目覚めたら最高のスパダリ夫がいた
目を覚ました瞬間、目の前にある光景に思わず息を飲んだ。天蓋付きのベッド。絹のような肌触りのシーツ。窓からは燦燦と太陽の光が差し込み、見慣れない鳥のさえずりが聞こえる。
「ここ、どこかしら」
思わず口から出た言葉は、聞いたことのない、しかし不思議と滑らかに発音できる言葉だった。前世はブラック企業で働く三十路近のOL、橘アカリだったはず。激務の末、何かのアクシデントで命を落としたのだろうか。恐る恐る自分の手を見る。細く、白く、爪先まで手入れが行き届いた、私の手ではなかった。
「おや、起きたのかい、アナスタシア」
その声に、心臓が跳ね上がった。声の主は、ベッド脇の椅子に座っていた。思わず二度見するほどの美しさだった。深い青の瞳、彫刻のように整った顔立ち、そして、その肩から胸にかけての厚みは、騎士としての鍛錬を物語っている。身につけている服も上質で、この方がただの貴族ではないと一目でわかった。
「マクナル様」
なぜか、あの方の名前が自然と口をついて出た。マクナルという響きが、私の中で深く、温かい感情を呼び起こす。あの方は優しく微笑み、私の頭を撫でた。
「昨日は少し熱があったんだ。寝不足が祟ったのだろう。もう大丈夫かい」
その触れ方、眼差し、声のトーン。それは、心から妻を心配し、愛している夫のそれだった。混乱する頭の中で、私はようやく理解した。私は、この世界の公爵令嬢アナスタシアという女性の身体に転生したのだ。そして、目の前のこの美丈夫は、私の夫。辺境伯マクナル・ド・リリウスという、辺境を治める領主様らしい。
(え、ちょっと待って。転生したら、イケメンで、優しくて、地位もある、スパダリの夫と結婚してたってこと?)
前世では、仕事に追われ、恋愛とは縁遠い生活を送っていた私にとって、それはもはや夢物語だった。小説や漫画でしか見たことのない、あまりにも都合の良い設定に、私は呆然とするしかなかった。
「アナスタシア。もしや、まだ具合が優れないのか」
私の夫は不安そうな顔になり、おもむろに立ち上がった。そして、ひんやりとした美しい指で、私の額に触れた。
「熱は下がったようだね。よかった。だが、今日は安静にしていなさい」
「ありがとうございます」
思わず敬語になってしまう。だって、この辺境伯は完璧すぎた。こんな完璧な人物に、一介のOLだった私が、愛される妻として扱われているなんて、信じられない。
「いいかい、アナスタシア。君は私の妻であり、このリリウス辺境伯領の女主人だ。何も恐れることはない。領地のこと、屋敷のことは、君が完全に回復してからでいい」
マクナル様はそう言うと、私の手を握り、そっと口付けた。その優雅な動作に、私は頬が熱くなるのを感じた。
その日から、私は辺境伯夫人としての生活を始めた。屋敷の管理は、私が思っていたよりもずっと大変だったが、前世の経験や、アナスタシアの記憶に助けられ、なんとかこなしていけた。そして、マクナル様は本当に素晴らしかった。朝は早くから領地経営と軍事の仕事に取り組み、夜はどんなに遅くなっても必ず私に時間を割いてくれた。
「そなたが淹れてくれるハーブティーは、王都のそれよりも心を落ち着かせてくれるよ」
「アナスタシアの笑顔が、私の明日の活力だ」
恥ずかしいほどの甘い言葉と、惜しみない愛情。私はすっかりこの夫に夢中になっていた。
そんなある日、マクナル様は私に一つの情報を伝えた。
「王都から、客人が来る。ローナ・ド・フィオレンツァ公爵令嬢だ。病弱のため、この辺境の地で療養を兼ねてこの地に来たいそうだ」
ローナ。その名前を聞いた瞬間、私の記憶の中のアナスタシアの体が微かに震えた。アナスタシアの記憶によれば、あの女はマクナル様が辺境伯になる以前から、この方を狙っていた。マクナル様が、公爵家の娘との結婚を断り、私と結婚したため、彼女は激しく私を憎んでいる。
「わかっているよ、アナスタシア」
愛する夫は、私の手を優しく包み込んだ。
「彼女は、私が辺境伯になった今も、私を諦めていないようだ。私の地位と、この領地の将来を手に入れようと画策している。だが、君だけが私の妻だ。私にとって、君以上に価値のある人間など、この世界にはいない」
「君は、君らしくいてくれればいい。もしあの女が君を傷つけるような言動を取ったら、遠慮なく私に言いなさい。私は、君を守るためなら、公爵家を敵に回すことも厭わない」
彼の愛の深さに、私は目頭が熱くなった。
「ありがとうございます、マクナル様。私も、この最高の人生を、誰にも壊させません」




