悪女の最初の罠は「不衛生」
ローナ・ド・フィオレンツァ公爵令嬢が、隣接する男爵領に到着したのは、その一週間後だった。
マクナル様は形式上、私と二人で彼女を出迎えることになった。
「マクナル様、お久しぶりですわ」
馬車から降りてきたローナは、確かに絶世の美女だった。完璧なまでに計算された微笑み、そして王都の流行を体現したドレス。周囲の辺境の貴族令嬢たちとは一線を画していた。
公爵令嬢は優雅にマクナル様に挨拶をしたが、私のことは視界に入っていないかのように無視した。
「ええ、ローナ嬢。わざわざ遠路はるばる、ご苦労様」
私の夫は形式的な挨拶を返し、私の腰に手を回した。
「こちらは、私の愛する妻、アナスタシアだ」
マクナル様が私をその女性の前に押し出すように紹介すると、ローナの表情が初めて微かに歪んだ。すぐにプロの微笑みに戻したが、その一瞬の敵意を見逃さなかった。
「まあ、アナスタシア様。辺境の空気がお似合いの、素朴な美しさですわね」
素朴。それは社交界では「洗練されていない」「田舎者」という遠回しの侮辱だ。
(ほう、最初から仕掛けてきたか。でも、私はこの「素朴」な生活の方が、前世のドロドロした人間関係よりよっぽど快適なのよ)
私は穏やかに微笑み返した。
「ありがとうございます、ローナ様。王都の華やかさも素敵ですが、辺境の自然の中で、貴方様のそばで穏やかに暮らす日々が、私には何よりの喜びでございます」
「ふふ、お幸せそうで、何よりですわ」
ローナは、私の幸せを強調する言葉に、顔を引き攣らせた。マクナル様は私の頭を優しく撫で、あの女を男爵領まで送る馬車へと誘導した。
その夜、ローナを歓迎するためのささやかな夕食会が男爵領の館で開かれた。
食事の終盤。ローナは運ばれてきたデザートのフルーツタルトを一口食べた後、急に顔を青ざめさせた。
「うっ。これは、なんというお味ですこと。シェフを呼びなさい」
彼女はハンカチで口元を押さえ、悲劇のヒロインのように訴えた。
「このタルトは腐っているわ。辺境の館は、食器の管理すらできていないのね。アナスタシア様、辺境伯夫人として、この館の衛生状態に責任があるのではないかしら」
ローナは、公の場で私を貶め、辺境伯領の名誉を傷つけようとした。
私は冷静に考えた。この季節のタルトが腐っている可能性は低い。ならば、原因は食器にある。ローナは王都から、香りの強い高級洗剤を持ち込んでいる。
「マクナル様、失礼ながら、ローナ様のデザートに使われた『皿』に問題があるかもしれません」
辺境伯様は驚いた顔をしたが、私の真剣な眼差しに頷いた。
「執事。ローナ嬢の皿と、私とアナスタシアが食べた皿の、洗浄方法について説明しなさい」
執事が説明した。マクナル様と私の皿は、辺境の慣習に従い、熱湯とシンプルな天然素材の洗剤で洗われたもの。ローナの皿は、彼女が王都から持参した、香りの強い洗剤で洗うよう、ローナの使用人から特別な指示があったという。
「ローナ様。もしかして、その洗剤の香料が、フルーツの酸味と混じり合い、不快な風味を生み出しているのではございませんか」
私はローナに真っ直ぐに尋ねた。
マクナル様は私の説明に納得したように頷いた。
「なるほど。アナスタシアの言う通り、私の皿は石鹸と熱湯で洗われていたが、何も問題なかった。ローナ嬢の皿だけが特別な洗浄をされた結果、異臭と誤解される風味が生まれたと考えるのが自然だ」
あの方は優しくローナに言った。
「ローナ嬢。辺境では、熱湯による殺菌と、自然な素材の風味を損なわないシンプルな洗浄法を、何よりも重視している。君の持ってきた洗剤も素晴らしいものだろうが、明日からは、屋敷の洗浄法に従ってくれると助かる」
ローナの顔は、怒りと屈辱で真っ赤になっていた。彼女の最初の悪意は、私の「衛生と化学の常識」によって、滑稽な失敗に終わったのだ。
マクナル様は、食事会が終わった後、私を強く抱きしめてくれた。
「さすが、私の妻だ。まさか、皿の洗浄にまで気が回るとは。そなたの鋭い観察眼と、常識的な判断力に、心から感謝する」
「私、妻として、マクナル様とこの屋敷の名誉を守りたいだけです」
「ああ、守ってくれた。ありがとう、アナスタシア」




