つ、複雑で洗練された会計帳簿のコピーをマクナル様に見せた。
(また「素朴」か。そして、複雑なものを正しいものだと錯覚させる、典型的な貴族の傲慢さ)
マクナル様は、ローナの提案に一瞬、真剣に考え込んだ。彼の領地経営は常に厳しいのだ。
「ローナ嬢の言うことも一理ある。現在の帳簿はシンプルすぎるところがあるかもしれない」
私がここで何も言わなければ、ローナは王都の帳簿を導入させ、それを管理する「実権」を手に入れるだろう。
私はマクナル様とローナの会談に同席し、静かに口を開いた。
「ローナ様のご提案、大変素晴らしいですわ。王都の公爵家は、やはり素晴らしい管理体制をお持ちなのですね。ですが、マクナル様」
私は、マクナル様の目の前に、あらかじめ用意しておいた、一枚の紙をそっと差し出した。それは、前世で学んだ「ビジュアル・マネジメント」の手法に基づいた、非常にシンプルな在庫管理表だった。
「領地の運営で最も大切なのは『即時性』と『可視性』だと、私は思います。この帳簿をご覧ください。赤は『危険な在庫不足』、青は『通常在庫』、黒は『入荷と出荷』。全ての在庫を、この一枚の紙で、一目で把握できるのです」
夫は、私の帳簿を見て、目を見開いた。
「これは、確かに、一目でわかる。複雑な計算や、手間のかかる記入が必要ない。辺境の現場で働く者たちにとって、これほどありがたいものはないだろう」
あの方は、ローナが持ってきた分厚い帳簿と、私が持ってきた一枚の紙を、交互に見比べた。
ローナは、私の「シンプルな帳簿術」の前に、反論の言葉を見失っていた。
「そ、そんな単純なもので、公爵領の経営が成り立つとでも。辺境伯の地位を軽んじてはいけませんわ」
「ローナ様。公爵領と辺境伯領では、経営の要点が異なります」私は冷静に言った。
「公爵領はすでに完成された巨大な組織です。複雑な帳簿は、不正を防ぐために必要でしょう。しかし、辺境伯領は迅速な判断と、現場の労働者による正確な実行力が重要です。複雑な帳簿は、むしろ現場の混乱を招きます」
辺境伯様は立ち上がり、私の肩を抱いた。
「アナスタシア。そなたの言う通りだ。辺境の地で、王都の複雑な慣習を持ち込むのは、むしろ害になる。このシンプルな帳簿こそ、この領地の財産を守る最善の方法だ」
そして、彼はローナに優しく、しかし有無を言わさない口調で言った。
「ローナ嬢。君の助言は感謝する。しかし、この領地の経営は、妻と私で充分だ。王都の最新の慣習は、王都で役立ててくれ」
ローナは、領地の経済権を奪うという最後の理性的な試みも失敗に終わり、悔しさに唇を噛み締めていた。
「君は本当に、どこでそんな知識を身につけたんだい。王都の教育では、あのような合理的な思考は教えない」
「愛する夫と、その大切な領地を守るためなら、自然と知恵が湧いてくるものですわ」
「そうか。その知恵と愛を、私だけに注いでくれる君を、私は心から愛している」




