湖畔の家
僕の家は、都内からさほど遠くない郊外の大きな湖畔にある。僕は、生来内気な性格で、あまり家から出ることを好まなかった。その故か、幼少時代から、戸内で積み木をしたり、お絵かきをしたり、テレビを見て時間を過ごすことが多かった。その頃から、両親は不和であった。夫婦喧嘩は絶えず、その一部始終を僕は扉の隙間から覗いて見ていた。いつも手を出すのは、母の方であった。母が、言いがかりをつけて、父は黙って母の攻撃にも耐えていた。そんな母が僕は嫌いだった、と子供心に記憶している。そんな対立状態が続いていたが、そんな時、僕は、窓から見える広大な湖の湖面をジッと見つめて心を落ち着かせるのであった。
それは、まだ僕が幼い頃である。そんな母が、ある日を境に、プツンと家からいなくなった。突然のことである。その時、父は珍しく酒を飲んだ。普段あまり、酒を飲まない父である。それで、不思議に思い、あとになって、父に母が消えた理由を聞いたことがある。すると、父はジッと僕の顔を見つめてから、どこかの男と駆け落ちでもしたんだろうと吐き捨てるように言ったのを覚えている。僕も、あえて詮索しなかったし、父も、そのことには、あまり触れたくなかったらしくて、その話はそれきりになった。
それから、僕が、小学校に行く頃になると、内気な性格が影響したのか、よく学校でいじめに遭った。僕の筆箱に、生きたヒキガエルが入れてあったり、靴箱に糞が入っていたり、同級生のガキ大将に喧嘩を売られたりと、さんざんに嫌な思いをした。
中学の頃は、そんなに嫌な思いもせずに、勉学に励むことが出来た。その頃からだろうか、僕は湖で釣りをすることを覚えた。簡単な投げ釣りだったが、よくコイやヘラブナを釣っては、その日の晩に、アライにして、父と仲良く食事したようだ。父とは、普段からあまり話すこともなかった。でも、僕が釣りの自慢話をすると、よくうなづいて、話を聞いてくれるのであった。その時から、釣りをするのが、僕の趣味になっていたようだ。その趣味は、今でも続いている。
しかし、問題は高校生になってからである。その頃から、僕は、学校の不良仲間と付き合うことを覚えた。いわゆる、ヤンキーと呼ばれるような奴らを、もっと悪質にしたような連中である。そいつらと付き合うようになって、一緒にスケバンを張るような女たちとも交際するようになった。こんなことは、おとなしい父に言えるわけもなく、いつも会うのは、学校だった。そして、彼らと一緒に体育館の裏で、皆で輪になって雑談をしているうちに、僕は、未成年にもかかわらず、煙草の味を知るようになった。旨かった。その味は、今でも鮮明に覚えている。それに、駅近のショッピングモールで、仲間と組んで万引きもした。あのスリルはなんとも言えない快感があった。その戦利品は、皆で分け合って、取り分を決めた。
その頃から、不良少女たちと、肉体関係を持つこともしばしばであった。性交するのは、もっぱら、彼女たちの住むアパートであった。それで、僕は初めて女の身体を知った。あの快感も忘れられない。
そんなこんなで、僕の性格は、徐々に粗暴になっていった。それは、だんだんと、父の眼にも触れるようになっていったが、彼は、問題行動を起こさない限りに、黙って見守っているようであった。僕は、そんな父に不満を持つようになった。何で、注意しねえんだよ、という不満である。不思議なことだが、人間、そんなものである。その気持ちが、だんだんと膨れ上がってきたのだ。
それがついに、この前、爆発した。最初は、何気ない学校問題の口争いだったが、最後に、とうとう父に手を掛けたのだ。僕は、争いの最中で、つい魔が差して、近くにあった果物ナイフで、父の腹を刺してしまった。しまったと、思ったが、手遅れだった。それが、晩の10時過ぎだった。父は、真っ赤に染まった腹を抱えて、温厚な性格のゆえに、僕を責めることもなく、早く、救急車を呼んでくれと頼んできた。慌てて僕は、電話すると、救助を頼んだ。それからしばらくして、やって来た救急車に父と一緒に乗り込んで、近くの総合病院まで車を走らせた。その車中で、救助隊員が、詳しい事情を尋ねてきた。僕は、正直に事情を話した。すると隊員は、分かりました、今は一命を争う猶予ならない事態です。ともかく、お父さんの命を救うために万全を期して救命に当たります、と答えた。
病院の廊下の長椅子に腰を掛けて、父の外科手術を待つ間が、僕には、ひどく長く感じられた。やがて、「手術中」の赤ランプが消えて、扉が開き、担架に乗った青白い顔の父を見た。外科医の話では、一命は取り留めたらしい。それで、僕はホッとして、父が術後の病室に運ばれるのを見送った。
翌日になって、僕は父の病室をお見舞いに行った。大きなベッドで、横になった父は、僕の姿を認めると、悲しげに笑った。
「おかげさまでね、だいぶんと良くなったよ」
「父さん、ごめんなさい」
僕は、素直に謝った。
「父さん、僕のせいで..............」
「誰でも間違いは起こすものだ。私は、お前の父親だ。お前のことは、よく知っている。お前が、ほんの子供の時からな」
僕は、父の腹を見た。白い包帯が幾重にも巻かれている。痛々しい。耐えられなかった。
「お前は可愛い子供だった。と、思っていた。あの事件があるまではな」
そう言って、父は、ジッと僕の顔を覗き込んだ。それは、あの、酒を飲んだ時の父の顔であった。
「多分、お前は覚えておらんだろう。まだ幼い子供だ。こんな時だ。今だから、告白する。お前はな、幼い子供の時に、お母さんを湖に突き落としたんだよ。どうだ?覚えているか?」
僕は、驚愕した。僕が母を湖に?まるで、寝耳に水であった。
「私はな、偶然に家の窓から、それを目撃した。お前は、湖に佇む母を、そっと後ろから近づいて背中を突いて水中に落とした。母さんは、泳げない。あっという間に、湖の底に沈んだよ、あっけないくらいにな」
僕は、呆然としていた。自分が母を湖に?信じられない。でも、それが現実なのだ。
そんなことをいう父の顔は哀れだった。悲惨な顔つきをしていた。僕は、父を直視できず、そのまま病室を出ると、自宅に戻った。帰ると、僕は、部屋の窓から、外に広がる湖の水面を見つめて考えた。父の告白。それは、衝撃的であった。実のところ、亡くなった母は、この湖の底に眠っている。この僕が殺して。
僕は悪魔の子であろうか。母を殺し、父も殺しかけた。僕に許されるはずもない。そこにあるのは、冷酷さだけだ。僕は、自分を恨む。誰も悪くない。悪いのは、この僕だ。
僕の自責の念は、この湖に沈めてしまおう。僕の怒りとともに。僕は、湖の暗い湖面を見つめて、そんな想いに耽っていたのだ....................。




